お日さまの忘れ物

田中

お日さまの忘れ物

 風薫る、というにはいささか季節外れな、燦々さんさんと陽の照り付ける八月のことだった。

 人影の少ない木造駅舎から姿を出した明日香あすかを出迎えたのは、雨上がりの熱い匂いを運ぶ柔らかな風だった。幾年振りのふるさとの空気をすうっと胸いっぱいに吸い込み、茹だったアスファルトの土っぽさを鼻腔に残したまま、ゆっくりとはき出す。

 そっと太陽に右手をかざすと、手指のきわに真っ赤な縁が浮かびあがり、切りつけるような陽光に透かされた手のひらが硝子細工がらすざいくのように小さく熱く輝く。そのままぎゅっと手を握りしめると、小さなお天道様を捕まえたような熱がたなごころに残った。あれから何年と経っても変わることのない温もりが、今でもほんの少しだけ憎たらしい。ふふ、と小さく笑みがこぼれる。

 駅前に、まだ千尋ちひろの姿はなかった。ケータイを取り出すと、Eメールの受信を知らせるオレンジ色のランプがちかちかと薄く光っている。昨夜は大雨だったそうだから、おおかた山道がぬかるんでいるのだろう。迎えが来るまで、あと十分は待つことになりそうだ。

 耳を刺すような蝉時雨に包まれながら、荷物と土産物が入ったスーツケースの取手をぎゅっと握りしめ、日陰のあるバス停へ足を急がせる。日に数えるほどしかバスの来ない停留所のベンチに腰掛け、そっと薄手のカーディガンを羽織った。

 まばらに車が往来する駅前の小さなロータリー。その中央にそびえるのは、“町の木”だというヤマザクラの老木。陽に焼かれる木の葉からつうと垂れた水滴は、地面の水溜まりへ落ちて、ぽちゃんと小さくねた。



 明日香が四ノ原町しのはらまちから離れることになったのは、小学四年生の夏だった。

 父の仕事の都合で一家三人東京へ引っ越すのが決まったのはちょうど梅雨入りが発表された日で、その二月後には、一足先に赴任していた父の元へ母と二人で移ることになった。

 四ノ原を後にしたあの日、見送りに来てくれた人々の中に剛史つよしの姿はなかった。親友の千尋が手渡してくれた学校のみんなからの寄せ書きにも、端っこに「てん校しても元気でね むかいつよし」という文字が申し訳程度に殴り書かれているだけだった。ごめんねぇ、礼知らずのガキで、とばつが悪そうに謝る剛史のお母さんには悪いけれど、剛史が見送りに来なくて良かったと明日香は内心で思っていた。ぐずぐずと泣きべそをかくことなく笑顔でさよならを言える程度にはお姉さんでいるつもりだったけれど、もう取りに戻ることの叶わない忘れ物を諦められるほど大人ではなかった。

 最後に剛史と顔を合わせたのは、この町を去る前日の夕方だった。

「またね、あすか

 あの日、別れ際に聞いた剛史の声が脳裏をかすめる。名前とは裏腹に細身で小柄な、明日香より一つ年下の少年は、そのとき初めて「あすかちゃん」ではなく「あすかさん」と呼んだ。どん、と胸を強く突き圧されたような感覚に、明日香は手を振り返すことすらできなかった。

 剛史とは家が隣どうしで、物心ついた頃から毎日のように一緒に外で遊んでいた。大きなミズナラの木の下に、二人だけの“秘密基地”を作ったこともあった。けれど、幼い少年少女の細く柔らかな絆など、ぐんぐんと成長していく子どもの自尊心と恥じらいの前には無力だったのだろう。剛史が小学校三年生に上がる頃には男子だけで遊びに行くことが増え、明日香とは少しずつ距離が開いていった。それがなんだか悲しくて、だから、この町を去る前に最後にもう一度だけと剛史に声をかけて“秘密基地”に連れだしたのだった。

