生きていると生まれてしまうもの、文章
*
西側にある部屋で君は起きた。
そこが君の子供部屋なのだから当たり前だ。
時刻は五時――夏の日の出は不幸にして早い。
君は窓のカーテンを全開にした。
まだ寝たかった。
なのに眠りようがないのだ。
たとえカーテンをしていても四ヶ所を超える窓たち(悪意に満ちている)は君を光で追い立て、目覚めさせる。
君はとりあえずよく見えぬ寝起きの眼でスマホのメモ帳に打ち込んだ。
「労働装置」
つまりこの子供部屋がいかに「労働装置」として成立しているか、という話だ。
実際のところ君は起きてしまったのだ。
そして(無惨にも)ああ! 文章を「生産」してしまったのである。
君はまだ眠れない。おそらくずっと眠れないだろう。
そして文章を打ち込み続ける。
身体の奥が痛む。眼は常に疲労している。
これは罰なのだ。
昨夜夜ふかしをした君への罰なのだ。
強制的な「早起き」には「早寝」でどうにか睡眠時間を稼ぐ事ができる。
君はそれをしくじったのだ。
いくら眠剤を飲んだってもう効かない。残念ながらその薬も耐性が付いてしまったと見える。
*
デパスは即効性があるように思っていたが、実は三時間で血中濃度が最大になるのだそうだ。
すると遅効性とされたセパゾンとの違いは「抜ける速度」でしかないということになる。
それはどうでもいいとして――君はデパスを飲む。
効かないことがわかり、もう一錠飲む。その判断はほんの十五分だ。
この焦りようがいけなかった。
ついに君は短時間にして一シートのデパスを飲み尽くしたのである。
デパスの大群、十錠のデパスが三時間後いっせいに血中濃度を最大にする。
*
君、君、キミ――そう呼ばれた。
そう呼ばれる必要があった。
私はずっと君と呼ばれていた。一方的に呼びかけられていた。
今回にかぎり、私が君を君と呼ぶ。
君は自分の行動を「私は」という一人称で書くのを怖がる。
君の詩も短歌も小説もみんな書いていることは君自身の「やってしまったこと」
「やらかし」を「君」へと擦り付けただけのものじゃないか。
そうして距離を取ることで痛みをオブラートに包む戦略だった。
ほんの小さな工夫だが、効果は大きく君は堂々と告白しおおせた。
面白いな。それを公開して(もしPV数が伸びれば)広告料をせしめようっていうのだから。
私は殺人犯となり、薬物の過剰摂取者となり、性的倒錯者となり、つまり君となり、どこまでも君となった。
君のボロボロの人形。瑕だらけの人形。
オブラートに包むために想像した「君」と呼ばれた人形達、それが私達。
君の瑕は私の瑕であり、私の瑕もまた君の瑕だ。
瑕は消えない。オブラートに包んでも公共の場で告白して見せても変わりはしない。
君は自己の分身を創り、それに喋らせただけのことだ。
それによって自分自身の肉体に刻まれた瑕が消えるものではない。
最後に――君が大好きで多用していた比喩を添えるよ。
「その瑕は薔薇に似ていた」
*
私と短歌の不思議な距離感――つまり私は歌人ではない――。
一、私は短歌界が戦時中、万葉風の「戦意高揚」詠みをしまくっていたことを知り、(無論絶対的にではないが)それなりに、しかし確実に短歌を憎んでいる。
「短歌は悪の芸術だ」と言われても否定はしない。
「戦時中における戦意高揚の圧力によって産まれた作品群の処理」という問題が「自由詩」や「短歌」など「韻文」においては顕著ではあるものの、
「小説」など「散文」においてはそれほどでもない(無論、「戦犯」とされた「小説家」は存在するほか、戦意高揚のための小説は沢山ある)。
ここに「国民意識」と「詩」の緊密な関係が見出されるだろう。
どうも「国民意識」を高揚させるためには「詩(あるいは歌)」が必要となるらしい。
国民全員で「教科書」などのメディアを通して共有され、愛唱される「歌」!
