凍傷

 初めの印象は、「酷く美しいひと」だった。

 晴れて小学校を卒業して中学に進学し、初めて制服に背を通してなんだか大人に近づいたような気がして浮かれていた入学式で、俺は眞佐樹に出会った。

 入学式を終え、両親や兄弟姉妹と共に笑顔を浮かべながら皆が帰る中でそのひとは一人静かに佇んでいた。少し散り始めた桜の木の下で、まるで迷子の子供かのように寂しげな表情を浮かべていたそのひとに目が釘付けになった。同級生の中でも頭一つ抜けた身長に、すらっと伸びた長い手足。透き通るほど白い肌に蠱惑的な赤い唇。どこをどう切り取っても美しいひとだったが、その中でもいっとう強く惹き付けられたのはその瞳だった。

 大きくて形の美しい瞳に浮かんでいたのは、――深い深い絶望だった。

 あまりのまなざしのくらさにたじろぐ。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、俺はぱっと目をそらした。このハレの日に、いったい何があってこんな目をしているのだろう。忘れたくても忘れられない、それほどまでに昏く絶望をはらんだまなざしは俺の心をざわざわさせた。

 そのひとの名前は、神谷眞佐樹かみやまさき。偶然にも俺と眞佐樹は同じクラスだった。美しい容姿は、まなざしに滲む影すら色気に変えた。出席番号順に自己紹介をした時、眞佐樹が席を立った瞬間場の空気がすっと緊張を孕んだのを、未だに覚えている。

 その空気を察知した眞佐樹は眉をひそめて「神谷眞佐樹です。……よろしくお願いします」とだけ言って座った。その一言だけでも、クラスを魅了するには十分だった。自己紹介が終わって自由時間になると、女子も男子も関係なく眞佐樹の周りには人が集まった。けれども、質問攻めにあうもほとんど答えず、戸惑っているようなうっとうしそうなそっけない眞佐樹の態度に数日もすればクラスのほとんどは遠巻きに眺めるだけになっていた。

 その時からだ。俺が眞佐樹に話しかけるようになったのは。

 初めの会話はまあ酷いもんだった。こちらから「同じクラスの新納柔にいのうじゅうだ。よろしくな」と名乗るも目線をよこしただけでほとんど無視状態。それでも俺はめげなかった。なんだか放っておけなかったのだ。あの日見た昏いまなざしに宿る絶望のわけを知りたかった。

 一週間もするとさすがに無視しきれなくなったのか、眞佐樹は少し会話に応じるようになった。今日の授業の数式が難しかったとか、給食のこのメニューがおいしかったとか、体育で張り切りすぎて疲れたとか。そんな他愛もない話を俺はし続けた。ひと月も経つと眞佐樹はたまにリアクションもするようになった。

 その日もくだらないことを話していたと思う。友人とバカやって先生にしこたま怒られた話だった気がする。それを俺なりに面白おかしく話していたら、眞佐樹が笑った。ささやかにこぼれる笑顔が、あまりに綺麗で美しかったもんだから俺は暫し見惚れて動けなくなった。そんな俺のリアクションを見て眞佐樹は、ひどく傷ついた顔をした。そして、その日からまた眞佐樹は自分の殻に篭るようになってしまった。

 何がいけなかったのだろう。おそらく俺の反応に何か思うところがあったのだとは思うが、傷ついた顔をした理由は考えてもよくわからなかった。とにかく原因を聞いて謝りたかったけれど、眞佐樹は俺を避けるかのように教室にいることが少なくなった。不思議とどこを探しても眞佐樹は見つからなかった。でも、諦めたくなかった。毎日探した。そんな俺の様子を見かねたのか、小学校からの付き合いのある学級委員の吉田が「新納、ちょっと」と俺に話しかけてきた。

「新納、もう神谷に関わるのやめなよ」

「どうしてだ?」

「……あんま言いたくなかったけど、神谷、エンコ―してるって」

「エンコ―?」

 おそらく「援交」のことだと頭では理解したが、その言葉が上手く眞佐樹と結びつかなかった。

「援交って、援助交際のことか?」

「そう」

「でも、いくら綺麗だからって神谷は男だろ? そんなやついるのか?」

「……世の中にはね、どうしようもない大人がいるって先生が言ってた。これから話すことはみんなに内緒にしてほしいんだけど、神谷、片親でほぼ虐待状態だったって。しかも少し前にその親も家を出ていったらしいの。中学生じゃ稼げる額なんてたかが知れてるし、生きていくために神谷は手を出したって。帰りが遅くなった時に先生たちがひそひそ話してるの、聞いた」

 あまりに凄絶な話は、俺の耳にはまるで違う世界のことのように感じられた。俺と同い年で、同じ校舎で生活しているはずなのに、眞佐樹が急に遠くに行ってしまった気がした。計り知れない孤独と絶望を抱えて、それでも毎日学校に通っていた眞佐樹のことを思うと、いてもたってもいられなくなった。吉田の制止の声を振り切って、俺はあと一つ探し切れていないところ、屋上へと全速力で向かった。