 茜色に染まった夕空の下、歩いて帰る道すがら、明日香は涙をこらえ切れなかった。何が変わってしまったのか、何を失くしてしまったのか分からないまま、溢れ出るままに嗚咽を漏らしながら歩いた。せめて、こちらも笑って手を振り返せばよかったのか。そうしたら、何か変わっていたのだろうか。胸の奥になにか重たいものがずっしりと沈み込んだような感覚は、翌日、この町に別れを告げるときになっても晴れることはなかった。

 町から出る電車に乗ったのは初めてだった。年季の入った単線二両編成のディーゼル車は、がたがたとよく揺れたのを覚えている。窓から外に目をやると、見慣れた景色がどんどん向こう側に流れていくのが見えた。いたずらに横顔を照り付ける陽の光を遮ろうと右手をかざしたとき、またぼろぼろと涙を流していたことに気が付いた。何も言わずにそっと頭を撫でてくれた母の優しさが、斜光を受けて軽く熱を帯びた右手が、どうしようもなくいとわしくて、苦しくて、温かかった。

——私はこの町に、何を置き忘れてきてしまったのだろう。


「でね、翔英しょうえいくんが一年でレギュラー入りだって。すごくない?」

 自分に向けられた声に、明日香はふと我に返る。駅まで迎えに来てくれたライトバンの後部座席、普段使われていないであろうシート。右隣に座る千尋が、自身が通う隣町の高校の話をしきりに振ってくれる。

 人口の少ない四ノ原町の子どもはみな、指を折って数えられるほどしか全校児童がいない地元の小学校に通っていた。千尋と明日香のひと学年下だった翔英も、今は千尋と同じ高校に通い、野球部で活躍しているという。へぇ、すごいや、と気の抜けた相槌をうつ。

「おっちゃんも若い頃、野球やってたからな。今度、翔英くんに教えたろか」

「去年、走ってこけて骨折った人が何言ってんの。事故起こしたら怖いから喋らんで!」

 車のハンドルを握ったまま調子のいい口を挟んだ佐田野さたののおっちゃんは、娘からどやされて「へぇい」と情けなく呟く。千尋が生まれてすぐに奥さんを亡くし、男手ひとつで個人商店を切り盛りしながら一人娘を育て上げたという見上げた大人だが、ひょうきんで童心に溢れ、子どもによく好かれる性格をしている。そんな父親と二人暮らしなものだから、しっかり者の千尋は小学生のころから女房役が板についていた。

「でも、嬉しいね。明日香ちゃんがちょっとだけでも帰って来てくれて」

「いえ、もうすっかり余所者ですよ」

「そんなこと言うでねぇよ。千尋のやつ、えらく楽しみにしてたんだぜ。今朝なんか五時前に起きて、ずーっとそわそわしてやがんの」

 喋るなって言ったでしょ、と詰りながらも、千尋は七年ぶりに会う友人に顔を向けてふふっと笑みをこぼす。時が経っても変わらない二人の様子に、明日香も思わず笑い返した。

 明日香の通う東京の高校で夏休みの課題として出された「地元の歴史習俗に関する調べ学習」。大学受験を一年半後に控えた高校二年生にはなかなか歓迎されにくい難物だったが、文通相手の千尋に愚痴をこぼしたところ、せっかくならばと時ならぬ一泊二日の“里帰り”をする運びになった。佐田野商店の二階の千尋の部屋、そこが今宵の小さな同窓会の会場だ。

麻衣まいちゃんと加奈子かなこ先輩も来るからね。せっかく明日香がいるんだから、今日はみんな敬語禁止って言ってある」

 それにしても、と千尋が言葉を続ける。

「夏は半袖短パンの山猿だったのが、ずいぶんおしとやかになっちゃって。やっぱり東京は世界が違うんだね」

「ねぇ、またそれ言うの?」

 小綺麗なベージュのワンピースに身を包んだ幼馴染を見てにやにやしながら軽口をたたく千尋に、明日香は頬を膨らませる。いつも男子と一緒に野山で遊んでいたせいか擦り傷が絶えない腕白な子どもだった明日香は、女子のくせに山猿みたいなやつだと周囲に評されていた。小学生だったとはいえ女の子を山猿呼ばわりとはずいぶん失礼なものだと当時から内心不平を垂れていたが、今となってはそんな記憶も懐かしい。

