いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持

空月

とある令嬢の矜持




 あの日のことを、カトレアは未だに夢に見る。


『カトレア・ローゼンベルグ。君の所業は目に余る。――婚約は破棄させてもらう』


 婚約者に、そう、冷たい目で告げられた日のことを。



* * *




 古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは恵まれた人間だった。

 五人兄弟の末子で、上の兄弟は全員男――しかも歳が離れているとあって、蝶よ花よと可愛がって育てられた。望むことは何でも叶えられ、与えられる。そういった環境で、カトレアは高慢で、我儘な子供に育った。


 そんな彼女には、幼少期からの婚約者がいた。

 宰相の息子、オーキッド・フェンデル。

 フェンデル家は当主の役職にしてはあまり裕福でなく、名のある家でもなかったため、古くから続く貴族の名家で裕福なローゼンベルグ家と『婚約』という形で縁を結ぶことになったのは、紛れもない政略的判断によるものだった。


 とはいえ、見目のよかったオーキッドをカトレアは一目で気に入り、彼が婚約者となったことは彼女の喜びの一つだった。――幼子が人形を気に入るように、カトレアにとってオーキッドは『お気に入りの一つ』だった。


 しかし、年頃にしてはかなり躾けられていたとはいえ、オーキッドはカトレアと同年代の子供だ。婚約者として顔合わせをした時を含め、彼がカトレアの思う通りにならないことも多々あった。

 それもまた、カトレアにとっては新鮮だった。自分の思うとおりにばかりなる世界で、そうではないものに出会ったカトレアは、それさえ楽しんだ。


 カトレアは確かに高慢で我儘だったが、それは子供のかわいらしさにおさまる範疇だったので、婚約はつつがなく継続された。

 オーキッドとの付き合い方も覚えた――というよりはオーキッドがカトレアとの付き合い方を会得した。

 会えないときは手紙のやり取りなどもした。自分よりも美しい文を書くオーキッドに触発されて、カトレアは字の練習と手紙の書き方の勉強をした。


 そこには愛も恋もなかった。蝶よ花よと育てられていても、自分に求められていることくらいカトレアも承知していた。政略的に有効な相手と縁を結び、この貴き血を継ぐこと――それだけが自分の存在価値だと、無意識で感じ取っていた。


 オーキッドはとても気の利く婚約者だとまでは言えなかったが、最低限、カトレアの機嫌をとるだけの処世術は持っていた。折々の手紙、贈り物、顔見せ。それらを如才なくこなしていた。相変わらず、少しだけ自分の思うとおりにならないオーキッドは、カトレアのお気に入りだった。



 数年経ち、カトレアが『学園ガーデン』へ入学すると、オーキッドと共に過ごす学び舎での生活が始まった。

 『学園』は、一定以上の魔力のある十四歳以上の子供が通う学校で、基本的に五年間在籍することになる。魔力は一般的に二十歳頃から減退し始めるため、そう定められていた。

 そして、とある脅威――かつて封印され、蘇りを予言されている『魔王』に対抗するための人員を育成する場でもあった。

 入学要件は魔力の量のみ――とはいえ、魔力が発現するのは貴族の血を引く者が大半だった。『学園』は小さな貴族の社交場としての側面もあった。


 オーキッドはカトレアより一年先に入学していたため、丁寧に『学園』での過ごし方を教えてくれた。それはただ、政略上の『婚約者』に対する態度でしかなかったけれど、カトレアは少しの優越感に浸った。

 オーキッドは礼儀正しいが親しい女生徒がいない、とても容貌の優れた生徒として注目の的で、そんな彼に『学園』を案内されるカトレアもまた注目されたからだ。


 それから半年ほどは、平穏でどうということのない日々だった――カトレアにとっては。

 彼女にとって変化が起こったのは、ふと校舎の窓から外を眺めた時、ある光景が目に入ってからだった。

 それは、平民ながら強い魔力を保持しているということで噂になっている同級生が、オーキッドに笑いかけられている、そんな光景だった。


 その時抱いた感情を、カトレアはうまく言葉にできなかった。

 気に入りの玩具を取られた子供のような気持ちだったかもしれないし、安直に言えば嫉妬のようなものだった気もした。


 ただ、はっきりしていたのは、オーキッドのその笑みが、カトレアに向けるよりも親愛のこもったものであったということだった。


 オーキッドの笑みは僅かに口角を上げる程度のもので、それはカトレアに向けるものと相違なかったけれど、それを誰より間近で見ていたからこそ、そこに込められた親愛の違いを読み取れた。


