第22話 乗り越える
○乗り越える
エリとミクがシェアハウスとして借りて居る通称「海の家」には、ちょうど良い別邸があった。エリはその建物も借りて居て、スタジオとして利用して居た。
エリは売れっ子の映像作家だった。その為、生活空間とは別に仕事に必要な空間も確保しておきたかった。この「海の家」を借りるとき、たまたま隣り合って居た建物にエリは目を付けた。この別邸のような建物もヤマトの関連会社が管理しており、エリはこの別棟も借りることにしたのだった。
別棟には防音工事を施してあった。外部からの音はもちろん、内部からの音も漏れ出さないようにと工事を済ませてあった。
エリは、この音を遮断された建物の中で集中して作業をすることが好きだった。そうした中でエリは、辛いことも忘れて作業に没頭できた。これまでも夫であった響太郎のことを思い出しては、暗く沈んでいた日々も、仕事に集中することで紛らわせることが出来て居た。
だが、今は、アシスタントとしてミクがこの館内に出入りし、今では、ヤマトも良き仲としてこの建物に出入りして居た。エリは、ヤマトたちと接するうちに自然とヤマトに心を許し始めて居た。もしかしたら、初めてヤマトと出会った時から、心を許して居たのかもしれない・・・。今では、そう思えるようにまでエリの想いはなって居た。
「ヤマトさん・・・どうぞ・・・?」
エリはヤマトを別館に招き入れる。
「ありがとう」
ヤマトはエリに揃えて差し出されたスリッパに片足を入れた。
「今日も仕事かな?エリさんは?」
ヤマトが言う。
「ええ、今のところ締め切りが差し迫って居る訳でも無いの・・・。それでも、出来るだけのことはしておきたくて・・・」
「取材して来た映像を処理して居るのか?」
「ええ・・・。細かくチェックしながら素材に出来るものを分けて居るの・・・」
「気長な作業になるな・・・」
「そうね・・・。でも、楽しいわよ?」
エリは、”ニコリ”と笑う。
「ヤマトさんは・・・?今夜もいつもの見回りなんでしょう?」
「ああ、そうだな・・・。だが、数時間なら付き合える・・・」
「馬鹿・・・」
エリは、ヤマトの誘うような口調に恥じらいを見せる。
「エリさんは、いつまで響太郎さんに操を立てて居るつもりなんだ・・・?」
ヤマトは館内の一室に作られたスタジオの椅子に座り込んで言う。
「操だなんて・・・。ヤマトさんって意外と古風な物言いですよね・・・?」
エリは”クスリ”と笑う。
「普段、年上とばかり話して居るからな・・・」
「お父様とかお祖父様、叔父様・・・皆さん、立派な方々ばかりなんでしょう・・・?」
「家族経営の一族主義だからな・・・。似たり寄ったりの考えになる・・・」
「ヤマトさんも口調が似て来て・・・?」
「そう言うことだ・・・」
エリは、スタジオの脇にあるミニキッチンでコーヒーを沸かし始める。
「う〜ん・・・。いつもながら好い香りだ・・・」
ヤマトは鼻を”ヒクヒク”と燻らせる。
「ヤマトさんは、結婚は?なさらなくて良いの?」
「ああ・・・、そうだったな・・・」
「クスクスクス」
「何が可笑しいんだ?」
「”ああ、そうだったな・・・”なんて・・・。他人事みたいに言うから・・・つい・・・」
「他人事だ・・・。どうせ、始めから親元で決められるんだ・・・。俺の人生なんて・・・関係が無い・・・。俺もそれで良いと思って居た・・・。ミクと別れさせられた後ではな・・・」
「ミクちゃんのこと・・・本気だったんでしょう・・・?」
「まあな・・・。だが、妹ではな・・・」
「そう・・・」
エリは、ドリップを続けるコーヒーメーカーを見つめる。
「いま・・・過去形で言ったことが分かったか・・・?」
ヤマトはエリに聞き返す。
「えっ・・・?」
エリは思わずヤマトへと振り返った。
「俺は、いま、過去形で言ったんだぞ・・・。”俺もそれで良いと思って居た・・・”とな」
「え、ええ・・・」
エリは怪訝そうにヤマトを見つめる。
「いまは、そうでは無いと言うことだ・・・。分かるか・・・?」
ヤマトはエリに促すように言う。
「な、何を言いたいの・・・?」
エリはヤマトを見つめ返す。
「俺も恋がしたくなった・・・。それも、俺が好きになった女とな・・・」
「えっ・・・?」
ヤマトは椅子から立ち上がるとエリの正面に立つ。ヤマトはエリの正面に立つと背の低いエリを見下ろして言う。
「好きになっても良いか?」
「えっ・・・?」
エリは思わぬ言葉にヤマトを見上げる。
「本気だ・・・」
「で、でも・・・」
エリは肩を逸らして、ヤマトの視線から逃げようとする。
「すぐにとは言わん・・・」
「で、でも・・・」
エリは再びヤマトを見上げる。
「その気になったらいつでも言ってくれ。それまでは、手は出さない。約束する」
「でも・・・」
「また、”でも・・・”か・・・。他に言葉は無いのか・・・?」
ヤマトは距離を置いて、エリを見つめる。
「そ、そんなこと・・・急に、言われたって・・・」
「だから、急がないと言って居る・・・」
「でも・・・」
