第3話

 涼香は小学生の頃、親に頼み込み自分の意思でヴァイオリンを始めた。



 しかし、中学までは誰の評価も気にせず演奏を楽しんでいたはずなのに、ある年齢を過ぎた頃から涼香は、他の奏者の実力や技量が過度に気になるようになった。


 足掻いても足掻いても上には上がいる。ヴァイオリン奏者なんてたくさん居て、誰も私に弾いてほしいなんて思ってない。

 いくら指先が痛くなるまで弦を押さえたって、涼香は自分の演奏を愛せなくなってしまった。



 そんな苦悩を抱えたまま、入学式で自分が通う大学オーケストラの演奏を聴いた涼香。


 本当は少しだけ興味があった。オーケストラに入り、その中で練習しながら自信をつけていけるかもしれないと微かな希望を抱いていた。


 

 しかしそんな涼香の夢を、大和田春は打ち砕いた。




 完璧だった。彼は、コンサートマスターとしての演奏面も、堂々としたオーラも、引っ込み思案で自信が持てない涼香とは正反対。

 彼の演奏を聴いて、その姿を見て、涼香は今まで以上に自分の力の及ばなさを痛感した。


 彼がいる限り、私が自信を持って舞台に上がることはできない。

 生まれたばかりの小さな期待は、完璧すぎる彼のせいで勝手に萎んでいった。



 だから涼香は、大和田春のことが一方的に苦手だった。

 彼はまるで、必死に進もうとする涼香の目の前に立ちはだかる大きな障壁だった。





 それは、大きな満月が浮かぶ秋の夜だった。

 


 レッスンを終えた涼香は地元の駅で電車を降り、ぼんやりと真っ暗な空を見上げる。少しも欠けていない丸い月を眺め、まるで大和田春みたいだ、と悔しくもそう思った。


 

 それに比べて私は、ずっと欠けたまま。

 いつまでも満ちない、未完成で歪な形のまま。今日指摘された運指も、満足にできないほど不足した実力。


 鼻の奥がツンとして耐えきれず、ほろりと涙が溢れた。



 重たいケースを背負い込んだまま、暗い街を歩き出した涼香。溢れ出る涙は闇に溶けきってくれると信じて、ただ目の前の一本道を歩いていく。


 自分が情けない、こんな弱っちい自分が。



 鼻をすすり、目元をゴシゴシと擦る。

 新鮮な空気を取り込もうと、ぐずぐずな顔を上げたその時、涼香は目の前から同じように俯いて歩いてきていた青年とぶつかりそうになった。



「あ、すみませ、」



 うまく避けられず、立ち止まってしまった両足。目の前の青年も「あ、」と声を漏らし顔を上げる、ふたりの視線が交わる。

 その瞬間、思わず涼香の呼吸が止まった。



 大和田春、彼がそこに居たから。

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