 そこからのカトレアは、嫉妬に狂った女の見本のようだった。

 平民の彼女を貶めた。理不尽な目に合わせた。無闇に虐め抜いた。

 本当に愚かな真似をした。思い返せば惨めささえ感じる所業だった。

 けれどその時は、そうしなければ何かを保てなかった。そうすべきだとすら思っていた。


 貴族の中でも名家であるローゼンベルグ家の掌中の珠であるカトレアに物を申せる者は少なかった。その数少ない人々は言葉を尽くしてカトレアを諫めようとしたが、カトレアは止まらなかった。


 そうして、あの日。


『カトレア・ローゼンベルグ。君の所業は目に余る。――婚約は破棄させてもらう』


 カトレアは、己の婚約者に、冷たい目で婚約破棄を告げられた。

 外聞を考えてだろう、『学園』内の、権力ある人間しか使えない個室の中、使用人も護衛も下げて、二人きりになったのを確認して――そういった気遣いを、愚かなカトレアは意識もしなかったけれど。


 それまでに、オーキッドは幾度もカトレアを諫めようとしていた。それすらカトレアの愚かな真似の原因となった。政略的に解消できない婚約だと高をくくり、高圧的に命令さえした。

 オーキッドはカトレアを刺激しないように立ち回っていたけれど、それはますますカトレアを増長させるだけだった。


 何を言っても、どう行動しても、変わることのないカトレアに見切りをつけたのだと――それゆえの婚約破棄なのだと認識できるようになったのは、婚約を破棄され、生家に所業を報告され、『学園』を『療養』という名目で自主退学させられた末に遠方の別荘に送られることになった、その道中の馬車の中でだった。



 突然、周囲が灰色になった。


 そして、それまで「どうして自分がこんな目に」「あの平民さえいなければ」と考えていたのに、スッと「こうなるのは当たり前だ」「自分はこうなるべくしてこうなったのだ」と腑に落ちた。


 急激な自身の変化に戸惑うカトレアの目前、誰もいない空間がジジジ……と音を立て歪んだ。歪みはじりじりと大きくなり、人ひとり分の大きさへと成長し――そうしてそこに、目だけが赤い、真っ白な男が現れた。

 くせ者だと叫ぶことさえ忘れて、カトレアはその男がゆっくりと口を開くのを見ていた。


「気分はどうだい、愚かで惨めで、哀れな末路を待つだけのお姫様」


 意味不明の言葉のはずだった。無礼者だと言い放ってもいいはずだった。

 けれどそれもまた、しっくりと来てしまった。


「このままだとあんたは、馬車が崖崩れに巻き込まれてあえなく死亡――なんていう運命が待っているわけだが。それが嫌なら、俺と来いよ」


 少しの逡巡ののち、カトレアは差し伸べられた手を取った。

 すべての異常を、見ないふりをして。



* * *



 手を取ったと思った瞬間、カトレアは見知らぬ部屋の中にいた。


「今日からここがあんたの城だ。文字通り『城』だぜ。欲しいものはなんでも手に入れてやるし、どんな願いだって叶えてやれる。――あんたに見切りをつけて切り捨てた元婚約者様に一泡吹かせてやることだってできるが、どうする?」


