僕はまだ子供だ、煙草は吸える。

暁明夕

 

 四角い箱にへばりつく水垢で少し汚れた窓に打ち付ける雨。それが自ら作った汚れを自らで落としていく。

寝静まった街の中で、ありふれたBGMの様にそれらは音を奏でる。

その音はこの空間を満たしていくのだけれど、僕はそれを楽しめる気分ではなかった。


 自分は我儘な子供なんだ。そんな考えを矛盾させるかの様にタバコを吹かす。

子供だと信じたいのかもしれない。何時までも、何処までも。


 ただ、自分に残っているのは空虚な甘い考えだけ。学生の頃は分からなかったもの。と称される年になった時にはもう遅かった。

こうなってしまって誰が悪いかだなんて聞かれて、それは僕でしかないのだけれど、僕でもないような気もしてきて、結局は思考の無限ループだ。


 僕はどこまでが子供で、どこからが大人なのかわからなかった。

成人を迎えたら? 酒や煙を楽しめる年齢になったら? 自分が大人だと思った時?それとも


親が死んだ時?


 先程、病院から電話がかかってきた。父が亡くなったそうだ。原因は多分肺がん。

いつ死んでも可笑おかしくない病態だと医者に言われていた。

僕も覚悟はできていたのだけれど、今、少し気分が沈んでいることを考えると本当に覚悟ができていたのは本人だったはずだ。

病院で、父は僕と口を聞こうとはしなかった。見舞いに行った時も、「土産はそこに置いとけ」というだけ。覚悟を揺らげないという父なりの意思もあったのかもしれないけれど、そんな父からの試練は僕にはこたえた。


 母は早くに死んだ。母の遺言はよく覚えてはいないけど、「健康に暮らしなさい」と言っているような気がする。でも、机の上に散らばる残り僅かな薬のブリスターパックを見る限りは、それは無理だろうなとも思う。

父の遺言書はもう発送されているらしい。もしかしたらもう投函されているかもしれないな。


 そうして、重い足取りで雨が滴るアパートの廊下に出る。

自分の部屋番号である二〇八号室のポストを確認する。あまり手を付けていない近所のスーパーのチラシの下にそれは埋まっていた。

茶色い封筒のみを手にし、再び鍵をかけチェーンをつける。自分は多分そういうのに敏感な方だろうな。

机の上でその封筒を開く。出てきたのは便箋一枚だった。


『早く大人になって、人生を楽しんで死ね』


 確かに大きな文字でそう書かれていた。子供の頃の音読カードによく書いてもらったサイン文字と同じ筆跡。最近あまり見ていなかったからか、少し懐かしさを感じた。

育てた自分の一人息子への最後の言葉として、自分の息子に最後に『死ね』というのは倫理観的にいささかどうなのだろうとも思いはするのだけれど、それが何というか、厳格だった父の遺言としてはピッタリなような気がした。

自分としてはその言う通りにしたい気持ちもある。ただ、その言葉は僕にとっては、悩む時間が必要なものだった。


 親の死は最後の教育だともいわれるけれど、それが難題で、人生の答えのような気もして、それでいて、人生そのものであるような気もした。


 そうやって悩んでいる内は何か文字に残そうと、一応本業として打ち込んでいる物書きの一人として、メモ帳に下書きを書く。

さっきまで吹かしていた煙が部屋の中の音楽と置き変わっていく。

気しようにも、窓を開けたら外から雨が入ってきてしまう。雨の雰囲気は好きなのだけれど、そういうところは嫌いだ。物事の好き嫌いって、そういうものだろう。

パソコンに着いた電源ランプと、スクリーンと、雨の日特有の、夜でも明るいあの光がこの部屋での光源だった。

僕は一人っ子だから、遺産だとかも僕が引き継ぐことになるのだろうが、今はそんなものを確認する気分ではない。

何も考えずにキーボードを叩く。

横に置かれている既に冷め切ったインスタントコーヒーはもう飲む気にはならなかった。

時折、部屋干しの洗濯物がエアコンと扇風機の送風に揺れる。

この1LDKの空間から自分の考えや想いを詰め込んだ短編小説を世界に発信する。

結局、この小説は父の問いへの答えとなっただろうか。

暫く鳴り続けるスマホの通知音。この部屋を満たしていた雨音よりは好きになれない音。

そろそろ本当の定職、見つけないとなぁ。

いつまでもこんなことは続けていられない。いつまでも夢なんか追ってられない。きっと大人は、現実を生きているものだから。

いつもより、重力定数の跳ね上がった体でベッドに潜り込む。孤独な僕をしわしわの掛布団は包み込んだ。


 今日は昨日と比べて少しでも、大人に近づけただろうか。そんなの誰にもわかりはしないだろう。そんなのは僕にだって分かっている。



 いつの間にか沈んだ意識の中がレム睡眠に至った時に、部屋に鳴り響くエアコンのタイマー切音。何故だか、少し起きてみたい気持ちになって時計を確認してみる。体感は一時間くらいだったのだけれど、実際は三時間経っていた。

窓に打ち付けていた雨は上がっていた。外がさっきより暗く、いつもの夜更けになっていたのは雨が上がってしまったからなのか、それとも、夜中であるからなのか。

スマホのスクリーンをタップする。明るくなった画面はあまりにも眩しかったのだけれど、何とか桿体細胞が適応し始めてきたときに、小説投稿サイトのアカウントを開く。

先程投稿した小説のコメント欄。流していくものの中で、ある一つが目に留まる。

それは高校生のものらしかった。


『僕も、いつから大人になっていいのか、考えるときがあります。でも、そのたびに、名乗ってしまった時の責任感が僕には想像できなくて、まだいいやと思ってしまいます。結局、小学六年生ではもう中学生になると言われ、中学三年生では義務教育が終わるのだと言われます。その度に自分にのしかかる責任は重くなります。でも、同時に思う言葉があります。社会に出た人の中に夢をかなえた人も一定数いるのだと。確かに、社会を構成している人間は現実に向き合って過ごしている人も多いのだと思います。ですが、夢をかなえた人は大人と言えるのかとも思うのです。その結論は今のところ、まだ出ていません。ただ、結局のところ子供の気分のまま、死んでいく人もいるんじゃないでしょうか。私には自分より年上の投稿主さんの気持ちはまだわかりません。でも、今はまだ、子供の気分を楽しんでもいいんじゃないかと思うのです。初心忘れるべからず。この初心が子供の心を指していいのかはわかりませんが、人生を通して悩んでいくのも僕はいいと思います。これからも執筆活動頑張ってください。応援しています』


 たまにある長文コメント。

これが答えなのかはよく分からない。物事の本質に関わる答えは一つではないこともあるから。

ただ、僕はこれをしばらくは父への答えとして、この人から借りておこうと思った。

タバコを吸える子供の僕の今の答えとしては一番いいものであると思ったから。

いつか、自分の答えを見つけるまで。


 机に置いてある、いつ飲んだかさえ分からない空の麦酒缶、灰皿に残っている真っ黒な吸い殻。

すっかり冴えてしまった目をどうにか落ち着かせようと箪笥たんす常備の僅かな睡眠薬に手をかける。

明日は父の葬式だ。早く起きないといけないのもある。

......いや、でもやめておこう。夜というものは、何にも頼らず、自分一人で寝れてこそ、楽しめるものなのだから。

いつも見慣れた天井、ゆっくりと眼を瞑る。


その夜、僕は今までで一番この街に溶け込めているような気がした。



おやすみ、世界。

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僕はまだ子供だ、煙草は吸える。 暁明夕 @akatsuki_minseki2585

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