究極を言えば「国歌」である。
そして「国民の歌」は長い歴史性と民俗性を持っていなければならない。
「自国の文化」は「他国の文化」と差異化されればされる程にオイシイ。それを支えるのが「歴史」や「民俗」なのである。
思うにそうした「戦中に戦意高揚のアジテーションをした」という文学全体の罪をひときわ重く被るのが「短歌」という「歴史的」で「民俗的(日本語の持つ特徴に大きく依存した)」なジャンルであるのは仕方がない事だ。
二、戦後の短歌批判や前衛短歌の理論構築、そして現代にも受け継がれている
「短歌、そして言語は放っていおくとすぐに戦争を後押しし、差別を助長する。
だから文学と言語を意識的に――つまり「自然な状態にあると思われていたもの」を「人工的に」――改造・改良する必要がある」
という問題意識に共鳴をする。
とはいえ「その差別と戦争の問題のために命を捧げ、近頃流行する『署名運動』や『政治運動』に積極的に参加するか?
現代の問題のために運動する闘士となるか?」
と問われれば
「あくまで極めて消極的に参加する。しかし賛成はする」と答える。
逃げ腰な反応だ。
三、短歌を作る事については私には引け目がある。
Ⅰ.私の短歌は川野芽生『Lilith』の模倣から始まった。
「短歌研究」に載せられた川野氏の批評、それから「文學界」に寄せられた(大森静佳、平岡直子らとの)鼎談からも大いに影響を受けた。
塚本邦雄などのいわゆる前衛短歌や幻想短歌には川野芽生を通して徐々に興味を持った。
それゆえまだ川野芽生氏からの影響を脱却し得ておらず、
「川野芽生氏を知らない人は騙される」「川野芽生氏を知る人は感動するかもしれない」といった純乎たるエピゴーネンぶりなのである、
Ⅱ.模倣がいけないのではない。
コラージュでもオマージュでも、あるいは訴えられる覚悟で為される過激な「盗作」であっても、
「オリジナル」「生産性」「創造性」から離れた「消費性の芸術」は存在する。
しかしそのためには大量のインプットが必須である。
しかし私はまだそこまで他人の歌を頭に入れていない。
・付言するとコラージュ職人の脳内は現在のAIと似ている。
共に「とにかく他人の文章(等)を大量に学習(消費)し、
関連付けや評価を行いながら吸収したものを並べ立てる」という働きを持つ。
現在のAIに本当の「オリジナリティ」と呼べるものは無論ないかもしれない。
定量的に分析するソフトを使えば
「ここはこのサイトからの引用、こっちはこの本からの引用、あるいは言い方を少し変えただけ」と解体してしまえるだろう。
さてポストモダニストであれば「オリジナリティ」概念を解体し、
あらゆる作品は先行するテクスト(原義は「織物」だ)を引用し織り込んでいると主張するだろう。
するといかなる文学史上の
「先に存在したテクストを編み合わせたもの」ということになる。
Ⅲ.既に私の「創作能力」と「消費能力」の不足について言及した。
加えて第三に「バックボーンとなるべき理論」がまだ充分に構築されていないことを挙げる。
塚本邦雄、平岡直子、川野芽生……良い歌人は皆それぞれに「理論(歌論)」を持っている。
理論と実作は一体だ。
しかし理論の作り方は実作の手順とは大きく異なる。
歌論を構築する方法は他の批評の試みと変わらない。
先行する文献を大量に集め、
それらの中でも特に「書かれた時間が新しく」「問題意識が自分と共有可能なもの」を見つけ出す。
そしてその批評を書いた論客と(可能ならば)連絡を取り合いながらより発展した理論構築を目指す。
または完成した理論をより広めるために積極的に様々なメディア(雑誌でも新聞でもテレビでも)に顔を出す宣伝行為や論争行為も戦略の内だろう。
歌論の構築は「ボンヤリ短歌を作っている」だけではおそらく不可能である。
他人の歌論に注目し、雑誌を読み、短歌以外のジャンルに目を配る必要がある。
大変な仕事だが、これを抜きにして「歌人」はありえない。
四、しかし私は平気で歌を制作し、ヨロヨロと(とてつもない緩慢さで)他人の歌集や歌論を読んでいる。
どうして「雑文」でも「小説」でもなく「短歌」が丁度良かったのか?
