夜の海の明かり持ち
葉霜雁景
夜の海の明かり持ち
空の端から
砂浜へ贈り物を打ち寄せる、波濤の音色は穏やかに。冷たく濡れた波打ち際の砂を踏み締めると、そこへ波が広がって、足の下から砂を
海上を通って吹き付ける潮風に、自然と景色へ馴染む服の裾がふわりと持ち上がる。風は髪を持ち上げ、顔や首の輪郭を確かめるように撫でては消えていった。
薄暗くなっていく海辺は、もう少し時間が経てば、海と砂浜の境界線が見えなくなる。冷たい波で感覚が鈍りつつある足では、いつ踏み外してしまってもおかしくないが、明かり持ちの片手には杖に吊るした
身の丈よりも高い杖を突き、角灯を揺らして向かった先は、祈りを捧げる聖堂の跡地。砂地ではなく岩場の陸地に建つそこは、もうすっかり崩れてしまって、木材が寄り集まった残骸として潮風に
天井と呼べるだけの屋根もなく、故に屋内とさえ呼べない廃墟の中へ入ると、
祈りを捧げる祭壇の手前はすっかり浸水して、舟が打ち捨てられた浅瀬と繋がっている。ぱしゃん、と小さな音を立てて、明かり持ちは水伝いに浅瀬へと歩いていった。聖堂には船着場の
舟が眠る浅瀬にお邪魔すると、明かり持ちは杖を縦から横に持ち直した。角灯の高さは胸と同じくらい、体との距離は胴が挟めるくらい。そのまま進んでいけば、やがて角灯は水に浸かってしまうけれど、火影は消えずに光を放ち続けている。代々使われてきた珊瑚の杖と角灯、燃料にされた海の贈り物に染みついた魔法が作用して、明かりを保ち続けているのだ。浅瀬が終わり、ざぶり、ざぶりと海へ踏み入っても、火明かりは一寸先で輝いている。
光源は、杖の先の角灯だけではなかった。紺青の夜空に、ぽっかりと満月が浮かんでいる。波伝いに、海がざわざわと賑わっているのが分かる。潮が大きく変わるから、みんな気分が高まっているのだ。
やがて、明かり持ちの頭も海へ浸かっていく。砂を歩いていた足は水を掻いた。ひんやりとした布で包まれたような感覚に、思わず目が細くなる。
一気に深くなった海に、薄く小さな体がふよふよ揺れる。開いたままの眼の先では、角灯がくらりと傾いていた。杖は
白い月光が束になって、海中へ差し込んでいる。冴え冴えとしてまっさらな光に対して、角灯の光は溶かしたシーグラスと輝石の残滓に色づいていた。いわば虹の色だ。時に、夜光貝の欠片や真珠を頂戴することもあるから、
天蓋から降り注ぐ光は、こちらの体に揺れる水面の模様を描く。綺麗に整っていたゼリーを、スプーンでぐちゃぐちゃにしたみたいな模様。チカチカして、ぐにょぐにょして。もしかしたら、海自身が遊んでいる痕跡なのかもしれない。
しっかり泳ぎ出すのと同時に、どこからともなく魚の群れが現れたかと思うと、明かり持ちを先頭にして泳ぎ始めた。姿形も大小も、
明かり持ちが向かっているのは、大海原の底。断崖を下った先に広がる岩場は、月光も届かず真っ暗闇。光を放つのは明かり持ちの角灯と、様子見でのそのそ出てきたアンコウの
尾鰭になった足を海底へ付けることはせず、そのぎりぎりを泳ぎながら、明かり持ちは一人で進んでいく。魚たちも、ウミガメも、途中で離れていった。ついてきてはいけないと、みんな分かっているのだ。帰れなくなってしまうから。
それでも、途中まででも、海の住民たちは明かり持ちを見送ってくれた。まるで、それが自分たちの礼儀とでも言うかのように。あるいは、自分たちの祈りだと示すように。
珊瑚で作られた杖と角灯、揺れる火影を頼りに泳いでいった明かり持ちは、ゆるりと一点に留まった。最後の目的地は、巨岩が
周辺では深海に暮らす魚たちが集まり始めている中、明かり持ちが訪ねた魚は、奇妙に
