ハイクロンハリケーンスプラッシュ
霙座
夏
「ハイクロンハリケーンスプラああッシュ!」
雄たけびが上がって、驚いて振り向いた。
彼女はちょうど、プールサイドでガッツポーズを決めたところで、白色のTシャツの肩で乾ききっていない黒髪の束になった毛先が、ジャンプする彼女と一緒に生き物みたいに跳ねた。
チャンピオンにでもなったみたいに突き上げた拳に、わあ、と歓声までもが聞こえるようで、腕を上げたまま着地してひらりと揺れたTシャツの裾が
……いや待て。
「待て!
中学校外周道路沿いの枯れかけた草の土手を駆け上がってプールサイドの柵にぶち当たった。がしゃんと鳴る。柵が軋んだ音に振り返った柏木は、俺の顔を見て日焼けした顔で笑った。
「おー、
「おまえ、それはない。中学生にもなってそれはない」
「ハイクロンハリケーンスプラッシュ?」
必殺技のことじゃない。
どう説明するか迷った俺に、柏木は手元のかごからオセロの石くらいの白い錠剤をひとつ取り出して見せる。
「見て見て久住、今日めっちゃ調子いい」
ハイクロンハリケーンスプラああッシュ、と、二度目の叫び声を聞きながら、俺はがっくりと脱力した。柵に掛かる指に力が入らない。
あほだ、こいつ。相変わらずだ。
プールサイドの柏木は綺麗なサイドスローのフォームで、指の間から離れた錠剤は太陽光を照り返して白く光るプールの水面を跳ねて、カカカカと二十五メートルを走って壁にタッチして、沈んでいった。
「ほら見た? 今日百パー」
「パーはおまえの頭だよ……」
プールの水を殺菌消毒するための錠剤、ハイクロンをご存じですか。正しく投入できるやつではない。小学校の時からこうだった……いや必殺技叫んでなかった。中学生になって悪化してるんじゃないのか。
「あのな、柏木。足が全部出てる」
「え、うん。だって水着だし」
危機感、危機感だよおまえに圧倒的に足りないのはよ。水着だし、じゃねえんだよ。競泳用水着の上にTシャツ一枚羽織った格好でプールサイドで足広げてハイクロン水切りしてる
柵で仕切られているとはいえ、公道から錆びたシャワー設備越しにプールサイドが見えるのだ。人垣もなけりゃ地獄の冷水シャワーも出ていない。そんな広くもない屋外プール施設だ。だから外周を走っていた俺が気付いたわけで。
「……ジャージ着てこい」
ひとことだけ絞り出した。
これで伝わるか、こいつに、俺の気づかいが。俺が柏木に説明してやるのは採算が取れないような気がして、喉元までこみ上がってきたイライラを全部飲み込んだ。
「えええ、暑いのになあ」
柏木は不満そうに言ってから背を向ける。プールに向かいながら、足をバレエダンサーのようにピンと高く上げる。ハイクロンをぽいぽいとプールに投げ入れ、ターンして左手は腰、右手は水平にポーズ。さすがの柔軟性、じゃない、ジャージ、だからジャージを。
声を掛ける隙もなく、柏木は任務完了とばかりにハイクロンの箱のふたを閉めた。絶対塩素濃度偏っていると思う。柏木はプールの角に設置されている浄化設備兼がらくた倉庫を一度見て、振り返った。
「もう終わったし。あ、久住、バスケ部これから?」
「いや、もう終わって……外ランは自主練だから」
「じゃあ一緒に帰る」
Tシャツから出ている足は元気にプールサイドの石畳を蹴って遠ざかっていく。熱で石畳が揺らめく。ヒラメ筋と締まった足首に、去年と同じスヌーピー柄のサンダルを履いているのが見えた。パチンパチンと頬を殴られるような乾いた足音が空にかき消えていく。
一方的。自由奔放。直視できない発光物。この感じ、この感じだよおまえはよ。太陽は南に高く上がって、惜し気もなく柏木の上に降り注いでいた。
「ハイクロン当番、一年で回してて今日三回目」
「毎回水切りしてんのか」
「するでしょ。最大二十五メートルしか記録が出ないってのが残念だよねえ」
一緒に帰る、と言われてから慌ててリュックサックを生徒玄関に取りに行って、汗でずぶ濡れのTシャツだけ着替えて水泳部の部室まで走って戻って、それから、我に返って建物の陰でしゃがみこんだ。蝉が耳鳴りみたいにじーじーと鳴く。やかましい。何を焦ってんだか。
部室から出てきた柏木は体操服で、半袖ハーパンから夏休みに入って急激に日焼けした肌が露出していた。しゃがんでいた俺に目をくるりと動かして「お茶あげようか」と自分の水筒を差し出してきて、またがっかりして、いい、と断って立ち上がった。この立ち眩みは暑さのせいだ。
俺たちはぎりぎり自転車通学が許可されない距離にある地区に住んでいて、徒歩通学をしている。学校は坂の上にあって、帰り道は下り坂だ。アホ毛のように新しい枝を伸ばす街路樹の下の歩道タイルはところどころ剥がれている。街路樹は坂道を下り切った丁字路の信号までで、信号を曲がると川沿いの小路に出る。あとは家まで炎天下の川沿いを一キロ歩く。
いつもぼんやり帰る単調な道だ。
中洲に生えている細い木が緑の葉っぱを付けていた。上流からいつか流れてきた大木が川岸に引っかかって、引っかかった大木に草が引っかかっていた。誰もいない河川敷のテニスコートの向こうに生い茂っていた草が刈り取られているから、先週の除草作業のあとだろう。
この川の先は海に繋がっている。振り向いても製紙工場が立ち並んでいて海は見えない。小さくエンジン音がして空を仰ぐと、赤と青のカラフルなモーターパラグライダーが飛んでいた。川に沿って飛ぶのか。