この問題については次のショートショートで小説調で書く。
※[注記、後で見直すと「小説調」というよりは「エッセイ調」と言ったほうがよりふさわしいものとなった]
自分語りは
*
私は疲弊していた。
あとで眼科医に訊くと知らず知らずのうちに「遠視」になっていたというのだから、
読書が苦しいのは当然である。
しかし我が「雑文」は読書抜きにはまずもって成り立たない性質を持っている。
過去「小説」にも一応は挑戦してみたことがある。
例えば「炎上商法系WEBライター、鬼ヶ島へ行く」[https://kakuyomu.jp/works/16818093079718623406]
がそれである。
この小説は結構身体の調子の良い時に頭を良く動かしながら書いた。
私はよく「雑文」を酒でベロベロになりながら書いたり、
抗不安剤を飲んで頭の中を曇らせながら書いたりした。
しかし「鬼ヶ島」はガチの作品なのだ。
本気で書いた小説なのである。
私は小説への苦手意識がある。
それは簡単に言えば
「さも客観的なる装いで作者が地の文を書いている三人称視点のくせに、
作者が堂々と顔をだして『ヘイここはこうなっております』と落語のようにやらない」というようないわゆる「コテコテの近代的でリアリスティックな小説」「典型的な小説」に対する嫌悪である。
また、詩と比べて長大になりやすいという点(もちろん詩だって長く書いて良いのだが)も気に入らなかった。
「もっとさっさと大事な事を言ってくれ」というせっかちな性質なのである。
そもそも、言いたいことやらテーマやらがあるならば「批評」なり「評論」なり「エッセイ」なりで発表すれば良いではないかという気もする。
これを言ってしまえば詩も小説もおしまいで、
残るのはやかましく自己主張する政治エッセイやら闘病記やら自叙伝の類の山でしかない。
確かに文芸のジャンル、「批評」や「エッセイ」のようなものと「詩」、
「小説」にはそれぞれ特質がある。
スピードで言えば俳句が最強かもしれない。
あるいは作者が読者へ送るメッセージの「直接性」で言えばこれは「批評」や「エッセイ」に敵うものはなかろう。
基本的に文芸ジャンルの性質の違いの大きさを知った上で
気に入ったものにだけ手を着ければよいのである。
小説と私はミズとアブラのような関係である。
「小説と私」という文章を書く機会があれば書くネタはいくらでもあるだろう。
しかし私は「鬼ヶ島」を書いた。
それは「カクヨム」は一応「小説投稿サイト」らしいから小説を書けばPVや評価が沢山貰えるのではないか?
そして広告収入で儲かるのではないか?
という淡い希望があったのである。
「鬼ヶ島」は期待に反して失敗作とでも言うべき作である。
反響は少なく、あまり評価は高くない。
しかしこの「鬼ヶ島」には様々な「小説嫌いが小説をどうにか書くための工夫」がなされているのだ。
まずは特徴的な落語にも似た「でございます」「です・ます」の調子である。
これは先に述べた「客観性なる装い」の珍奇さをバカにするつもりで思い切り「小説らしくない」語りを発明しようとしたのだった。
無論、泉鏡花「高野聖」のような「先行文献」があり大いに参考にしたのは事実である。
他にも本物の「炎上系Webライター」の文体も参考にした。
今は活動していないが音楽系でかなり影響力を持っていた人である(この時点でわかる人はわかる)。
次に私が小説を書く際に明らかな
「時間や場面の転移を綺麗に、そしてわかりやすく書けない」という問題である。
読者諸君は「もう勘弁してくれよ」と言いたいだろうが、
「鬼ヶ島」のテクストを引用し私の工夫ぶりを見てもらいたい。
「この道中はホントどうでもいいからカットします」
この文言である。
三ヶ所ほど利用した手法かと思うが、本当にこの「この道中はホントどうでもいいからカットします」作戦であの難しい
「場面の繋ぎ」をやってのけたのである。
まあいかにして「鬼ヶ島」という失敗作を築き上げたかという奇妙な苦労話はこのへんにしておく。
とにかく私は「雑文」に書くほど真面目な本(文字の小さい文学全集などを)読む能力を失っていた
(現在、視力は治療中だ。とりあえず百均で「老眼鏡」を買ってきて多少は本が読めるようになった)。
そして「小説」からも挫折していた。
そこで「短歌」である。
もちろん「雑文」と「小説」に挫折する前から短歌は制作していた。
カクヨムのコンテストに投稿した
「悪漢ダンディズム」というのが私の短歌のはじまりである。
しかし健康上の問題と創作上の問題を抱えた時、
「短歌」というジャンルは前よりも丁度良く見えた。