 カトレアの周囲の色彩は戻っていた。そこは目が眩むほど豪奢な部屋だった。王宮に立ち入ったことのあるカトレアでもその豪華さに驚くほどの。


 そんな部屋の中で、真っ白な男は何もかもどうでもよさそうに立っていた。――否、浮いていた。

 カトレアは、彼が人の範疇にないものだとわかり始めていた。


「……わたくし、そんなことを願うように見えますの?」

「少なくとも、自分を切り捨てた婚約者に憤って、逆上して、それでも一顧だにされず、自分に甘い親族すら目を覆う罪状を並べ立てられても反省も後悔もせず、遠方に『療養』の名目で閉じ込められそうになっても現実を認められなかった『お姫様』なら、願うんじゃないかと思ったんだがね」

「わたくしがもう『そう』ではないこと、あなたがよくご存じなのではなくて?」


 直感していた。この風景にどこまでも溶け込まず、違和感だけを残す男が、カトレアの自意識の急変に関わっているのだと。


「うんうん、いいねぇその目。頭空っぽのお姫様のまんまじゃあ見られなかっただろうな」


 そう嘯いた男は、カトレアの推測を肯定した。


「そうだな。俺はあんたの変化について、誰よりも詳しいだろうよ。――俺は『バグ』。この世界の『バグ』――欠陥」

「『バグ』……世界の、欠陥?」

「そう。俺が原因でこの世界は切り捨てられた。切り捨てられたから、この世界は俺の好きにできるようになった。……そういうわけで、あんたを頭空っぽなお姫様の、愚かで惨めで哀れな末路から引きずり出したわけだ」

「なぜ、わたくしにそんなことを?」

「そりゃあ、あんたがこの『物語』の中でいっとう愚かで惨めで哀れだったからさ。『主人公』とお相手役が心を通わす過程の、引き立て役でしかない。盛り上がりを作るための装置でしかない。その挙句には円満に退場の後に陰で死んでると来てる。……なんというか、あんたを造形した創造主は、よっぽど恋路の邪魔をする女が嫌いだったんだろうな」


 口にしている内容の重さとは裏腹に、からからと陽気に笑う。そういうモノなのだと、カトレアは理解する。

 『世界の欠陥』だの『物語』だのはよくわからないが、ともかくこの男は、世界を変える力を持っていて、それをカトレアに使ったのだ。同情ではない。おそらく興味――それ以下かもしれない情動から。


「それで、何か望みはないのかよ」


 問われて、カトレアは静かに答えた。


「何も――何も。死ぬ運命から逃れられただけで十分ですわ。……そうあるべき形から逃れられただけで」


 『バグ』の影響だろうか。カトレアの脳裏には崖崩れに巻き込まれて泥の中死ぬ自分がありありと浮かんでいた。

 それが本来の自分の末路だったのだと、言われずともわかる。そうならない運命を与えられたのに、それ以上を望むのは、『愚かで惨めなカトレア・ローゼンベルグ』を上塗りするだけの行為に思えた。


 「そうか」と、カトレアの答えに興味なさそうに『バグ』は頷いて、「それじゃあこの先どう生きるかだ」と言った。


「俺におんぶにだっこで好き勝手して生きるか、自分の力で地道に生きる術を探すか」

「前者の表現に悪意がありますわね。その選択肢で選ぶと思いまして?」

「どうせ選ばないと思ったからな。頭空っぽのお姫さまじゃなくなったあんたは、それを矜持が許さないだろ」


 その通りだった。後者の選択肢にどれだけ未来が見えなくとも、だからといって『バグ』にすべてを任せ、かなえさせる安易な道を選び取る――カトレアはそんな人間ではなくなってしまっていた。


 これが突如として現れた『バグ』などではなく、長年共にいた、例えば親族からの申し出ならばもしかしたら頷いてしまっていたかもしれないが、それはつまるところ、『甘える』ということだった。

 いくら自分の望むことを何でもかなえてやるなんて言われていて、それが簡単にできるのだろうと理解していても、出会ったばかりの人物に甘えられるほど、カトレアは矜持を捨てていなかった。


 カトレアは高慢で我儘で自分勝手で、きっかけがあれば愚かな真似をしてしまうことが事実としてあったが、それはそれとして自分なりの矜持を持った人間だった。


「自分の力で地道に生きる術を探すか――と言いましたわね。あなたは、わたくしにそれができると思っていますの?」

「あんたが貴族としての自意識を捨てられるんならな」


 その言葉に、カトレアは一瞬怯んだ。

 けれどどうせカトレアは貴族としては死んだようなものだ。――否、もしかしたら本当に死んだことになっているのかもしれない。あるいは不可思議な現象によって行方不明になったとでも。

