小さな白い猫
増田朋美
小さな白い猫
梅雨の末期ということで、九州のあたりでは大雨になっているようであるが、こちら静岡では、さほど大雨にはならず、道路が冠水するとか、そんなことはなかった。晴れでも雨でも曇りでもやらなければならないのが介護の仕事というものであった。その日も杉ちゃんとブッチャーは、一生懸命水穂産にご飯を食べさせようと、必死になっていた。ちなみに今日の昼食の内容は、たまにはご飯ばかりではなくてパンもいいだろうと言うことで、近隣のパン屋で買ってきた米粉のパンだった。それを水穂さんに食べさせたのであるが、口にいれるところまでは良いものの、水穂さんは、咳き込んではいてしまうのであった。
「もうどうして吐き出してしまうんかな?とにかく食べないと、大変なことになるから頑張って食べて!」
杉ちゃんが言い聞かせても効果無く、水穂さんは、咳き込んで吐いてしまう。
水穂さんの側に座っていた二匹の小さなフェレットが、この有り様を見つめていた。フェレットにしてみれば、いつも遊んでくれている優しいおじさんが、今日はなぜみんなから叱られているのだろうと、疑問に思うかもしれなかった。
「ほら、食べてくださいよ。せっかくパンを買ってきたんだから、吐き出さないで食べてください。」
ブッチャーに言われて、水穂さんは、パンを口に入れたのであるが、又えらく咳き込んで吐き出してしまった。それと同時に朱肉のような赤い液体が口元から噴出した。ブッチャーが、枕元にあった吸飲みを、水穂さんに渡すと、水穂さんは中身を飲み込んだ。
「薬だけは飲んで、ご飯を食べないんだな。それってある意味ではずるいぞ。水穂さん。」
杉ちゃんがちょっと嫌味っぽく言った。
「こんにちは。」
玄関の引き戸を開ける音がして、浜島咲がやってきた。多分暇つぶしか、ぐちをこぼしに来たのだろうか。ところが、両手には、小さな猫を、抱いていた。
「どうしたのはまじさん。猫を飼うつもりになったの?」
杉ちゃんが驚いてそう言うと、
「いやあ、昨日家の前に誰かが捨てていったのよ。それで、連れてきちゃったの。」
と浜島咲はいった。
「誰かが捨ててった?」
杉ちゃんが驚いてそう言うと、
「そうなのよ。今の時代ってのはさあ。猫をゴミみたいに捨ててくのよねえ。全く、歩けないからと言って、捨てちゃうのは困るわあ。」
と、浜島咲は答えるのだった。
「そうはいっても浜島さん、立派なペルシャ猫じゃないですか?それに、歩けないんですか?」
ブッチャーが聞くと咲はそうなのよといった。そして、猫を畳の上においたのであるが、猫は立ち上がろうとして、足に力が入らないようで、よろよろと座り込んでしまった。
「足が悪いんですねえ。それは可哀想だ。猫用の車椅子とか、必要になるかもしれないな。」
ブッチャーは、すぐに言った。二匹の小さなフェレットたちも、ペルシャ猫を心配そうに見つめている。
「そういうわけだから、このにゃんこちゃんなんとかしてよ。なんだかかわいそうというか、放っとけ無いのよ。だって、車にでも轢かれたらどうするの。何にも抵抗することはできないわよ。それじゃあ、このにゃんこちゃんが生まれてきた意味が無いじゃないの。」
咲はそうペルシャ猫を見ながら言った。水穂さんがペルシャ猫を可哀想だと思ったのだろうか。そっと頭をなでてあげた。ペルシャ猫は、なでて貰って気持ちよさそうな顔をしている。
「人に慣れている猫ちゃんですね。まあ、ペルシャだから、そういう性質もあるか。もともと野良猫と言うわけではなくて、ペットとして飼うために生まれてきたんだから。」
「そうですね、仕方ありませんな。歩けないのは確かなんでしょうけど、猫ちゃん、ここで預かるしか無いかなあ。」
ブッチャーがそういったため、小さなペルシャ猫は製鉄所で飼うことになった。とにかく自分では全く歩けないのは、フェレットの正輔くん輝彦くんと共通している。猫とフェレットは、製鉄所の縁側で遊ばせる様にすることにしたが、なぜか二匹のフェレットが、ペルシャ猫に親切にしてやるようになった。フェレットたちは、水穂さんからエサを貰うと、ペルシャ猫にも分けてあげるような態度を取るようになった。更に、水も一つのお皿で三匹とも仲良く飲んでいる。時々、水穂さんがペルシャ猫を抱っこして、外へ出させてやるときもあったが、ペルシャ猫は穏やかで、変に鳴き声がうるさいこともなかった。製鉄所の利用者さんたちからもペルシャ猫は、お行儀がいいとして、評判だった。