「雑文家がナニヤラ手を着けたジャンルの一つに短歌がある」
という状態から
「雑文家がほとんど活動を休止し、その間ノンキに短歌ばかりを書いている」
という状態へと移行したのである。
短歌というのはとりあえずスマホのメモ帳にチマチマ書いていけば良いのである。
一週間でそれなりの数の歌が溜まるからカクヨムに投稿する。
この際にダメな歌を捨てたり「出来た順」から順番を入れ替えたり、
またコンセプトをつけて「連作」らしさを演出する等いろいろな手を加える。
短歌が「連作」のかたちで教科書などに載るのは稀かもしれない。
だから「連作」を知らない読者も居るだろうが、
〈とにかく歌が並び、
「題」なるコンセプトが用意され、
大抵は「
短歌の中でも大袈裟極まりない発表法〉だと理解してくれれば良い。
ロックやポップスが好きな人間であれば「コンセプトアルバム」を知っているだろう。
あんな感じである。
もちろん「連作」で発表されたものを(無惨にも)解体し一部の見どころのみ「ベストアルバム」的に収録する『歌集』もある。
大抵は著者の名前がつき『斎藤茂吉歌集』(岩波文庫など。一体この世にいくつ『茂吉歌集』があるのやら……)だとか題されたのが「ベストアルバム」である。
こうしたベストアルバム的歌集は当然ながら大量の歌集(一冊二百首から四百首ほど)ひとつひとつから秀歌を集め、千首から二千首ほどにすることで作成される。
それでは「個々の歌集」すなわち一冊二百首程の収録がされた細かい(しかし普通の)歌集たちを「アルバム」として連作はせいぜい(非常にコンセプチュアルな)「EP」程度に扱うのが妥当かもしれない。
基本的に短歌は歌一首の状態から連作になると一気に大袈裟になる。
プログレッシブ・ロックみたいになる。
そして先に記した「一冊二百首程の歌集」にまとまるとさらに大袈裟になる。
ヴィジュアル系バンドの限定版ボックスセットみたいになるのである。
当然装丁も相当に凝る。
値段は二千円程だ。コストパフォーマンスを考えるなら前述の「ベストアルバム」的な歌人の名を冠した『歌集』のほうが得である。
また「一首単価」で計算するならば「全歌集」も意外と安く見える。
それくらい「一冊二百首程収録で二千円の普通の歌集」は高い。
まあファンなら買うのである。
私も買っている。
実は『歌集』は自費出版本が多いのだ。
特に第一歌集はほとんど自費出版だろう。
だから著者が不当に搾取したり
「無駄に豪華にしてやろう」
と勝手に自己満足的な考えを起こしたワケではないのである。
高いのは出版状況を鑑みた結果、仕方のないことでありむしろ「需要」の少なさを考えれば「安い」方だろう。
そして「高くて買う人が少ない」モノが豪華になってゆくのは傾向としてよくある。
ヴィジュアル系バンドのアルバムが出る度に必ず発売される
「初回限定盤ボックスセットA、一万円」と「初回限定盤ボックスセットB、一万円」みたいなものである。
買う人が多いから高くて豪華にするのではない。
むしろ逆に「買う人が少数ながらいるから」高くて豪華なのである。
現在私は岡井隆の『現代短歌入門』(講談社、一九九七年)を読んでいる。
慣れない老眼鏡だから遅々として進まぬ読書だ。
この本はややこしいから「雑文」には書かないだろう。
この本の良いところは無数にある短歌の「実作入門」とは異なる点だ。
「入門書のなかにも、その事を理解するための入門書と、その事にたずさわるための手引書がありましょう。
この本は、どちらかといえば現代の短歌を理解するための入門書であります」
と岡井隆は「学術文庫版まえがき」に書いている。
「現代短歌」といいつつ今では「戦後短歌」と呼ばれているような歌についての話ばかりの本である。
しかも「入門」かつ「です・ます調」の極めてハウトゥー本に似た軽やかな装いに対して、
岡井隆の語りに熱が入りすぎている。
実名で他人の批評を貶している(批判しつつ利用してもらえている批評家は幸福だ!)箇所さえある。
アツすぎるのである。
本になったのは九十年代だが、初出は「短歌」(角川書店)の「一九六一年一月号」から「一九六三年二月号」だそうである。
「『われわれの連作を貫く大主題が、平和と革命であることは、はっきりしているからです』と言っていることなど、今から見て、不思議に思う読者もありましょうが……」などと書かれている。
そう思って読むと「前衛短歌」ファンにはたまらない一冊だろう。
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