第14話 いない存在 side望

あの日は、映茉の家で過ごす最後の日だと思っていた。

ここに来てから約束の三週間を過ぎていたから。そして、明日から月曜日。平日が始まる。

だが映茉は忘れているのか気が付いていないのか、居候期間についてはなにも言わなかった。


そして、その日の夜。

本当に、ただコンビニに行ってくるだけだった。

なのに運悪くあいつらに見つかった。


ちょうど三週間前に会ってやられたっきり。

だけど俺はもう、喧嘩するつもりなんてなかった。

こんな俺のことを怖がらずに一人の人間として優しく接してくれた、映茉の存在があるから。


しかし、たまたまリーダー……石井の機嫌が悪かったらしく、俺はあの日と同じ細い路地裏に連れ込まれた。

そこからのことは、よく覚えていない。


暴言を吐かれたくらいじゃどうってことないが、身体的に攻撃され続けるのはさすがにキツい。

でも俺は、どんなにやられても、壊れても絶対手は出さないと決めた。


一発でも殴れば、映茉が怖がる。悲しむ。……これから俺が映茉にしてやりたいたくさんのことが、出来なくなる。

頭がおかしくなりそうだった。コンクリートに、身体が打ち付けられる。



痛いとか、痛くないとかそんなこと考えてられない。

映茉と出会う前の俺なら、こんなになる前にやり返していた。五対一で負けるって分かってても。


ぐっと、五人のうちの誰かが腹に拳を入れる。その衝撃で、俺はとうとう座り込んでしまった。


あの日だって、やり返して、結局負けた。こうやって、地面に身体を預けながら。

そのとき、こいつらが去ったとき。



覚えている。

俺は、死を覚悟したんだ。


このまま俺は死んでいく。胸を張れない自分の人生を呪って、諦めていた。

“死ぬなら最後に謝りたかった”だなんて、そんなのここで命が尽きることを受け入れているのと一緒で。

あのときの俺は、この先の人生に希望なんて見いだせなかったんだ。

ずっと死んでいるみたいに、俺の時間が止まっていたんだ。


今はあのときよりも傷がひどいような気がする。

なのに、俺は生きていたいと思える。

死んでもいいだなんて、これっぽっちも思わない。


それは、あのとき俺の止まっていた時間を動かした映茉の存在があるから。

だから俺は、今生きたいと思える。



—————大切な、鳥越映茉のために。




そして、俺は無意識に映茉への石井の攻撃を止めていた。

その手で、映茉に触るな。

なんて俺が言えたことじゃないはずなのに、気づいたらあんなふうに口走っていた。


だけどあれは、俺の本心なんじゃないかと思う。


あとは、覚えていない。

優しくて暖かいぬくもりに包まれた感覚だけが、残っていた。





目が覚めたら、あたりは真っ白だった。


「……いってぇ……」


少し頭を動かすと、ズキリと外側に傷の痛みを感じる。

あのときは無我夢中でどれだけ痛いかなんて気にならなかった。いや、気にしている暇もなかった。

目だけを動かして確認してみると、周りはカーテンで左右前と三方向が仕切られていた。


と、すると、ここは病院かなにかか。

でも、石井に胸倉を掴まれたあたりから記憶があいまいでよく思い出せない。

どうやって、ここに来たのかとか、石井たちはどうしたのかとか。


……映茉は。無事なんだろうかとか。



ふと、腰あたりに自分のものじゃない暖かい体温を感じた。

なんだと思い、落ち着くまでしばらくしてからゆっくりと気を使い上半身を起こす。



「……映茉」


ぬくもりの正体は、映茉だった。

ベッドに突っ伏して、気持ちよさそうに寝息を立てながら寝ている。

頬は少し赤らんでいて、やわらかそうなまつ毛が見える。


そして、ピンク色のふわふわとした柔らかそうな唇。

休日だからか縛っていないさらさらの髪を、無意識に手に取った。

肩は薄く、首までも真っ白なことに髪を持ち上げながら気づく。


こんなに小さな身体で、俺の代わりに暴行を受けようとしたのか。