 少しの間ののち、明日香はおもむろに口を開いた。

「男子たちは元気にしてる?翔英の他にも」

「元気だよ。今日はみんな、都合つかなかったみたいで来ないけど」

 そう、と明日香は小さく息をついた。

「さて、俺は今夜どこに避難するかな……」

 おっちゃんは寂しそうにぼやくと、ウインカーをつけてハンドルをぐるんと大きく右に回した。


 佐田野商店の店頭に置いてある古びた赤いガチャガチャの前には、今も変わらず夏休みの子どもたちが集まっていた。車を停めたおっちゃんは、おおいと呼びかけながら喜々として子どもたちの方へ向かう。

「あの赤い服の子、宮口みやぐちさんちの末っ子だよ。ほら、あんちゃんの弟。覚えてる?」

 千尋が、ひとりの少年を指差した。明日香が引っ越す数か月前、近所に住む杏を臨月の母親が入院している間だけ佐田野家が預かったことがあった。当時四歳だった彼女が寂しがらないよう、その間何度か千尋の家に邪魔をしたのを明日香は思い出した。佐田野家の二階に上がるのはそれ以来だ。

 あの時生まれた子が、もうこんなに大きくなったのか。子どもたちに混ざってカプセルトイに興じるおっちゃんが、なんだか少しうらやましく感じる。こっちだよ、という千尋の声に呼ばれて、荷物とお土産の入ったバッグをぐいと持ち上げ、商店の裏手にある玄関口から屋内に入った。

 ぎい、と蝶番ちょうつがいきしませながら、客間の戸を開けた。客間の畳は、歩くたびにぎしぎしと小さく鳴いた。普段あまり使われていないというが、来客を迎えに行く前に丹念に掃除をしてくれたのだろうか、窓辺や小机に埃が積もっている様子はない。

 部屋の隅の仏壇に手を合わせた後、畳の上にごろんと寝転び、天井の木目をぼんやりと眺めた。外が明るい分、照明の付いていない部屋の中がより一層暗く感じる。深く息を吸いこむと、畳の藺草いぐさがほんのりと香った。

 幼い頃、一度だけ夏風邪をひいたことがあった。確か学校のプール開放日の翌日のことで、当時の自宅で寝室に使っていた和室にひとり寝かしつけられたのを覚えている。動かないでいい子にしていなさい、とよく絞った濡れタオルを額に乗せてくれた母の声が聞こえたあの部屋は、いま明日香が寝転んでいる客間と同じ色をしていた。せっかくの夏がもったいない、と窓の外を見て不貞腐ふてくされながらも、得も言われぬ安心感に包まれたまま眠りに落ちたのが思い出される。

 そういえば、あの時も剛史が両手いっぱいのセミの抜け殻を手土産にお見舞いに来てくれたっけ。

「ずっと、こうしていられたらなぁ」

 寝ころんだまま言葉が漏れると同時に、千尋が呼ぶ声が聞こえた。明日香は慌てて起き上がり、背中を払う。

「ご飯のあとで、ちょっと散歩してみる?加奈子先輩たち、部活が終わってから来るみたいだから、まだまだ時間もあるし」

 壁に掛けられた時計は、午後の一時を指していた。


「へぇ、じゃあ、勉強できるんだね。明日香は」

 かつて小学校まで歩いた通学路。用水路沿いの道を歩きながら、明日香は東京の高校の話を千尋に聞かせていた。陽差しが強いぶん、用水路をちょろちょろと流れる水の音が無性に涼しげに聞こえる。