ただ、歩けないのが心配だったので、杉ちゃんとブッチャーはペルシャ猫を連れて動物病院に行った。ペルシャ猫を診察した獣医師の横山エラさんは、ペルシャ猫の聴診器を外して、こういった。
「多分、足が麻痺してるわ。幼いときに、頭をきつく打ったとか、そういうことが原因かもしれない。一生座ったままで、立つことは無理なんじゃないかしら。でも、猫にとって致命傷である、猫エイズとか、猫伝染性白血病とか、そういうものは一切ないから、そこは気にしなくて大丈夫。」
「そうなんだ。それは良かった。」
杉ちゃんは即答した。
「じゃあ、猫用の車椅子とか、そういうの用意しなくちゃな。通販サイトでそういうのあったかな?ちょっと調べてみよ。」
「いいえ杉ちゃん。この子は、車椅子も自分で動かせないわよ。だから、常に誰かが側についていないとだめだと思うの。だから、誰かずっと一緒に居られる人を探さななくちゃ。」
エラさんは、汗を拭きながら言った。ヨーロッパ人のエラさんは、日本の暑さが苦手なようだ。
「そうなんだ、じゃあ、完全に自立できないってわけですか。俺の姉ちゃんみたいですね。ああ、そんな事言っちゃいけないか。それより、そういうことなら、ペルシャくんの側に居てあげられる人を探すんですな。」
ブッチャーがエラさんにいう。
「それでは、俺、保護猫譲渡サイトなんかに、登録してみようかなあ?」
「うーん、そういうところに登録しても、良い飼い主に会えるとは限らんぞ。そういうことなら、誰か猫を飼いたがっている人を探してだな。それで、直接あって、新しい飼い主を探したほうが良い。」
杉ちゃんはブッチャーに反対した。
「杉ちゃんはそう言うけどねえ。今の時代、チラシをばらまくより、SNSに載せたほうが、早く客が集まる時代だよ。それなら、サイトに登録したほうが良いんじゃないの?」
ブッチャーはそう言うが、
「だって、インターネットなんて、責任感の浅いやつばっかだよ。そんなやつを信用できるわけ無いじゃないか。そんな顔もわからないし、どんな家庭環境に住んでるかもわからないやつに、猫を送れるか?猫はものじゃないんだよ。生活用品を送るのとは理由が違う。僕は、SNSでどうのは、反対だ。」
と、杉ちゃんは言った。
「まあ、確かに、杉ちゃんの言う事も、ブッチャーさんの言うことも理解できるわ。まあどっちもどっち。喧嘩両成敗よ。何よりも大事なことは、この子は、終始人の手を必要とするでしょうし、それは誰にも変えられないということよ。」
エラさんは、ブッチャーと杉ちゃんに言った。
「どっちかが妥協すればいいんだよね。だけど、僕はどうも猫をSNSに掲載して、顔のわからない誰かに譲り渡すというのは、ちょっとなんだか物足りないというかなんというか、、、。」
杉ちゃんは、頭をかじった。
「俺も、慎重になりたいのはやまやまなんですが、水穂さんや、他の人に負担をかけるのも辛いから、SNSで手っ取り早くと思ってしまうんですよね。」
ブッチャーもそういうのだった。
「そんなに悪いのあの人?」
エラさんが、聞いた。
「ええ。そうなんですよ。暑いせいですかね。ご飯を碌に食べないで、吐き出してしまうことのほうが多くて。もう、何を食べさせてもだめなんですよね。食べ物のありがたみがわからないのですかねえ。それとも、なにか精神的な問題でもあるのかなあ。」
ブッチャーが答える。
「それなら、このペルシャちゃんと一緒に食べればいいわ。きっと動けない子が、ご飯食べてるのを見たら、水穂さんも絶対感動すると思うわよ。良かったねペルシャちゃん。あなたはまだ、役に立つわよ。」
エラさんはにこやかにペルシャ猫の頭をなでてあげた。とりあえず、足の痛み止めを貰って、杉ちゃんたちはエラさんの横山動物病院をあとにした。
製鉄所に帰ってみるとちょうどお昼の時間だった。以前は食事かかりとして、恵子さんという女性を雇っていたが、彼女が結婚してしまってからは、杉ちゃんが食事かかりを継続して行っている。すぐに杉ちゃんは製鉄所の食堂へ行き、冷蔵庫を開けて、お昼食を作り始めた。今日は、水穂さんの好きな食べ物だと言われている、米粉のバゲットを小さく切って、それに牛乳をかけたパン粥であった。小麦のパンを食べられない水穂さんには、米粉のパンが必需品であった。
「水穂さんご飯だよ。」
杉ちゃんがそういうと、ブッチャーが、パン粥の入ったお皿を持って、四畳半にやってきた。水穂さんの隣には歩けないペルシャ猫ちゃんもいたし、歩けないフェレットたちもいる。
「じゃあ、お前さんたちは、これな。」