白くて細い手足。ほんとに、一発やれば折れてしまう。



…………そんな姿に俺は、愛しいと思ってしまう。


生きているというその存在に。優しさに、強さに。

その、全てが。


愛おしくて。ずっと守っていきたいと思う。



—————俺は、鳥越映茉が好きだ。






 次の日の昼。俺はさまざまなことを告げられた。



命に別状はないみたいだが、かなり深い傷があるため念のため一週間入院することになった。

期末テストはとりあえず延期ということで、退院後受けることになった。つまりまだ、留年回避はできる。


あとは、俺が意識を失った後のことを映茉の叔父に聞かされた。

「俺がたまたま通りかかって気づいて、警察と救急車呼んだからいいけどそうじゃなかったらどうなってたか」と言っていた。


ちなみに石井たちはというと、現在警察で事情聴取を受けているらしい。高校は退学だが、未成年ということで厳重注意で逮捕までには至らないということだ。


……母親には、連絡がつかなかったと言われた。でも別に、俺と母親の関係なんてずっと前からこうなわけだし、驚きはしない。



夕方には、映茉が見舞いに来てくれた。


「望くんがいないと寂しいよ」


なんて少し眉を下げながら笑っていた。

俺に気を使ってか、今日から実施されているはずの期末テストに関しては一言も口にしなかった。


……俺のこと、怖いって言ってくれたほうが、潔く諦めがつく。

なのになんで映茉は、こんなにも怖がらず、対等に接してくれるんだろう。

その優しさは本当に、俺が貰ってもいいんだろうか。




 入院から一週間がたち、俺は日曜日の朝に退院した。


この入院期間には映茉だけじゃなく映茉の家族も見舞いに来てくれ、石井たちの親は謝罪に来た。慰謝料の話とともに。


だが、やはり母親は来なかった。連絡も繋がらないようじゃ、この状況もきっと知らないだろう。

でも、そのほうが都合がいい気もしている。





「望くん。怪我大丈夫?……でも学校、行くんだよね」



月曜の朝。

玄関で、映茉が心配そうにつぶやく。

心配は、かけたくない。だが、俺はここで学校に行かないと、一生このままな気がした。


「ああ、テストもあるから」


すると、映茉は優しくふんわりと笑った。


初めて北田高校の制服を着て、外に出る。

ひさしぶりに直であたる日差しが眩しい。


もう、夏だ。





 北田高校は思ったより広くて生徒数が多い。

受験したあのときとは見える景色が全然違う。


「あの人が、うわさの?」

「うわー傷だらけじゃん。こっわ」

「顔面は悪くないけど、不良じゃあねぇ」


教室に向かう途中、いろんな声が聞こえてきた。

分かっていた。好奇の視線を向けられながらこんなふうに言われることは。


「望くん、もうすぐ教室だよ」

「……ああ」


隣で、映茉がにこりと笑う。

この視線に会話。気づいてないはずない。きっと、気づかないふりをしている。

俺のことは別に、どうでもいい。だけど自分のせいで、映茉に辛い思いはしてほしくない。


家にさんざん電話をかけてきた担任の山川は、朝礼でも俺が教室にいることについて特に何も触れなかった。

でも、そのほうがいい。


席は、まるで転校生かのように枠内から一つはみ出したような場所。

別にそれでもいい。今日はクラスではずっとテスト返しらしいが、俺は別室で期末テストを受けていた。


あの日もし石井たちに会わず怪我もせず、先週テストを受けられていたら、映茉の小さな背中を眺めながらテストを受けられていただろうかと考える。



そしてもし、俺がもしちゃんと北田高校を受験したいと思って受けて、受かって。一年二組になって。毎日学校に通っていたら。

ただのクラスメイトである鳥越映茉に恋をしていたのだろうか。


……たぶん俺は、映茉とどんなふうに出会っていたとしても、恋に落ちていたと思う。


だって映茉には、一目惚れだったから。





 その日の夜、映茉が熱を出した。