 こうして『バグ』についてきた以上、元の『カトレア・ローゼンベルグ』には戻れないだろうことを、カトレアは理解させられていた。

 ゆえに、少しの強がりを含みながら、それでも告げた。


「貴族の自意識も何も、わたくしはもう、ただのカトレア・ローゼンベルグ――いえ、ただのカトレアでしかありません。培ったものをすぐには捨て去れないかもしれませんけれど、自らの力で生きることができるというなら、やれるだけのことはやりますわ」


 そのカトレアの言葉に、『バグ』は相変わらず笑っていない目のまま笑みを浮かべて、ぱちぱちと無感動に拍手をした。


「ご立派な決意表明だ。――じゃあ、この城はもう必要ないな」


 また周囲の景色が変わる。豪奢な部屋は消え去り、小ぢんまりとした――カトレアの持っていた自室よりも格段に狭い一室に変わる。装飾などろくにない、今のカトレアには薄汚れたようにすら見えるそれが新しい住処なのだと、言われずともわかった。



 そうして、カトレアの第二の人生が始まった。


 「これくらいは手助けしてやるよ」という言葉とともに突然市井の人々の暮らし方が頭に流れ込んできたことで、カトレアは倒れた。


「これくらいで倒れるとか、人間は弱っちぃな。それともあんたが特別に弱いのか?」

「自然な……現象でない……時点で……。負担がかかると、思わなかった……あなたの落ち度では……なくて……?」


 息も絶え絶えに反論したカトレアを見て、『バグ』は多少思うところがあったらしかった。カトレアを寝台に運び、起き上がることができるようになるまで面倒を見てくれた。


 そんな始まりだったものの、確かに、日常生活については、『バグ』によって流し込まれた知識がカトレアを助けた。それがなければ、カトレアは何がわからないのかわからないまま、立ち尽くすしかできなかっただろう。


 『バグ』の手を借りて、とりあえずの日常生活が送れるようになったカトレアは、貴族として身につけた技能を人々に教えることで生計を立てることになった。

 初めは、人に教えられるような知識が自分にあるかどうかも懐疑的だったが、市井の人々と触れあううちに、彼らが欲しているものを汲み取ることもできるようになった。


 礼儀作法や刺繍や楽器のみならず、文字そのもの、あるいはカトレアにとって『常識』であることを教えることもしばしばあった。平民の識字率が思っていた以上に低かったことをカトレアは知った。

 人々はカトレアを『訳ありの貴族関係者』として理解したようだった。さすがに貴族そのものではなく、貴族同様に育てられた何某かだと思っているようだったが。


 カトレアの新しい住居は王都から遠く離れた場所だったので、知り合いに会う危険性もなかった。そもそもそのような事柄が起こらないよう、『バグ』がなにがしかをしているようだった。


 カトレアは自らの足で街を歩き買い物をすることを覚えたし、自らの手で料理することも覚えたし、自ら稼いだお金で生活することの難しさも知った。



 そんな生活がなんとか軌道にのった頃、『魔王』が蘇ったとの報が入った。

 市井の人々は寝耳に水の様相で恐慌した。

 貴族として生まれたカトレアにとっては、近いうちに『魔王』が蘇るというのはよくよく言い聞かされていたことだったので驚かなかったが、貴族以外の人々にとって『魔王』というのは寝物語の登場人物でしかなかったようだった。