エリは、言葉が続かないことに焦りを募らせる。
(ヤマトさんの気持ちは嬉しいわ・・・で、でも・・・)
エリはまだ、響太郎のことが頭から離れなかった。目を閉じればすぐに響太郎のことが頭に浮かんだ。
警察の調べでも響太郎は事故死と言うことになっている。死亡届も出してあり、身内だけの葬儀も済ませた。遺骨は無いが、墓もある。仏壇に位牌だってある。それでもエリは、死別を選ばずに響太郎の未亡人として生きて居る。弥太郎の義姉としていまも生きて居る。
「ヤ、ヤマトさん・・・?」
「何だ・・・?」
「きょ、響太郎がまだ・・・」
「お前さんの中では生きて居る・・・そうだな?」
「え、ええ・・・」
「だが、現実には・・・?どうだ・・・?彼は、居ない・・・そうだな?」
「はい・・・」
「現実は・・・?理解出来て居るんだな・・・?」
「ええ・・・おそらく・・・。きっと・・・」
エリは力無く頷く。
ヤマトは、そのエリが現実を直視しようとするたびに力を失っていく様子に残された女の情の深さを想って惚れ込んだ。
(俺にも・・・こんな風に・・・想ってくれる者が欲しい・・・)
ヤマトは男としてエリを抱きしめたいと思った。
「俺は、いつでも待つ・・・。そう言って居るだろう・・・?」
「え、ええ・・・」
エリはコーヒーポットを手に取る。
”トポトポトポトポ・・・”
エリはコーヒーを2つのカップに注いで行く。
「でも、私なんかで・・・ヤマトさんのご身内がお許しになりますか・・・?」
「なんだ・・・そんなことか・・・?」
「そ、そんなことか・・・って・・・、だ、大事なことでしょう・・・?」
「フン。そんなことならお構い無しだ・・・」
「えっ・・・?」
エリはコーヒーの入ったカップをヤマトに渡す。ヤマトは”ズズッ”と熱いところを一口だけ、口に含んだ。
「俺は、ミクを諦める代わりに親父たちから一つの約束をもぎ取ったんだ・・・」
「約束・・・?」
「そうだ・・・」
ヤマトは、カップを作業台に置いた。
「もしも、俺が惚れた女が現れたら、親父たちには俺に従って貰う・・・。だが、そんな女が現れなければ、俺は親父たちに従う・・・とな」
ヤマトはエリを見つめる。
「俺には、その女が現れたんだ・・・エリ・・・それが、お前だ・・・信じて貰えるか?」
エリは、それまでは他人行儀だったヤマトが一線を越えて敬称を省略したことに気がついた。
「で、でも・・・」
エリは、戸惑いと共に恥じらいを見せた。
(ヤマトさんは名実共に・・・立派だわ・・・響太郎とは比べものにならないくらいに・・・。で、でも・・・)
エリは、目を閉じると浮かぶ響太郎の笑顔に涙を流す。
「うっ・・・」
無音のスタジオにエリの嗚咽が響いた。
「泣かせるつもりは無かった・・・」
ヤマトは悪いことをしたように大人しくなる。
「うっ・・・ぐずっ・・・」
エリは、泣き止みたいのに止まらない涙に動揺を見せる。
「すまない・・・」
ヤマトは、エリに触れることに対して謝ったのか、これまでの流れについて謝ったのかも曖昧にして、エリを正面から抱きしめた。
「泣かせてすまない・・・」
ヤマトは優しくエリを包み込む。
「ごめんなさい・・・」
エリはそれだけを言うことで精一杯だった。
「その”ごめんなさい”は、”いま”は、ごめんなさいと言うことで良いんだな?」
「うっ・・・うっ・・・」
「良いんだな?」
ヤマトは語気を強くして言う。
(ごめんなさい、ごめんなさい・・・ヤマトさん・・・いまは、これだけで、許してください・・・ごめんなさい・・・)
エリは言葉にならない想いを両腕に込めて”ギュッ”とヤマトの背中を抱きしめた。
ヤマトはエリのさり気ない意思表示を見逃さなかった。
「分かった・・・許す・・・」
ヤマトはそっとエリを解放すると”グイッ”とコーヒーを飲み干した。
「行って来る・・・」
ヤマトは一言だけ発すると振り向きもせずにスタジオを後にした。
”バタンッ”
スタジオ内にドアが閉まる音が響き渡る。
「ううっ・・・うっ・・・」
エリは膝から泣き崩れる。
「うわあ〜ん・・・ああああ・・・」
エリは響太郎を失ってから今夜ほど泣いたことは無かった。
(ごめんね・・・キョウ・・・あなたが過去に成って行くことを・・・許してね・・・あなたを・・・愛して居たわ・・・ずっと・・・今日まで・・・)
「あああーーーっ」
エリは誰にも聞こえない悲しみの声をスタジオ中に響き渡らせた。
(さようなら・・・キョウ・・・またいつか会いましょう・・・そのときは・・・”う〜んと”・・・このダラシの無い・・・”イケナイ”私のことをナジってね・・・キョウ・・・さようなら・・・)
エリは、床に頽れて泣き伏せった。
ヤマトは、スタジオに残したエリを思って、やりきれない想いを奥歯で噛み締めて行く。
「いまは、辛い・・・だが、乗り越えられる・・・二人なら・・・」
ヤマトは、関連するプラントの敷地内に入ると”キリッ”と意識を切り替えた。
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