スイセイ

草森ゆき

スイセイ

 スイセイになったと相談を受け、水星彗星水性衰勢と諸々思い浮かべたが、水棲だった。ロクさんは水を張った鍋に腕を浸しながらおれに話しかけていた。

「え、なんでそんなことに?」

「いや知らんが。起きたらこうなっててん」

「それ水から腕退けたらどうなるんです?」

「見んのが早い」

 ロクさんが鍋から腕を引き上げる。あっという間に乾いてひび割れる。慌てて鍋につけ直させると、なっ水棲やろ? となぜだか誇らしげに見せつけられる。

「アホなんですか?」

「アホでええからさちょっと頼みあんねん」

「あー、嫌です」

「頼む前に断んなや俺とお前の仲やんけ」

「ただの腐れ縁違います?」

 同じ高校だった。ロクさんは先輩でゴミ捨て場前にある旧校舎の日陰でよく口笛を吹いていた。たまに歌っていた。大体のやつは何この人? という風情だったがおれは口笛内容がとあるロックバンドだったから話し掛けてしまった。

「バーガーナッツですかそれ」

 ロクさんは瞬きを忘れた生き物になっておれたちは一秒、二秒、三秒……十秒くらいかな、見つめあったけどロクさんの方が日陰から出て来ておれの手をサッと握った。

「お前は俺のソウルメイトや」

「いやゴミ捨てに来ただけの一般通過一年生です」

「ほな俺が先輩や、せやけど魂の色はおんなじやで」

「おれマイナーロックバンド探しにハマるサブカル陰キャになったこと、今初めて後悔してますよ」

 明るい笑顔が降ってきた。どの曲好きなん? なんて聞いてきて、二人して日陰に入って色んなバンドの話をした。ゴミは捨て忘れた。そこからおれは毎日クラスのゴミ捨て役を引き受けるようになって毎日旧校舎裏のゴミ捨て場でロクさんに会って話し掛けて話し掛けられて口笛に歌入れたりして、魂の色とかはわからないけど水が合うってこういうことかと納得したりはした。だからロクさんが水棲になったのならおれもそのうちなるんだなと漠然と思っていたのにそんな日は一向に来なかった。

 

 ロクさんは出歩けなくなった。ひび割れるのが腕だけじゃなくなって、子供用のプールに腰まで浸かってなくてはいけない状態になった。ほんま不便やねんけどとロクさんは言う。働きに行けないからアパートを追い出されてしまったらしく、おれはこの人マジで……と思いながら自分の部屋の風呂に水を張ってロクさんを押し込んだ。

「おおきに、やっぱお前が一番頼れるわ」

「都合いい時だけ来ないでくださいよ」

「なんか曲流してや」

「アレクサ扱いやめてくださいよ」

「なあ背中ひび割れてへん?」

「え? えーと……まだ大丈夫ですね」

 ほな良かった、なんて言って笑ってるロクさんを見下ろしながら「まだ」と自分が発したことが遅効性でじわじわ心臓を締め付けた。まだ、まだ割れてない。でもいつかは。

 その「でも」はおれのところには一向に来ない。浴槽でバシャバシャやっているロクさんは解散してしまったバンド名を口にして、ええ作曲やったのになあなんて言ってから口笛を吹き始める。狭くて反響する浴室にロクさんの口笛は綺麗に響いた。いいメロディラインだった。おれも解散を残念に思っていたバンドだったしそもそもおれがロクさんに教えた。

 口笛が異様に上手かった。人魚って確かめちゃくちゃ上手い歌で人間を惑わすとか、そういう設定じゃなかったかなと思いながらじんわりとひびの入り始めた背中に水をゆっくりかけた。

 

 ロクさんは別に絵本とかにある人魚っぽくなったりはしなかった。

 けど全身を水に浸けなくては息もままならない状態になった。おれは馬鹿でかい水槽を注文して狭い部屋のど真ん中に置いて、乾いて死にそうなロクさんをその中に放り込むことしかできなかった。

 この頃にはこの水棲、流行っていた。毎日ニュースで見た。水から離れられなくなった人間が各地に現れて、中には海やら川やらに飛び込んでそのままいなくなった人もいた。腕に鱗が生えてきた人もいて腕の骨が変形して柔らかくなった人もいて皮膚が盛り上がってうっすら殻ができてきた人なんかもいて、おれはずっと人間だった。