杉ちゃんがいうと、ブッチャーが、もう一つの皿を、三匹の動物たちの前においた。動物たちは、とても美味しそうにパン粥を食べ始めた。その仕草がとてもかわいらしくて愛らしかった。
「ほら、猫もフェレットも、食べてるじゃないか。だから、水穂さんも頑張るんだよ。今は暑くて辛い季節だけど、なんとか乗り切って、次の季節に向かって頑張ろうよ。」
杉ちゃんが、そう言うと、ブッチャーは、パン粥の皿を、水穂さんのサイドテーブルに置いた。
「ほら、起きて。」
ブッチャーが、水穂さんの手を引っ張って無理やり起こした。水穂さんは、少し咳き込んだけれど、なんとか起きてくれた。そして、頑張ってパン粥を口にしてくれたのであるが、どうしてもだめだった。やはり、咳き込んで吐いてしまう。
「はあ、猫やフェレットは、単純に寝たきりでも食べるけど、人間はそうはいかないのか。それじゃあだめだよ。ちゃんと食べなくちゃ。いいか、人間も猫もフェレットも、ご飯を食べて生きているんだよ。それを、何もいらないと言っていたら、本当にだめになってしまうぞ。」
杉ちゃんが説得しても、水穂さんは、どうしても食べ物を食べることができないようであった。
「全くどういう理由ですかねえ。食べ物を口にして反射的に吐くんですか?俺にしてみれば、エネルギー源を使えないで吐き出してしまうって、すごい無駄だなと思うんだけどなあ。」
ブッチャーは首をかしげている。小さな動物たちは、美味しそうに食べ物を食べているのに、よく理解できないという顔をしていた。
「水穂さんこれはダイエットのためですか。痩せたいと思って食べ物を口にしてくれないんですか?」
思わずブッチャーは聞いてしまった。それでも咳き込んでいる水穂さんに、
「咳でごまかしてもだめです!ちゃんと答えを出してください!」
と言ってしまった。
「食べる資格が無いから。」
水穂さんは、声を絞るような細い声でそう答えた。
「そんな事あるわけないじゃありませんか。どんな人間だって食べていかなくちゃいけないんですよ。食べなくちゃ命を繋いで行けないじゃないですか。それに資格も法律も何も要りませんよ。どんな国家だって、食べるのを禁止する法律を設けている国家は一つもありませんよ!」
ブッチャーは、声を荒げてそう言ってしまうのであるが、水穂さんは消えそうな声でこういうのであった。
「でも、生きては行けない人は必ず存在する。どこの国にもそういう少数民族はいるでしょう?」
「だからなんですか、そんなもの当の昔に終わってますよ。例えば、ナチス・ドイツのしたことだって、もう決着は、ついてます。だから、昔のことにこだわってちゃだめですよ。人間は、昔のことに縛られないで、新しいものを切り開いていけるでしょう。だから、それを信じて前向きにいかなくちゃ。」
ブッチャーはそういうのであるが、水穂さんの自分には食べる資格がないという答えは、変わらないようであった。水穂さんは、そう言われても、表情も何も変えないのであった。
「全く、猫やフェレットは、食べることに夢中になっているのに、人間は、変な飾り物がついてしまうんだな。それはどうしてなんだろうね。なんか、不思議だねえ、人間は。」
杉ちゃんが呆れた顔でそう言うと、猫とフェレットたちのお皿が空になった。ブッチャーはちゃんと食べ物が必要であることを言わなければならないなと思って、
「おお、完食か。君たちは偉いねえ。そうやって食べ物を無駄にしないのはいいことだよ。それは大事にしようねえ。」
と3匹の動物たちの頭をなでてやった。
「ほら、この子達を見習ってください。この子達は、歩けなくてもちゃんと食べて生きようとしてくれているんです。水穂さんだって、そうしなくちゃいけないんですよ。だってほら、浜島さんだってこっちにくるし、浩二くんだってレッスンしてくれと言って、いろんな人を連れてくるでしょう。だから、そういうふうに水穂さんは生きてなくちゃいけないんです。それくらい理解して、食べてくださいよ。」
と、ブッチャーは言うのであるが、
「でも、そんな事通じない身分の人間もいるんです。」
と、水穂さんは言った。身分と言われてしまうと、ブッチャーも杉ちゃんも困ってしまうのだ。確かに、同和地区というのは、昔からあるものだ。それははっきりしている。そして、そこに住んでいる人たちは、粗末な銘仙の着物しか着ることができないし、就職や結婚などで差別されることも知っている。それは、頭ではわかっているんだけど、水穂さんがそのせいでご飯を食べないのは、別問題のような気がする。