 カトレアはその意識の差に――与えられていた知識の差に驚いた。



 その頃にはカトレアが自ら生計を立てる様をたまに見に来るだけだった『バグ』は、「魔王の復活は既定路線だ」と言った。


「『主人公』が相手役と力を合わせて倒すべき敵、ってのがいないと話が盛り上がらないだろう?」

「では、魔王は倒されますのね」

「それはどうかな。『主人公』が怠けてたら負けるかもしれないぜ?」


 カトレアは目を細めた。もう遠い昔のことのように、『バグ』の言うところの『主人公』を思い浮かべた。


「……彼女は、そういう子ではないと信じますわ」

「虐め抜いたのに?」

「虐め抜いたからこそ、ですわ」


 自意識の急変があったとはいえ、自分が為したこと、それによって知り得たことは変わらない。自分の愚かな虐めに耐え抜いた少女が、『バグ』曰くの『物語』で成し得るとされていることを失敗するとは思えなかった。


 思いたくなかった、が正しいのかもしれない。自業自得とはいえカトレアが死ぬべきであったのなら、それを経た先にある未来は拓けたものであってほしかった。




 カトレアは、恐怖する人々に「このために魔法の力を持つ人間たちは育成されてきたのだ」と説いた。それはカトレアが当然のように知っていた事実であったが、市井にまではあまり知られていなかったようだった。そのような細々としたカトレアの活動の末に、カトレアの生活区域はなんとか落ち着きをみせた。


 その頃には、カトレアを頼ってやってくる人々も見られるようになった。

 何も知らないということは、闇雲な恐怖を呼ぶ。翻って、情報を得ることは精神の安定に繋がる。

 カトレアに与えられるのは知っている知識だけだったが、それすらも不足していた人々には光明のように思えたらしい。その輪は少しずつ広がっていった。


「『主人公』様は力を覚醒させて、救世の聖女として、あんたの元婚約者とあと数人、男共を引き連れて旅に出たそうだぜ」

「そうですの。『学園』の総力をあげて対応するべき事柄――といっても、いろいろしがらみもありますものね。全員で向かうというわけにもまいりませんでしょう」

「『魔力の強さでは三指に入るローゼンベルグ家のカトレア』が在籍していたら、どうしてたと思う?」

「そんな恐ろしい旅なんて全権力をもって回避したでしょうし、万が一同行していたとしてもなんの役にも立たなかったでしょうね。『魔力の強さと家柄だけが取り柄のカトレア・ローゼンベルグ』でしたので」

「かつての自分への認識が的確すぎるほど的確だな」

「そうさせたのはあなたではなくて?」

「違いない」




 時折『バグ』が気まぐれに落としていく情報を含めて、カトレアはただただ、知っていることを市井の人々へと語り続けた。

 情報の入りづらい辺境で、それは人々の命綱のような扱いになっていった。何か特別な情報網を持っていると思われているらしいと気付いた時も、ある意味では間違っていないとカトレアはあえて否定することはしなかった。


「よお、『カトレア様』」

「あなたにそう呼ばれるととても気味が悪いですわね。何のおつもり?」

「この辺りの人間には、そうやって呼ばれてるだろう? 貴族時代を思い出してるんじゃないかと思って」

「見当違いですわね。……彼らは、わたくしでなく『情報を与えてくれるもの』に敬意を示しているのですわ」

「それはあんたに敬意を示しているのと同義だろう?」

「まったく違いますわ。わたくしは、ただの『カトレア』。ほんの少し、市井の人々よりも知識を持っていて、情報を得る伝手――あなたのことですけれど――があって、それを与えているだけ。本来なら、あなたに向けられるべき敬意ですわ」

「はあ。俺に?」

「こんな辺境では、情報というのはとても貴重なのですわ。わたくしだって、あなたが気まぐれに情報を落としていかなければ、きっと落ち着かない日々を過ごしていたでしょう」


 カトレアの言葉に、『バグ』は笑みを浮かべた。いつもどおりの形だけの笑み。


「そうか? 案外、そうはならなかったんじゃないかと思うぜ。……今のあんたは、自分への評価が辛いからな」




 そうして、『魔王』が蘇って一月。長いようで短い時間を経て、『魔王』は倒された。

 その報は街中を駆け巡った。誰も彼もが手を取り合って喜んだ。

 カトレアもまた、自室でその報を聞き微笑んだ。


「……彼女は、勝ちましたのね」

「あんたの元婚約者とその他男どもと一緒にな」

「『魔王』が彼女一人で勝てる相手だったら、貴族の面目が丸つぶれでしたわね。きちんと役に立つ場面があってよかったこと」

「辛口なんだか甘口なんだかわかんねぇな」

「そんなあなたは、最近存在感が薄いですわね。――それはこの『物語』が終わりに近づいているからですの?」


 『主人公』様と『魔王』との戦いがいわゆる『物語』の佳境というものだとしたら、『バグ』曰くの『物語』は終わりに近づいているのではないかと――そう思い至ってから、カトレアは『バグ』の変化に気づいた。