「もう、テストの点数じゃ勝てなくなっちゃったのかな」

 足元の小石をちょんと軽く蹴りながら、どこか寂しげに千尋が言う。山猿の名に恥じぬ程度には勉強が苦手だった明日香は、テストがあるたびに千尋に助けを乞うていた。しかし、郷に入って郷に従い、東京の高校で進学コースに進んだ今となっては、当時の見る影もないのだろう。それでも、じゃあ後で三角関数を教えてよ、といたずらな笑みを浮かべる千尋には、なぜだか今でも敵わない気がした。

 アスファルトが蒸されたような匂いが、つんと鼻につく。思えば、いつの間にかほとんどの道路が、きれいに舗装されている。残っているのは、近道によく使っていたキャベツ畑の裏の細道と、林道くらいなものだろうか。

 うわ、と千尋が不意に声を上げた。その視線の先に目をやると、灰色の道の中央に、棒がついたままのアイスクリームが落ちていた。子どもか誰かが食べようとしてそのまま下に落としてしまったのだろうか、無念そうに甘い香りを醸すアイスの周りには、容赦なく無数の黒いアリがたかっていた。炎天下にも構わず、せっせと列をなして餌に群がるアリたちに、明日香は不思議と目を奪われた。吸い込まれるように見入るうち、視界の輪郭が、ぼんやりとした光の白さに支配されてゆく。


 光の中で、鮮明に思い出せる記憶があった。

「見て、あすかちゃん。すごいのつかまえた」

 小学校に上がる前の、ある夏の日の昼下がり。明日香が家の庭でアリの行列をじいっと眺めていたとき、剛史はその小さな左手に何かを収めた様子で、たたたっと駆け寄ってきた。あまりに大事そうに左手を抱えているものだから、何か珍しい虫を捕まえたのかと尋ねると、剛史はううん、と首を横に振った。

「じゃあ、何をつかまえたの?」

「お日さまだよ」

 お日さま?と首を傾げる明日香の右手をぐいっと取り、パーにして、と急かすように剛史は言った。言われるがまま、明日香は手のひらを広げた。

「いくよ」

 明日香の右手に、剛史が左手を合わせた。その手のひらは、さっきまで陽の光にあてていたのか、確かに太陽の熱さを残していた。だが、それ以上何か起こるわけでもなかった。不思議に思った明日香が口を開こうとすると、動かしちゃダメ、と剛史が真剣な眼差しで制止した。

 たっぷり一分が過ぎた頃。すっかり太陽の熱を失った左手を健気に明日香へ向け続ける剛史は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。少し気の毒に思い、じゃあお日さまのつかまえ方を教えてよ、と明日香は言った。小さくうなずいて、剛史はばっと立ち上がった。

「お日さまをパーで隠して、じーっとするんだ」

 言われるがまま、太陽に右手をかざした。手を覆うように、真っ赤な血潮がふわりと浮かび上がった。

「そのまま、じーっとガマンだよ」

 手のひらの薄い皮ふが、照り付ける陽の光を受けてちりちりと焼けているのを感じた。額ににじんだ汗が、つうと垂れて目に入りそうになり、ぎゅっと左目をつむった。思わず、まだ?と剛史に言葉を投げた。

「いまだ!」

 剛史の声を合図に、二人は太陽にかざしていた手をぎゅっと握りしめた。すると、右手の中に熱が閉じ込められて、中に太陽の光を握り込んだようにも感じた。そういうことか、と先ほどの剛史の言葉が何となく飲み込めた。

 自慢気な顔をして左手を握っている剛史に、明日香はふと思い立った言葉をかけた。

「ねぇ、もういっぺん、さっきのやろう」

 せーの、と掛け声をして、もう一度二人で手のひらを合わせた。すると、二人の手のひらの間に生まれたほんの少しの隙間に熱が閉じ込められ、じくじくと温まるのが感じられた。それは確かに、二人の手の中に小さな小さなお日さまを捕えたかのようだった。