「ロクさん、なんか聴きますか」

 水槽越しに話し掛けてもロクさんはおれの声をちゃんと聞く。ゴミ捨て場前、旧校舎裏にいた時と変わらない笑顔になって何か言う。ボコボコして聞き取れない、わけではない。おれは段々ロクさんが何を話しているかわからなくなっていた。今のロクさんならこれを聴きたがるだろうと予想を立てて何かしらを選び、どうしてもわからない時はおれの最近のおすすめですと言って拾ってきたマイナーバンドの音源を再生した。ロクさんは嬉しそうにしてくれる。ボコボコと上がる水滴の量がどんどん減っていく。この人もう肺呼吸じゃない。水の中でずっと目を開けている。皮膚の色が青みがかっている。口笛を吹こうとして失敗して眉を下げるけど水槽の表面をコツコツ叩いてサブカルクソ野郎のおれが流したくせに未来もちゃんとやっていきたいって雰囲気の明るいロックのリズムを取ろうと頑張っている。目が合うと笑って何か言う。わからない、わからないけどおれは掌を水槽にべったりつけてロクさん、おれロクさんがサカナになってもタコになってもエビになってもここで一緒に暮らせますよって伝えてしまって多分ロクさんももうおれの言うこと分かってないんだろうけど、頷いてくれた。これは魂だった。おれの手は健康的な肌色でヒビもカラもできていないけど、おれだけはこの人と一緒にバーガーナッツ歌って口笛吹けるからって思う。思った。

 ロクさんが新設された災害対策室に連れて行かれるまでは穏やかだった。

 

 例えば人魚みたいになった人は商品価値があったし、人間とコミュニケーションが取れるから劇的すぎるほどの生活の変化がなかった。熱帯魚のような、観賞用として充分な見た目になった人は買われて飼われてそれなりに暮らせているようだった。

 タコとかイカとか、食用になった。海産物を食わなくなる人は一気に増加したけど、結局慣れだ。みんな少しずつはまた食べる状態に戻っていった。

 デモをやっていた。基本的人権の話だ。水棲に変わった人も同じ人間であると主張していた。その団体はおれのところに何回も来た。デモに参加したりスピーチやらして欲しいらしかった。

 おれは有名だった。部屋のど真ん中に水槽を置いて水棲になった人と暮らしていたやつだってことを、周りはみんな知っていた。

 まあでもそんなこと全部どうでも良かった。おれは部屋を引き払って水槽も一旦売ってその地を離れた。連れて行かれたロクさんがどこにいるのか探した。あの人は完全に見た目が変わる前に連れて行かれてしまったから、おれは考えなきゃいけなかった。それ自体は簡単だった、予想自体は当たった。問題は全然別のところに存在していた。


 ロクさんは寂れた潰れかけの水族館にいた。いやもう水族館というより、売れ残り広場だった。人魚だとか熱帯魚だとか、鮪だとか海老だとかにならなかった水棲人間は、欲しがる人が少なくて僻地の収容所に押し込まれることになっていた。つまり刑務所みたいなものだった。

 中はどよんとして暗く、人は全くいなかった。おれは一人で歩いた。足音だけが響く中を進んで行って、一つの水槽の前で足を止めた。汚れた砂が敷き詰めてある、表面に苔のついた水槽。何も泳いでいなくて頼りない海藻が何本も連なっている。

「ロクさん、ゴミ捨て場好きすぎないですか?」

 話し掛けると海藻の隙間で何かが蠢いた。それはノロノロと姿を現して、はじめにちゃんと見えたのは尖った硬い殻だった。柔らかい全身を守るための強い殻。ロクさんずっと周りが怖かったんですかっておれは聞いた。だから一人であんなところにいて変な人だって思われるようなことして、似たようなおれに心とか開いちゃったわけですかってこの際だから更に聞いた。ロクさんは完全に姿を現した。多分栄螺とか牡蠣とかそういうやつだった。硬い殻の中身がちょっとだけ覗いて、今日のBGMは? とか聴いているような顔をした。

「初心に戻って、バーガーナッツですかね」

 おれはどうにか解消してきた最後の問題をロクさんの前にかざした。水棲人間飼育許可証。発行に手間取ったしいや飼うわけじゃないですけどもとかなりごねる気持ちがあったし不服だらけだったけど、ロクさんを放っておく方が嫌だったから腹は括った。おれは一生この人の生活の責任を持つことにした。

 持参した手持ちの水槽にロクさんを入れて、帰りの車の中でCDを流した。水槽の中にポコポコと水泡が浮かんだ。それはリズムを完全に取れているタイミングで、今の彼の口笛だった。上手いですよロクさん。おれの声には一秒、二秒、三秒……十秒くらいかな、間があったけど大きな水泡が一つ返ってきた。

 水面でぽんと弾けたそれは、ゴミ捨て場で会った日みたいな明るくて嬉しそうな笑い声だった。

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スイセイ 草森ゆき @kusakuitai

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