 『バグ』はどこまでも、この世界に在りながら違和感を覚えさせるようにできている。だが、少しずつ、その違和感があいまいになっていた。もっと言うのなら、『バグ』の存在感が薄まることで、比例して違和感が少なくなっていた。


 カトレアの問いに、『バグ』は笑みを深めた。


「――気づいてたか。まあ馬鹿でもない限り気づくよな」

「『頭空っぽの愚かなお姫様』だったら、気付かなかったでしょうけれど」

「今のあんたは『辺境の心優しいお姫様』だからな」


 『バグ』の当てこすりに笑う。随分と柔らかく笑えるようになったものだとカトレア自身も思う。


「人の噂というのは、不思議なものですわね。過去に為したことなんて関係なく、見たいように物事を見る」

「そうしたのは俺だし、あんただけどな」

「そうですわね。けれど、住みよい環境をつくるのは大事でしょう? わたくしは自分の力で――自分の力だけで、生きていかなければならないのだから」

「そうだな。俺の反則技も、もうそろそろ使えなくなる。だが、それでも問題ないくらいに、あんたは市井に溶け込んだ。自分の立場を確立した」


 この地域の人々があまりにすんなりとカトレアを迎え入れたとは思っていた。それに、あまりにも何もかもがうまくいきすぎていると。

 その裏で、きっとこの男がなにがしかの『反則技』を使っていたのだろうとわかるくらいには、カトレアも人心というものを知っている。


「お礼を言いますわ、『バグ』。――とても、今更ですけれど」

「礼を言われたくてしたんじゃねぇからな。言うなればただのアフターケアだ。……でもまあ、受け取っとくか」


 『バグ』はこの世界の枠の外にいるのだと、その頃にはカトレアは理解していた。

 この世界に在るものすべてが『バグ』にとっては本来同じだけ無価値で、けれどその中で『いっとう愚かで惨めで哀れ』に見えたからカトレアには彼の手が差し伸べられた。何かが少し違えば、手が差し伸べられたのは『魔王』だったかもしれないとさえ思うし、たぶんそれは間違っていないのだろう。



 『物語』には終わりがある。

 『物語』ではなく『世界』の欠陥だというのなら、その『物語』が終わった後にも『バグ』は存在できるのかもしれないし、そうでないのかもしれない――けれど、それを糾そうとは思わなかった。

 どちらであっても、おそらくもう『バグ』はカトレアの前には現れないのだろうと、そう感じたからだ。


 だから、カトレアはただ、問いかけた。


「ねえ、『バグ』。もう、わたくしは『いっとう愚かで惨めで哀れ』ではないでしょう?」

「――そうだな。『主人公』でも『悪役』でもないが、真っ当に生きてるひとりの人間に見えるぜ」


 たぶん、それが『バグ』の最高の賛辞だとわかったから、カトレアは微笑んだ。

 その微笑みを見た『バグ』が姿を消すまで、揺らがずに。それが貴族でも何でもない、けれどこの地で生きることを決めた、ただの『カトレア』の矜持だった。



* * *




 あの日のことを、カトレアは未だに夢に見る。


『カトレア・ローゼンベルグ。君の所業は目に余る。――婚約は破棄させてもらう』


 婚約者に、そう、冷たい目で告げられた日のことを。

 けれどそれはもう、ただの思い出になったのだ。カトレアは、『カトレア・ローゼンベルグ』ではなく、ただの『カトレア』としての人生を歩み始めたのだから。


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いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持 空月 @soratuki

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