溜飲
支柱にしがみつきながら、なんとかフェンスの上でまっすぐに立ち上がる。足は大きく揺らぎ、それに合わせてフェンスはカシャカシャと鳴いた。足の裏には汗をかいていて、サンダルの上にぬめる恐怖で、更に足は大きく震えた。
恐怖をふるい落とすように、足下から視線をあげる。目の前の街灯をあらためて見て、私は大きく息を呑んだ。
太陽の青色は、江ノ島のそれによく似ていた。
不安定に揺らめいていた体から、集中力の全てが視線に集まっていく。電熱線はふわふわと青い光を柔らかく纏い、空気の流れを緩やかに支配していく。一瞬とも永遠ともわからない時間、私はただそれに目を奪われていた。
薄く蜘蛛の巣が張り、何匹かのユスリカが囚われている。またべつの彼らは器用に糸をくぐり抜けて、ちかちかと目にも留まらない早さでその身を揺らしている。強い光をその身に受けた彼らは、妖精の鱗粉のように輝いていて、夢のようだ、と思った。
表面はなだらかな丘のような平たい楕円を描き、硬化ガラス材のカバ-の壁の奥に、ギラギラと輝く瞳を湛えていた。
眼前に迫ったその青色の太陽に、私はゆっくりと震える手を伸ばす。
その瞳は、私の手の平にじんわりと熱を伝わせた。柔らかく淡いその温みは、どこかおばあちゃんの手を彷彿とさせたけれど、硬質ガラスの表面は、悲しいくらいつるりとして、滑らかだった。
ユスリカが、飛んでいる。
私の手にふいと止まり、また気まぐれに飛んで離れていく。指先や手の甲に触れるユスリカの感触はさわさわとくすぐったかった。
ユスリカたちが、私が欲しかったおばあちゃんのあの傷や皺を、奪ってしまったのだと思った。
「おばあちゃん」
いや、ちがう。
手の甲にとまった1匹のユスリカと、ぱちりと目が合った、気がした。それはおだやかに羽を上下させ、じっと私を見つめている。
柔らかかった街灯の熱は手の平に滞留し、手の平はだんだんと熱を帯び始める。
ふと、昨日の夕にみた蚊柱を思い出した。ふわふわと宙に漂い、何とも分からないシルエットを作っていた、ユスリカの群れ。細く天に伸びていく線香の傍で、それはただその場でぐるぐると低迷し、燻っていた。
「おばあちゃん、」
ああ、と思った。気付いてしまった。
おばあちゃんは、そこに。ユスリカの群れの中に、溶けてしまったのだ。
「おばあ、ちゃん」
雫がひとつ、溢れて落ちる。
触っていられない程に熱は嵩み、手の平は段々と痛くなる。私は慌てて街灯から手を離す。と同時に、バランスを崩して、フェンスから落ちてしまった。
強く打ち付けた背中が鈍く、重い痛みを全身に響かせる。すりむいた膝からは赤々とした血がにじみ、錆の匂いがした。
じわじわと涙腺が緩む。おばあちゃんを、もう一度呼んだ。
「おばあちゃん」
あぁ、と嗚咽を漏らし、私は動物のように、声をあげて泣いた。
もうおばあちゃんは、私が泣いても傍にきて抱き締めてはくれないのだ。私が怪我をしても、絆創膏を貼ってはくれないのだ。
もう、私はおばあちゃんの手を握ることが出来ないのだ。おばあちゃんは、もう私の傍にはいない。
おばあちゃんは、死んだのだ。
嗚咽が落ち着いてから、目元をぐしぐしと拭って、私は腰を押さえながら一人でそっと立ち上がった。手の平には、じんわりと街灯の熱と痛みが残っている。
気が付けば空の端は白み初めている。暗闇に溶けていたシイの木は、陽光に照らされて、薄黄緑色の葉を輝かせていた。
家に帰ろうと、ベンチにおいたままのレジ袋を手に取った。夜を寝ないで今日を迎えてしまったから、明日が今日に重なってしまった。だから、私にはしなければならない事があるのだ。
ユスリカは飛び回り、夜明けと共に霧散していく。街灯の明かりが段々と薄れ、そのシルエットは薄くなっていった。
ユスリカ 小林 凌 @nu__nu
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