 二人は思わず顔を見合わせた。なんだか可笑しくて、はじけるように笑い合った。

「お日さまをつかまえるのは、二人じゃなきゃダメだったんだ!」

 世紀の大発見だと言わんばかりにはしゃぐ剛史の笑顔は、太陽のようにまぶしかった。


 少々長めの散歩から戻ると、商店には買い物客がいて、おっちゃんと何やら談笑していた。小さく会釈をしたところ、そういえば、とおっちゃんが明日香の方に向き直る。

「今さっき、剛史くんが明日香ちゃんを尋ねて来たぜ」

 どきり、と心臓が跳ね上がるような鼓動を感じた。遅れて、つう、と背中にひと筋の汗が垂れる。

「出かけてるっていったら、『そうですか』ってしょんぼりしてやんの。たぶん家に戻ってるとこだろな。積もる話でもあるんだろうし、行ってやりなよ。場所、覚えてる?」

 以前の剛史と明日香の仲は、当然みなの知るところだった。千尋も、促すように頷く。妙な緊張感を抱えたまま、おっちゃんに礼を言って、店を飛び出した。


 見慣れた道を歩いていた見知らぬ高校の夏服を着た青年は、こちらを見るなり驚いた顔をした。

 端正な顔つきにすらっとした長身、幼い頃の無垢な面影はすっかり影をひそめていたが、見紛うことはなかった。そして、それは向こうも同じだったようだ。

「久しぶり、剛史」

「久しぶり……です、明日香さん」

付けはやめて」

 明日香は鋭く制止した。取り繕うように「敬語も、」と付け足す。

 こくり、と剛史は頷いた。

 そよ風が二人の間を通り過ぎた。かさかさと下草が揺れる音がよく聞こえる。

「すっかり、東京のお姉さんって感じだね。おれたちとは違う世界の人みたいだ」

 先に沈黙を破ったのは剛史だった。その口元は、照れくさそうにはにかんでいた。

 上手い返答を見つけられず、少し俯いたまま明日香は黙りこんだが、ふと思い立った言葉を投げかけた。

「ねえ、“秘密基地”って、まだ残ってる?」

「……うん、たぶん」

「今からさ、一緒に行ってみてもいいかな。前みたいに」

しばし言い淀んだのち、そうだね、行ってみよう、と剛史はほほ笑んだ。


 獣道を抜け、うっそうと茂ったヤツデの葉をくぐり抜けた先。ミズナラの大木の下のやぶの中に、ベニヤ板が粗雑に置かれただけの、小さく開けた空間があった。それは、十年ほど前に剛史と二人で作った“秘密基地”だった。文字通り、二人だけの秘密の場所として、日の長い季節は毎日のように通っていたものだ。

 今でも、たまに子どもたちが使っているようだと剛史は教えてくれた。ただ、ガキ大将格の子が家族旅行に行っているから今日は集まっていないはずだという剛史の読みは正解だったようで、人影はなくスナック菓子の空き袋とアニメキャラクターのロボットの人形が転がっているだけだった。先に入った剛史は、乱雑に置かれた“生活品”を端によけてベニヤ板に積もった土汚れを手で払い、どうぞ、と明日香にそこに座るよう手で差した。

 二人が並んで体育座りするだけで、以前よりも幾分か窮屈に感じた。

「おれ、明日香ちゃんにずっと謝りたかったんだ」

 剛史が不意に口を開いた。そっと、視線を剛史の方に向ける。

「明日香ちゃんが引っ越すとき、見送りに行かなかったの、あれからずっと後悔してた」

 剛史は、俯き加減のままじっと前を見つめていた。

「最後に会った日さ、別れ際にずっと怒った顔してたじゃない。おれ、ビビっちゃったんだ。何か悪いことしたんじゃないかって考えたんだけど、あの頃はクソガキだったから全然分かんなくて。だから、明日香ちゃんに嫌われたんだと思った」

