夢現


 街灯の背には錆びた水色のフェンスが立ち、またそれを見下ろすようにシイの木がそびえ立っている。大きなおばけのように腕を広げたそれは空を高く覆い、街灯の光を際立たせていた。

 再び大きく口を開き、喉の奥にアルコールを流しこむ。

 お世辞にも美味しいとは言えないけれど、開けてしまった缶を放置することも出来ない。炭酸が抜けないうちにと流し込んでいると、胃が炭酸で膨れていく感覚がした。自分が風船になったみたいに体はふわふわと軽くなり、中心がじんわりと熱を持ち初める。思考は段々とぼやけ、体中に蔓延っていた乾きが、ひたひたと満たされていくのを感じた。

 ぼんやりと街灯を眺めていると、その手前にユスリカの蚊柱が立っていることに気が付いた。

 黒い点の粒がゆらゆらと揺らめいて、遠近感が掴めないせいか、深夜テレビの砂嵐のようなノイズが、目の表面を覆う。目の奥がくすぐったく、じぃと見つめていると目が変に惹き付けられていく。

 私の中に燻っていたいろんなことが、ぼんやりと覆われて、私から乖離してふわふわと重みを失っていく。微睡みの過渡期によく似たその感覚に、私はそっと耳を澄ませ、海の匂いを探していた。



 ────視界が眩しくて、暗い。


 うすぼんやりにでも見えているはずの木の葉の輪郭や、自分の指の縁が滲んでいく。街灯の光はだんだんと色を失っていき、いつしかそれは青い太陽のように映った。背景にあったはずのシイの木は闇と同化して、その存在を夜に溶かしている。視界がじわりと狭まって、街灯に吸い寄せられるみたいに、私はベンチから腰を上げた。

 膨大に広がった暗い夜の海に青い灯台が立ち、こちら、こちらと呼んでいる。ふらふらと熱に浮かされたように足を差し向け、ユスリカに混じり、私はそれに手を伸ばした。

 支柱の根元に立つと、それは思いのほか背が高かった。私の倍くらいの高さの位置にその光を宿し、私を、公園を見下ろしている。腕をぐんと伸ばしても、支柱に体を預けてつま先で街灯に寄りかかっても、ぴょんと小さく飛んでみたって、指先はかすりさえしなかった。

 届かないのは当然だった、けれど。

 私はぐっと息を呑み、街灯の背に隠れているフェンスに手をかけた。かしゃん、とフェンスは小さく鳴き、私はその網穴の一つに、サンダルのつま先を突っかけた。

体の中で燃えるような熱が渦巻いて、私のなかでざわめき、暴走し、突き動かした。

「わたし、も、……っ」

 両腕に力をこめて、よじ登る。ふわふわとした手足の中で熱が暴れ、体が思うように動かない。バランスをうまくとれず、金網はぐらぐらと不安定に揺れている。私は支柱に手をつきながら、落ちてしまわないように体を支えた。

 涙腺がじわりと熱をもち、私は、ぐ、と口の端をきつく結んだ。


 泣きそう、だった。

 手を伸ばしても届かないことなんて、今までだってあったはずだった。諦めることなんて慣れているはずで、今だって、手が届かないならそれまでで、諦めれば良いはずだった、のに。


母が帰ってこなくなったことも、父が目を合わせてくれなくなったことも、同級生との誤解を解けないまま、学校に行けなくなったことも。

おばあちゃんの遺品を父が勝手に捨てたことも、江ノ島の家を勝手に売られたことも。

私にさよならも言わずに、おばあちゃんが勝手にいなくなったことも。

諦めて、終わったふりをしていればそれでよかったはずなのだ。手から離れていくのなら手をぎゅっと握りしめて何もなかったふりをすれば良いし、手の届かないのなら諦めれば良い。なんとなく時は進んで、世界は勝手になるようになっていく。だから、大丈夫。

大丈夫な、はずなのに。

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