 普段は鍵がかかっているはずの屋上のドアが、キイと音を立てて開く。俺が探していたそのひとは、一人静かに佇んでいた。

「神谷!」

 そう叫ぶと眞佐樹の瞳がこちらを向く。温度のないぞっとするような凄みのある視線に怯みそうになったけれど、ぐっと足を踏ん張って耐える。

「何?」

「すまんかった!」

 まさか開口一番謝られるとは思わなかったのか、眞佐樹は虚を突かれた表情をした。その隙をついて、俺はまた言葉を紡ぐ。

「嫌なことをしたなら謝る。だからもう、避けないでくれないか。……俺はもっとお前のことを知りたい、知りたいんだ」

「へえ。好奇心で他人の事情にまで首突っ込むんだね。暇なの?」

「……確かに俺と神谷は赤の他人だ。でも俺は神谷のこと、友達だと思ってるよ。友達に避けられたら仲直りしたいと思うのは当然だろ。なあ、教えてくれないか、神谷のこと」

 懸命に言葉を紡ぐと、眞佐樹は黙り込んだ。眞佐樹が口を開くまでいつまでも待つ準備はできていた。重苦しい沈黙が、続いた。それでも諦めなかった。その後しばらくして、俺の必死さが伝わったのか諦めたように眞佐樹がぽつぽつと言葉をこぼし始めた。

「俺が、援交してるっていうのは聞いた?」

「ああ」

「……知っててまだ俺に話しかけてきたんだ。驚かないんだね。気持ち悪いとか言われると思った」

「気持ち悪いなんて思わない……と言いたいところだが、実際は想像もできないの方が近いかもしれねえ」

「正直だね。新納くんみたいなの家の子はそりゃ知らないだろうね」

 こちらと線を引くように、自らを貶めるように眞佐樹は哀しく嘲笑する。

「まあ、デートみたいなもんだよ。俺みたいな男の子供が好きな変わったおっさんたちが、わざわざ金を払ってデートして飯を食わせてくれるわけ。その代わりに俺はまるで恋人みたいに振る舞ってキスしたり、そいつのものを咥えて奉仕したりする。……まあ幸い、俺は見目が良かったからしばらく暮らしていけるくらいの金は手に入ったよ」

 生々しい話に硬直する。俺が反応できないのを見て眞佐樹はさらに言葉を続ける。

「で、何回かデートを続けてたら運悪く警察に見つかって補導されたってわけ。しかも相手が市のお偉いさんだったから行政側も動くに動けないみたい。あーあ、どうなるのかな、俺」

 そう言って眞佐樹は空を仰ぐ。今俺が何を言っても眞佐樹の前では安っぽい陳腐な言葉にしか聞こえない気がして、でも今言葉を紡がなければ俺と眞佐樹の縁は永遠に切れてしまう予感がした。だから俺はただ、眞佐樹にそっと寄り添って、飾らず等身大の自分で向き合うことにした。

「神谷の苦しみは神谷だけのもので、俺が完全に理解することはできねえ。でも俺は、お前のそばにいたい、お前のことを知りたいと思うよ。それだけじゃだめか?」

 そう言って眞佐樹の手を取る。振り払われるかと思った手は、意外にもそのままだった。眞佐樹はゆっくりと目を閉じて、口を開いた。

「……新納くんのことさ、初めはいつも群がってくる奴らと一緒だと思った。俺の容姿目当てに近寄ってくる奴だって。でもさ、何日たっても無視しても新納くんは俺に話しかけてきてさ。それがなんか嬉しかった。今まで俺にそんなに興味を持ってくれる人なんていなかったから」

 黙って話の続きを待つ。眞佐樹は今、すごく大事なことを伝えようとしてくれている。いくらでも待つ覚悟はできていた。

「でもさ、俺が笑ったら新納くんもみんなと同じような反応してさ。結局新納くんも見てたのは俺の外見で、顔目当てで寄ってくる奴らと変わんないんだって思ったら悲しくて、怒りが湧いてきて。気持ちがぐちゃぐちゃになって整理できなくて。だから避けてた」

「……ごめん、ごめんな」

「新納くんが謝ることじゃないよ。これは、俺の問題」

「そうかもしれないけど、神谷は嫌な気持ちになったんだろ。なら謝らせてくれ。……ただ、一つだけ言わしてほしい。確かに俺が神谷に興味を持ったきっかけは容姿からだったかもしれない。でも、話してくうちに神谷自身のこと、好きになったよ」

 そう言うと眞佐樹は目を見開いた。その反応を見て、俺は言葉を続けた。

「ぼそっと返してくれるようになった言葉が優しいところとか、しっかり目を合わせて話を聞こうとしてくれるところとか、こぼした笑顔がすごく綺麗なところとか。だから俺、もっと神谷のことを知りたいと思った。仲良くなりたいと思った。こんな俺で良ければさ、まずは友達から始めてくんねえ?」

 まっすぐ目を見つめて伝える。嘘偽りない俺の気持ちが届くように、少しでも凍りついた眞佐樹の心が溶けるように。すると眞佐樹は戸惑いながらもあの日と同じささやかな、しかしとびきり美しい笑みをこぼした。

「手重ねて、友達から始めようって、なんか恋人みたいだね」

「……確かに。でも俺の本音だ」

「友達、友達かあ……。こんなこと言われたの初めてかも」

「そうか。じゃあ俺は神谷の友達第一号だな。よろしく」

「うん、よろしく」

 手を握り合い改まって小学生のような約束を交わしていることがなんだかおかしくなって、顔を見合わせた俺たちは二人して声を上げて笑った。授業の開始を告げるチャイムが鳴っても、俺たちは二人、澄んだ青空の下で笑いあっていた。

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