 少しぱちぱちとまばたきをした後、うん、と軽い相槌を打つ。剛史はそのまま言葉を連ねた。

「でも、考えてみれば当たり前なんだ。ずっと一緒に遊んでたのに、いつの間にか勝手に除け者にされてたら、そりゃ怒るよな」

 おれ、薄情な奴なんだ、と剛史は自嘲的にはにかむ。

「きっと、いつも女子と一緒でいるのが、こっ恥ずかしかったんだと思う。でも、明日香ちゃんに悪いなぁって気持ちはどこかにずっと持ってて、だから、嫌われたと思って明日香ちゃんから逃げてたんだ」

 思わず、笑い声が漏れた。驚いた様子の剛史をよそに、小さく息をついた。

「あんた、真面目だね。そんな反省文みたいな喋り方しないでよ」

 きまりが悪そうに剛史も笑う。

「剛史は優しいね。ずっとそんなこと思ってたんだ」

「そりゃあ、それだけ明日香ちゃんに悪いことしてたから」

 はぁ、と明日香は息をはき出した。

「私、怒ってなんかないよ。あの時」

「ほんとに?」

「うん。ほんのちょっと、ショックだっただけ」

「……そうだよな。ごめん」

 すう、とヤツデの葉のあいだから隙間風が通るのを感じた。

 昔と同じ場所で、同じように剛史と二人で座っている。なのに、全てが違うように見えて、聞こえて、感じた。何かに抗うように、明日香は話を振った。

「覚えてる?剛史がまだこーんなに小さかったとき、『お日さまつかまえた』とか言ってたの」

「お日さまを捕まえた?なんだそれ」

「覚えてないの?」

「ううん、覚えてない、かな」

「……そう」

「何というか、よく分かんない、どうでもいいようなことで感動して、笑ったり泣いたりしてたよなぁ。小さいときって」

「……そうだね。可笑しいよね」

 きゅう、と胸の奥が細く締めつけられるのを感じた。

 重なり合うようにしゃわしゃわと響くクマゼミの声が、やたらと大きく耳に残る。陽が傾きかけているのか、木陰がいやに肌寒い。体育座りのまま、ぎゅっと手を握りしめる。

止まっているのかと紛うほどにゆっくりと、しかし着実に、時間が流れていった。

 七年前、この町には忘れ物を置いてきた。もう取りに戻ることは叶わないと分かっていても、ずっと心に引っ掛かっていた。それが今、間違いなく目の前にある。なのに、どんなに手を伸ばしても、その右手は虚空をかすめるだけだった。もがけばもがくほど、それは向こう側へ流れて行ってしまう。

 剛史が、私を置いたまま何処どこか遠くへ行ってしまう。右手に残されたお日さまの温もりが、ろうそくの灯のようにふっと消えてしまう。不自然にはやる気持ちに押し出されるように、明日香は声を上げた。

「ねぇ」

 ん?と剛史が顔をこちらに向ける。

「またいつか、に来てもいいかな」

「当たり前だよ、」

 剛史は顔をこちらに向けて、言葉を続ける。

「明日香ちゃんのふるさとなんだから。みんな、いつでも待ってるよ」

 剛史はにこりと笑った。それは、いつかと同じように眩しくて、見たことのない笑顔だった。


 別れ際、明日香は小さく「剛史」と呼びかけた。

「今日、あんたに会えて良かった」

「おれもだよ」

 剛史はすっと左手を挙げると、子どものように手を振った。

「またね、あすかちゃん」

 表情筋がぴくりとも動かないことに、明日香は自分でも驚いた。何一つ変わっていなくて、全てが変わってしまった。何もかもが、愛おしくて、憎らしい。全て跡形もなく消してしまえたら、どんなに楽だろうか。