「そうかも知れないけどさ。でも、今の水穂さんは、いろんな人から必要とされているんでしょう。だったら、ご飯を食べないと、生きていけませんょ。それをちゃんと頭に描いていただいて、ご飯を食べる資格はないなんてそんな馬鹿なことは言わないでください。」
ブッチャーがそう言うと、小さなペルシャ猫が、水穂さんの方をじっと見つめていた。
「何だ、お前さんなにかいいたそうだなあ。あいにく猫語は通じないもんで何をいいたいのかわからないけど、なんか喋れたら、すごい重大なことを言うんだろうな。」
杉ちゃんは大きなため息をついた。ペルシャ猫は、水穂さんの方をずっと見ているので、ブッチャーはほらと言って、小さなペルシャ猫を持ち上げて、水穂さんのそばに移動させてやると、猫は、まるで私がいるのよとでもいいたげに、水穂さんのそばにすり寄っていった。
「ほらあ、動物からも頼りにされてるじゃないか。こんなに大勢の人の気を引けるんだから、水穂さんってすごいなと思わなくちゃ。だからそのためにも食べるんだよ。いろんな人や動物から、頼りにされているんだから。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは少し考え直してくれたようで、パン粥を箸で取って、やっと口に入れてくれたのであった。咳き込んでつらそうだったけど、杉ちゃんに背中を叩かれながらそれを飲み込んだ。
「ほら、良かったじゃないか。一口だけでも食べてくれれば、100点満点。次は完食するまで食べような。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは小さくうなづいた。ペルシャ猫もフェレットも、心配そうな顔で水穂さんを見つめていた。ブッチャーも今日のところは、それで良いことにして、水穂さんが吐いた朱肉のような内容物を雑巾で拭くのに専念することに決めた。
それから又数日が経って。その日は水穂さんも調子が良かったらしく、ペルシャ猫を抱っこして、製鉄所の縁側に座っていた。しばらくそうしていると、玄関先から声がした。
「こんにちは。加藤です。皆さん元気ですか?暑いから生きているだけで大変だって言うけど、みんな大丈夫?」
そう言って明るい声でやってきたのは、加藤美里さんと、彼女の夫で、現在は車椅子で通信制の学校に通っている加藤真尋さんだった。
「いらっしゃい、よく来たね。今日は暑くて大変だっただろ。すぐにお茶出すから、縁側でも行ってくれ。」
出迎えた杉ちゃんに連れられて、二人は製鉄所の縁側にやってきた。水穂さんが二人が来たことに気がついて、
「どうも遠いところをありがとうございました。真尋さんお体は大丈夫なんですか?」
と、猫を抱いたまま挨拶した。
「ええ。まあ、大丈夫とは言えないけど、でも、楽しくやってます。亀より遅いペースで勉強してるけど、学校の先生もそれでいいって行ってくれるので助かってます。」
そういう真尋さんは、以前のような、弱々しい感じは薄れていて、とても楽しそうだった。これでは真尋さんより水穂さんのほうが、体調が悪そうな感じだった。
「そうなんだけどねえ。あたしが昼間は仕事に出てしまうので、真尋は家の中で一人で勉強してるから、それがちょっと寂しいかなって思うときもありますよ。だから、そういうときにペットがいてくれればいいなって思うんですけど。でもまあ真尋も、歩けないから、すぐに逃げてしまうペットは、だめかなあと思う。だから複雑よ。」
という加藤美里さん。確かに、真尋さんのような体の人は、ペットを飼うのは難しいと思う。でも、足の悪い猫であれば、急に逃げていってしまうこともない。それなら、良いペットになってくれるのではないか。杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせた。
足の悪いペルシャ猫は、水穂さんに抱っこされて、これから何が起きるのか、何も知らないという表情で、周りを見つめている。いや、もう知っているのかもしれない。これからなにか起きて、何が始まるのか。きっと人間よりも動物のほうが敏感なところもあるのだろうから。
外は、ギラギラに太陽が照りつけて熱い日であった。暑いというより熱いと言う表現がぴったりなのかもしれなかった。
小さな白い猫 増田朋美 @masubuchi4996
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