あっち
豊崎は家に帰ってコップを手に取り、水道水を並々注いでひと息に飲みほした。あの時に見た二人の影は何だったのだろう。豊崎は新しい単身者向けのアパートに引っ越したが、美幸と修太との家族写真をテーブルに飾っていた。
「ごめんな」
写真に目を移すとまた涙があふれてきた。俺が裏切るようなことをしなければもしかしたら修復できた未来があったのかもしれない。そう思うと、過去の自分を恨んで仕方なかった。
「あっち」
豊崎の心臓はバクンと食われるような痛みが生じた。幼い声が突然豊崎の耳に届いてきた。周りを見渡すが、当然子供などいない。それどころかこのアパートは単身者向けなので子どもがいることはない。道を挟んだ向かいのタワーマンションはよく家族連れが出てくるのを見かけるが声まで届くことはない。
それに――
豊崎は頭の中をかき回されるような気分だった。あの言葉は聞き慣れたものだった。簡単な言葉を言うようになり始めた修太が抱っこされたときによく「あっち」と言っていた。思うようなところに行けなかったときに、大泣きしていたことを思い出す。
その瞬間、泣き声が響いてきた。息継ぎのタイミングでしゃくりあげるような特徴的な音が混じる。間違いなく修太の泣き声だった。
「修太!」
部屋中の扉を開けてみるがもちろん修太はいない。美幸が修太を連れてあの世へ行ってしまったのだから。でももしかして「あっち」と言って泣き始めるということはあの世に行きたくなくて泣いているのではないだろうか。
それもそうだ。まだ一歳を少し過ぎたばかりの子があの世に行きたいなど思うわけがない。ただ美幸を追い詰めた自分が情けなかった。
豊崎は毎晩、修太の「あっち」の声としゃくりあげる鳴き声を聞き続けた。自分への戒めだと思った。夜を過ごす回数が多くなるほど耳元で言われているような気がしてならなかった。
ある日の夜、仕事が終わって自宅に帰った豊崎は無意識的なルーティンをこなして寝床に入った。しばらくするとまた「あっち」と聞こえ始めた。豊崎が目を開けると真っ黒の影が浴室を指差していた。
「あっち」
顔も黒く覆われていて目、鼻、口は確認できない。しかし、豊崎が影を見つめているうちにいつもの泣き声で泣き始めた。
「修太、なのか」
影は答えずに泣きじゃくりながら浴室を刺し続けている。豊崎はベッドから出て陰に手を伸ばすと、影は豊崎の手を繋いできた。人肌の温度など微塵も感じられなかった。何かに障る感触もない。ただ空気を掴んでいるだけだった。
影の修太が指差す浴室の前に立つと、泣き声は一段と大きくなった。鏡開きのドアを開けてそれを見た瞬間、豊崎は胃の内容物が逆流して吐き出した。
浴槽には血まみれの修太と目を見開いたまま動かない美幸の姿があった。
「美幸、修太……」
二人とも首がぱっくりと割れていた。浴槽の壁には血しぶきが激しく飛び散っている。二人に触れた豊崎の手の平には血がべっとりと覆い、腕へとみるみる上っていった。豊崎はそれを振り払うことはしなかった。
「俺がこうなるべきだったんだ……」
豊崎は美幸が掴んだままになっていた包丁を掴んだ。自分の首に充てると鼓動が大きくなってうまく呼吸ができなくなった。息苦しい。包丁を持つ手に渾身の力を込めるが引くことができない。そのとき、美幸の腕が豊崎の手首を握った。ものすごい力だった。
「あなたもきて」
美幸の力はすさまじく抵抗する間もなく、豊崎の首は切れて血が噴き出した。だんだんと視界に幕が張る中で、真っ白な顔で覗き込む美幸の口角が吊り上がっているのを見た。
あっち 佐々井 サイジ @sasaisaiji
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