ぐっと口角を上げて、手を振り返した。またね、という言葉を乗せて。

遠く小さくなっていく剛史の後ろ姿に目を向けて「ばか」と呟いたやり場のない声は、夕暮れの中に吸い込まれるように消えた。


 何かを惜しむようなヒグラシの声が、まばらに響いていた。

少し時間をかけて歩いた明日佳は、佐田野家の玄関口をくぐった。がらがらと引き戸を閉め、ふぅと一息ついた後、ただいまと呼びかけた。エプロン姿で玄関まで出迎えに来た千尋は、うわっと驚嘆の声を上げる。ワンピースとサンダルのまま“秘密基地”に入ったせいで、明日香は頭から足まで土汚れや虫刺されにまみれていた。さっき転んじゃって、と謝る明日香に、千尋が笑いながら言葉を投げた。

「なーんだ。明日香あんた、やっぱり山猿のままじゃない。ちっとも変わってないよ」

 その瞬間、明日香の目頭が、かあっと一気に熱を帯びた。理解するよりも先に、表情がくしゃくしゃに崩れていくのが分かる。驚き慌てた様子で「ええ、ごめん、そんなつもりじゃ」と背をさする千尋に首を振りながらも、淀みなく涙は流れ続けた。

 千尋の言う通りだ。剛史が私を置いて遠くに行ってしまったわけではなくて、何のことはない、私の方が山猿のまま変わらず止まっていただけだ。季節が移ろうように、人も時間もあまねく前に進んでいるのに、私だけが七年前に取り残されていたんだ。自分でも笑えてしまうほどに愚かしい。どうして、こんな簡単で当たり前のことが判らなかったのだろう。

 でも、でも、できることなら、このまま気が付かないふりをしていたかった。右手の中のお日さまの温もりを、この先もずっとずっと感じていたかった。

 取りに戻ることの叶わない忘れ物など、きっとはじめからそんなものは無かったのだろう。胸の奥にずっしりと沈んでいたものが、白砂はくさのようにさらさらとこぼれ落ちていく。そして、その跡には、ぽっかりと空いた小さな穴だけが残った。

 それが、どうしようもなく虚しくて、悲しくて、温かかった。

 千尋が、何も言わずに優しく明日香の背を撫でる。明日香はその胸に顔をうずめたまま、子どものようにわんわんと声を上げて泣いた。


 翌日の昼下がり、中央にヤマザクラの老木がそびえる駅前ロータリー。明日香を見送る人影の中に、剛史の姿はなかった。昨日と同じように佐田野家のライトバンで駅まで送ってもらったのだから、千尋とおっちゃんの二人しかいないのは当然ではあるが。

 明日香は、千尋の目を真っすぐ見ることができなくなった。あれほどに情けない姿を晒してしまったのを思い出すと、耳がかぁっと熱くなる。あの後、同窓会の面々が揃う前に風呂を沸かしてくれたことも含めて、昨晩は千尋に足を向けては寝られなかった。どんなに時が経っても、やはり千尋には敵わないようだ。

 ライトバンの後部ドアを開けたところに容赦なく差し込んだきらびやかな陽の光に目をすがめ、右手をかざそうと腕を上げた。が、そのままゆっくりと手を下げた。

 失くし物を諦め切れないほどには、きっと今の私はまだ幼いのだろう。降ろした右手を、ぎゅっと握りしめた。

「また来てね。今度は、もっとゆっくり皆でおしゃべりしよう」

 千尋がにこやかに手を振る。ご家族によろしくな、とおっちゃんも笑顔を見せた。

 さぁっと、夏らしからぬ爽やかな風が吹いた。促されるように、明日香は大きく息を吸い込む。透き通った空気が、身に深く染みわたる。こんなに空気が美味しく感じたのは、生まれて初めてだった。

 もう少しだけ大人になったら、また、ここに来よう。忘れ物を探しにではなく、ふるさとへ帰りに。

 お世話になった二人にぺこりと頭を下げ、笑顔で手を振り返した。荷物の入ったボストンバッグの取手を握り、人影の少ない木造駅舎にむかって歩を進めた。

色なき風吹く、というにはいささか季節外れな、燦々と陽の照り付ける八月のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お日さまの忘れ物 田中 @yanagisawa-87138

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