戻れぬ日々
豊崎は国道沿いにあるビジネスホテルに車を停めた。駅から近いわけでも近くに大きな会社があるわけでもないこのホテルに誰が泊まるのだろうと通勤の途中で見かけるたびに考えていたがまさか自分が泊まることになるとはと、自嘲した。運転している最中、スマートフォンに何度か着信が入っていることに気づいたが、一度も出なかった。きっとおかしくなった美幸がかけているに違いない。チェックインをしている間、無意識に手がスマートフォンの入っているポケットに伸びたが、すぐに腕の力を抜いた。今、美幸の名前を見る勇気がない。
案内された部屋は六畳ほどのシングルルームだった。部屋の半分はベッドで占められているがビジネスホテルなど特に部屋に期待するものではない。むしろ家庭的な用品が何一つないことがありがたかった。
ベッドに寝そべってカーテン越しに見える外を眺めるが、真っ暗で何も見えない。目を瞑った瞬間スマートフォンの振動を感じた。いくら美幸が精神的に参っているとはいえ、不倫して怒って家を飛び出す自分も最低だな。終わった。
そう感じながらスマートフォンを取り出すと、義母の名前が浮かんでいた。もしかしたら美幸が義母に豊崎が不倫したことを言ったのかもしれない。とはいえそれを責める権利などあるはずもない。
「もしもし……」
「あ、陽介君? 私だけど、ねえ美幸がこっちに帰るって電話来たんだけど、何かあったの?」
義母は豊崎の状況を伺うことなく尋ねてきた。豊崎はうつろに返事しつつ、部屋を出て車の運転席に乗った。
「今さら何やってんだ……」
無駄だとわかっていても、車にはエンジンが入り、慎重にアクセルを踏んでいた。もう美幸との関係は終わった。全部俺が悪い。
それでも豊崎は美幸と付き合い始めた頃の思い出が脳内に溢れ始めた。最初音デートは映画館だった。3Dが流行り出した頃で、見に行ったわけだがストーリーの理解が追い付かなかった。もう映画のタイトルも覚えていない。何とか次のデートにこじつけたのは動物園だった。特有の獣臭はデートの雰囲気を壊すのではないかと心配したが、思いのほか妻が喜んでくれた。あのとき、勢いで告白し頷いてくれたのは奇跡だと今でも思っている。
ありきたりだがあの頃に戻れたらどんなに良かったろう。修太と出会えたことは後悔していない。むしろあんなにかわいい子を産んでくれた美幸には感謝している。
アパートの前に着くと、部屋の明かりはなかった。ドアを開けると鍵がかかっておらずそのまま開くことができた。
部屋を明るくするとテーブルに小さなメモ用紙と大きな紙が並べられてあった。大きな紙は白地に緑の印字がされていた。すぐにそれが離婚届だとわかった。妻の方の欄はすでに美幸の字で埋まっていた。メモ用紙に目を移すと『もう限界』とだけ書かれている。
「俺もだよ……」
豊崎はほぼ落ちるように椅子に座り、ボールペンで空欄を埋めていった。
離婚して三ヶ月が経った頃、豊崎は案外、気分が落ちていないことに気づいた。あまりにも美幸からの罵倒が凄まじかったため、一緒にいるころは精神的に狂う寸前だったのかもしれない。もし真由子と関係していなかったら本当に発狂していたのではないか。
離婚届を出してから一度、美幸の父が部屋に怒鳴り込んできたことがある。豊崎は胸倉をつかまれて義父の唾が顔に付いたが一切反論しなかった。美幸からの罵倒を受けて辛かったのは事実だが裏切ったのは自分自身であるという罪悪感がぬぐえなかった。慰謝料も指定された額払おうと思っていたが、美幸が慰謝料を拒否した。
真由子は離婚後も変わらずに優しくしてくれたが、豊崎から別れを切り出した。家族を不幸にした人間が他の人を幸せにすること撫できるはずがない。真由子は渋ったが最終的には受け入れた。
そんなときに、義父からまた電話が来た。美幸が修太と一緒に死んだという内容だった。
「お前のせいで……、お前のせいで美幸と修太が死んだんだ。どうしてくれるんだこの野郎」
そこからさきの豊崎の記憶は飛んでいる。気づけば美幸と修太の葬儀ホールに足を運んでいた。
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