本人はテスト疲れだと言っていたが、原因は俺にもあるだろう。


午後10時頃、俺は映茉の部屋に熱さましのシートと市販の解熱剤と水を持って行った。

ノックをすると、「はあい」と映茉の弱った声がする。

ドアを開けると部屋に熱がこもっていると感じ、テーブルに持ってきたものを置いてから断りを入れて窓を開けて喚起をする。


「寒くねえか」

「うん。大丈夫だよ。ありがとう」


にこっと微笑んでお礼を言う姿が辛そうで、こんなときくらい無理しなくていいのにと思う。

出会ったときから、映茉はよく笑っていた。


例えるなら、寒くて、植物すら育たない場所に差すひとすじの太陽の光みたいにふんわりと暖かい。

俺は映茉のそんな笑顔が、好きだ。

映茉のことは心配だが、明日もテストの続きがあるので学校に行かなければならない。



 学校に行かなくなって二か月がたった5月下旬、担任からの電話で留年の可能性を告げられたことがある。

そのときは別に留年してもいいと思っていた。高校を卒業するつもりはなくて、ある程度生きるのに飽きたら死ぬつもりだったから。


だが今は、留年はしたくない。ちゃんと進級したい。

選択肢にもう“死ぬ”なんて言葉は、ない。





 俺は制服を着て、家を出た。

映茉は昔から風邪を引くと重症化するらしく、しばらくは学校を休むらしい。

不安な顔をすると、心配させる。だから俺はせめてでも学校に行くことにした。


昨日の記憶をたどりながら、俺は一年二組の教室へ向かう。



「見て。あの人だよ」

「あれが、暴力沙汰で警察が来たっていう?」

「よく平気な顔して学校来れんね」

「というか、もともと来てなかったらしーよ。事件の後から急に来始めたって」

「やば、神経狂ってるわ」



自分のことだろうけど、別に気にはならない。

教室に入れば、好奇の視線がちらちらと飛んでくるが、気にせず荷物を置いて席に座った。




 今日もあったテスト返し中に受けていたテストが終わり、教室に荷物を取りに行こうとする。

夕方の眩しい光が差し込む教室のドアを開けようとすると、中から会話が聞こえてきた。


「ねえ、あの不良くん。苗字白岩だっけ」

「ああ、それがどうしたの?」


入りづらい様子のようで、そのままドアの前で待つことにする。

早く終わらねえかなと思いながら。


「昨日さ、鳥越さんと一緒に歩いてたじゃん。白岩くんが学校に来てるの一度も見たことないのに、なんで仲いいんだろうね」


ぴくりと、脳が“鳥越”という苗字に反応する。


「あー、それなんかうわさだと、鳥越さんも実は不良で裏では暴力振るってるらしーよ」

「えーまじで?鳥越さんいい子だと思ってたのに。なんか見る目変わっちゃうなー」

「ちょま、花田、声でかいって。誰かが聞いてたらどうするの」


「大丈夫。聞かれてても大丈夫だって。みんな思ってることは一緒だし」

「……まあ、それは一理あるかも」



あはは、と中から聞こえる楽しそうな声とは裏腹に、俺の中では怒りがこみ上げてきた。

いや、怒りを通り越して、絶望だ。そして呆れ。


教室にいるあの二人の女————。




じゃなく。


————自分に。



俺は、映茉にとって悪影響にしかならない存在。

分かりきっていた。痛いほど、知っていたはずなのに。


映茉から優しさを貰うたび、自分の本当の姿が見えなくなっていた。

自分の過去すら、忘れていた。


だけど、見えなくても忘れていても。“ある”という事実は拭えない。

出会った時点で、ちゃんと冷静になって考えればよかった。


昨日だって、映茉は、向けられる視線が辛かったと思う。

今だって、俺のせいで悪く言われている。



……俺の、せいで。




夢はここまでだ。

そろそろ覚めなければならない。

この一か月で見た宝石みたいにきらきら輝いていた暖かな景色は、最後に神様がくれた、奇跡だったのかもしれない。

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