パラグライダーのモーター音が小さくなって顔を地上に戻すと、隣の柏木が同じように視線を戻したところだった。口が半開きだ。
柏木はさっき自販機でコーラを買った。暑すぎる、と言って、プールバックの外ポケットから百円玉を取り出した。財布じゃなくて必ずここから小銭が出てくる。河川敷まで来てしまえば買い食いも咎められることはないと意気揚々と百円を投下して、コーラとサイダーを同時に押して出てきたのがコーラだった。
アルミ缶のプルタブに指を掛けたままのあほ面に話しかけた。
「水泳部、一年何人だっけ」
「五人いるけど、クラブのひと二人だから、部活に来てんのは三人だよ。二年生が十二人いるから楽しい」
「水泳部の先輩ヤバいひとばっかなんだろ」
「それは男子が去年廃部になったからって、噂だけだよ」
そうか、男子がいないんだったか。少しほっとした。
水泳部は顧問が素人で数年無法地帯だって噂で、三年生はヤンキーしかいないと聞いていたから、柏木が水泳部に入ったと知ったときには、マジか、と思った。
柏木はプール授業がとても好きだった。小学校の夏休みのプール開放も毎日欠かさず通っていた。去年の夏は水泳記録会も一緒に出た。柏木は特に水泳教室にも通っていなかったのに百メートル背泳ぎで市で一位になって、県大会で入賞もしている。中学校で水泳部に入ったのも、楽しそうに泳いでいた柏木を覚えているから納得で、ただ、部活が荒れているって噂は、気になっていた。
中学校に上がって、柏木とクラスが別になった。小学校はひとクラスだけの小規模校だった。同級生二十人は三、四人ずつに分かれてしまった。寂しいというか、舐められないようにしないとという妙なプレッシャーがあったが、それも最初のうちだけで、五月の体育大会が終わる頃には友達も増えてクラスに馴染んでいた。クラスも別、委員会も別、部活も別なら、あんまり、というか、ほぼ話す機会は存在しない。気付いたら一学期が終わっていた。
「先週大会があったんだよ。三年生は誰もエントリーしてなくて、そのまま引退。でも二年生には入賞したひともいるよ。三年の先輩が喜んでくれておやつにプリッツくれた」
けど、お菓子を他校にまで配り歩いていて本部から怒られていたそうだ。それはやっぱ部活荒れてんじゃないのか。柏木はに、と笑う。白い歯が見えた。
「大会の日焼けがすごくてさ、肩もう皮むけて」
「出すな」
首元をひっぱって薄い皮がぼそぼそめくれた肩を出す。あほだ、あほすぎるこいつ。ブラの肩ひもが見えた衝撃で首ごと視線を逸らす。
ちょっと気持ち悪いむけ方だよねえ、と言う柏木に、気にするところはそこじゃないとつっこみたいが、これもまた飲み込む。
くそ、柏木、元気そうだな。相変わらずあんまり何にも考えていない。コーラの飲み口からメントスを入れようとしている。爆発させる気だ。じゃない、メントスどこから取り出した。
「久住も日焼けしてんじゃん。あたしとあんまり変わんない」
コーラの缶を持ったままの腕を急にぴたりと並べてきた。汗が接着剤みたいに柏木をくっつけた。腕はどちらも小麦色で、ただ筋肉が付いて硬くなってきた俺の腕に吸い付く柏木の肌は柔らかい。心臓が腕にあったかと思うくらい脈打つ。
小学校では一緒にプールに入っていたんだ。棒きれみたいだった。ひと冬越してこいつは急に、その、肉が付いた。中学校の屋外プールが使える時期になって、水泳部の練習がプールで始まって、たまたま、たまたま外周を走っていて目に付いた。たまたまだよ。びっくりしたんだよ、こいつ女子だった。
中身が小学生男子のまんまだから、本人は全然気が付いていないけど、ほかの小学校から集まってきた連中は、おまえのことかわいいって言ってんだよ。おまえの中身が小学生男子だなんて知らないからな。足丸出しで必殺技叫んでいいやつじゃないんだよおまえは。
「……あほ」
渦巻く俺の心中に当てはまる言葉が他に見あたらない。柏木はあっはっはーと悪気なく笑い声を響かせて、ひらりと土手から河川敷に下りていった。
「ねえ、久住、川で水切りしようよ」
プールバックとコーラの缶を石だらけの川岸に置いて、この石いいんじゃない、と拾う。おもむろに川に向かって、さっきくっつけた右腕を後ろに引いて、左足を踏み込んでサイドスローで石を投げると、二回跳ねて沈む。ああーっと悔しがる柏木の背中を見ながら、俺はふわふわする足どりで何とか土手から下りて、適当に石を拾って、同じようにサイドスローで投げる。
「ハイクロンハリケーンスプラッーシュ!」
横から威勢のいい必殺技が叫ばれる。手が滑って石は一度も跳ねずにぼちゃん、と川底へ沈んだ。
「おい、ヤメロ」
「あ、間違えた! ハイクロンじゃなかった!」
「そうじゃない」
俺はもう一度石を拾って投げた。柏木は懲りずに叫んだ。
「クズミハリケーンスプラーッシュ!」
「おいもっとヤメロ」
おまえは、いったい、いつになったら。
肘がピンと張って石はうまく飛んだ。水面でひとつ跳ねる度に石は水飛沫を上げて、ただの石が特別な光になる。滑り込むように対岸に届く。
隣で「久住天才だ」と喜んで跳ねる柏木から汗が弾けて、俺の腕に沁み込んだ。
ハイクロンハリケーンスプラッシュ 霙座 @mizoreza
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