ほとんど光を視認できない目は、角灯の明かりを受けて白く反射している。恐ろしげな顔だが、明かり持ちにとっては、夜空と同じ顔に姿だった。光を必要としない瞳は、照らされるだけの月と同じ。黒々としながらも白斑が混じる鱗は、星が瞬く夜空と同じ。天蓋と海底は、不思議と同じ色をしている。
歴代の明かり持ちも、同じことを思っただろうか。思ったに違いない。明かり持ちは、みんな同じように生まれて、同じ目的を持って地上で過ごし、そしてここへ戻ってくるのだから。
珊瑚の杖と角灯を置いて、明かり持ちはゆっくりと、大きく古い魚の額へ触れる。自らの小さく薄い体を、ぴったりとつけて目を閉じる。地上で見聞きした全てを、
その場で凍り付いたかのように、明かり持ちも真っ白く、真っ白く変わっていく。目を閉じたまま、賢者の額に触れたまま、動かなくなる。大きな魚の頭が、ほんの少しもたげられれば、明かり持ちは泡が弾けるように消え去った。パッと割れた泡の
ふう、と。大きく古い魚は息を吐いた。それが新しい水流を起こした。岩場に置き去られた珊瑚の杖と角灯が、ふわりと浮き上がる。一緒に流された深海のクラゲたちが、ふよりふよりと杖を跳ねさせては、上へ上へと持っていった。
頼りない運搬は、横から杖を
引っ掛けられた珊瑚の杖と角灯は、今度はウミガメに咥えられて運ばれる。ゆっくり、ゆっくりと泳ぐウミガメを、再び魚たちが追いかけ始めていた。
死骸のように白骨化していた杖と
ウミガメを先頭にした魚たちの大群は、迷いなく大海原を進んでいく。どこへ向かっているのかは、誰にも分からない。けれど、確かに分かっていることが一つ。
果たして、ウミガメと魚の一団は、前の明かり持ちがいた場所ではない海岸へ到着した。
産卵でもないのに、ウミガメはわざわざ砂浜へ
静まった海は、思うままに曲を奏でている。洗われた波打ち際で、落ちてきた星のように
待っている、待っている。
波があるのに
紺青を深めていく夜の海と、波に揺られながらも真っすぐに引かれた月光の道。洗いたての世界でも、誰にも遮られるはずのないそこに、いつの間にか人影が一つ。空から降り立ったのか、海から湧き立ったのか。大きく古い魚の額に消えた姿と全く同じ形をしたそれは、音もなく、
絶え間ない波の奏でと駆け足に混じって、新生した明かり持ちが、砂浜へ足をつける音がした。あまりにも
海の声に寄り添いながら、明かり持ちは歩き出した。角灯の燃料を探さなければいけない。積み重なった魔法がほどけてしまわないように。
幸い、どこの砂浜であっても、海は燃料を送ってくれる。今夜、新しく生まれた明かり持ちが手にした初めての燃料は、まだ名前を知らない輝石。曇っていても、月に透かすと閉じ込められた色が見える。柔らかく黄味がかった褐色の石は、明かり持ちの瞳に最初の色を宿した。
波に削られた石の表面は、
月も、海も、相変わらず夜を作り奏でている。彩っている。満月に浮かれる生き物たちの高揚は、潮風に乗って運ばれていく。やさしく揺れる海から遣わされた明かり持ちは、まっさらな時間にありったけの色と、音と、香りと――感じられるものすべてを詰め込みに行く。
だが、使命を急かすものはいない。今はまだ、海の小夜曲に耳を傾けていられる。
誰にでも届き、誰にも宛てていない波濤の調べが響いていた。誰にでも届き、誰のことも見つめない月の光が降り注ぐ。降ろされた夜の
ここにはただ、そういう時間が降り積もっている。いつか消えゆく
夜の海の明かり持ち 葉霜雁景 @skhb-3725
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