最終話 新しい日々を綴る
装飾のない山羊皮の表紙をめくって、ミケーレはヴィオレッタに免罪書を開いて見せた。
約束通り、1ページ目が修道院出らしい端正な字で記されている。
「所々空いているのは?」
「それはね、免罪書を君に書いてもらった理由が今まで説明した以外にもあって……そうだね、10個くらい」
「多すぎ」
ヴィオレッタに間髪入れず言われたミケーレは口ごもった後、遠慮がちに口を開いた。
「一番の理由は、神じゃなくて君に罪を許してもらいたかったから」
それはヴィオレッタの予想通りだった。
神を信じない不信心者が、彼女を救うために犯してきた罪について許しを請うなら彼女自身だろう、と。
「でも許して欲しい、というのは自分勝手だから。正確にはこんな僕でも受け入れて欲しい、かな。
それから、僕のことを綴る過程で、誰よりも僕を知って欲しいなと思って」
ミケーレが話した人生はあくまで彼自身の目を通したもの。でもその言葉をヴィオレッタが要約して記すというのは、単なる告解を聞いて許しを与えるよりも、追体験に似て、深く心に残る――ということなのだろう。
「……それがヴィオに過去を綴ってもらった理由。それで1ページ目に書いたのは、これから必要になる情報」
「情報?」
「内容は実家のことで、空欄には僕の新しい名前を書いてもらおうと思っていたんだ。ヴィオが書き慣れるように」
隣で、義兄二人が小さく息を呑んだ音がした。「レナート、お前まさか」とエドアルドが言いかけた時、ミケーレは続けた。
「この免罪書――別名、釣り書きって言うんだけど」
「つりがき?」
聞き慣れない言葉に目を瞬いてヴィオレッタが見上げれば、ミケーレは後光でも差していそうな天使の笑顔を浮かべていた。
「釣り書きっていうのはね、結婚を申し込みたい相手に渡す身上書のことだよ、ヴィオ」
修道院には無縁の単語だ。
「返事は焦らないからね。今まで十何年も待ったんだから、あと何年かなんて誤差だよ――勿論選択権は君にあるけど、その間に他の男に目がいったら困るから、嫌われないように、好かれるように頑張るね。船旅の間は二人なわけだし。
いやでも他の男と会う機会はあるか……くっついているところを見たりしたらどうにかなりそうだけど、いやどうにかしそうだけど。……それでもヴィオのためなら我慢するよ」
「う、ううん?」
「本当は船を降りても離れたくないし見守っていたいし、できることならずっと腕の中に閉じ込めておきたいんだけど」
「それは少し、邪魔?」
ヴィオレッタが当惑を顔に浮かべつつ助けを求めるようにロランドを見上げれば、彼は額に手を当てていた。
「済まないヴィオレッタ、レナートの腕が立つのは確かだ。ただ、ここまで彼がおかしいとは思っていなかった。希望するなら他の使用人に――」
「ロランド、無理だよ。どうせ同船して着いていくから。……うん、まあ、僕もヴィオも偏った世界で暮らしてたのは解ってるんだけどね」
どうかな、ヴィオ。と。
ミケーレに尋ねられたヴィオレッタは、義兄と同じように額を当てて息を吐いた後――覚悟を決めた。
「ミケーレは、船が着いたら私を放り出す?」
「望むならいつでも傍にいるし、勿論手助けが必要ならなんだってするよ、ヴィオ」
「……うん。私、あなた以上に世間知らずだし。親戚の家でゆっくり考えて勉強して、それから――お母様が言っていた色々な国を見てみたい」
ヴィオレッタは手を差し出す。細いには変わらないが、以前よりはほんの少しだけ血色が良くなった手を。
「予定がないなら、私に着いてきてくれない?」
ミケーレが目を見開いてその手とヴィオレッタの顔とを見比べて固まっていると、ロランドが隣で微笑んだ。
「……よく似てる」
「お義兄様?」
「ヴィオレッタは、お母様によく似てる」
「……そうですか」
ヴィオレッタがはにかむように笑うと、
「……解った、そうする。良かった、重すぎて逃げられるんじゃないかと思った」
はっとしたミケーレは免罪書ならぬ釣り書きを閉じ、ヴィオレッタの手を優しく握り返した。それからほっとしたように息を吐く。
「自覚はあるんだ……以前もそんなこと、言ってた」
「でもこれが当たり前になれば重く感じなくなると思うよ。空気って重くないでしょ。僕が遍在すればいい」
何言ってるんだこの人、という目で、エドアルドもロランドもミケーレを見ていた。
ただ、良く分からないながらヴィオレッタだけは頷く。
今まで塔にいることが当たり前だったから、こんな彼にも慣れるかもしれない。
「――おい、王族から離れても、こいつは一応俺の妹でもあるんだぞ。……なあレナート、お前俺の配下じゃなくなったが、もし結婚でもしたら義弟だな」
からかうようにエドアルドに言われて、ミケーレは計算に入っていなかった、という顔をする。
やがて先に男爵の元へ行っている、と義兄たちが部屋を出て行ってしまうと、部屋に沈黙が落ちた。
「そろそろ私たちもお父様に会いに行かないと」
ややあって上着を羽織りながらヴィオレッタが口を開けば、静かな声が耳を撫でる。
「……ヴィオ、名前はどうする?」
「私は名前を捨てない。お母様から貰ったものだから」
「うん、君の美しい名前を二度と呼べなくなるのは残念だからね。じゃあ僕は……ミケーレでもいいかな。君に貰ったものだから。
ヴィオは、他にやりたいことないの? 写本、仕事にする?」
「実はね、修道院に入るのも選択肢かなと思っていたけど――」
窓の外に目をやれば、いつの間にか夕日が沈み始めていた。
外の世界の人々の営みの中に、もうすぐ自分も入るのだと思えば不安もあるが、期待も――期待をしていいのだと、鼓動が早くなる。
遠く夜の帳が降り始めた空に、ちらちらと星が輝き始める。
「しばらくは綴るなら写本じゃなくて、何でもない毎日がいい」
***
外壁の漆喰が塗り替えられたばかりの宿に驚きつつ部屋に入れば、壁紙も布の一部も張り替えられていた。ただベッドもカウチも、雰囲気は当時と変わりがない。
かつて修道院を出たばかりの二週間ほどを、過ごした宿。
画材を詰め込んだ重い鞄を床に置きながら、ヴィオレッタはかつてと同じように窓枠に手を掛ける。不健康なまでに細かった腕は今では健康的にふっくらとしていて、手には皺がほんの少し増えた。艶があってきれいに切り揃えられた爪には、ただ相変わらずインクと絵の具が残っている。
「ここから見える景色もあんまり変わってない――ほら。街や木にとっては5年なんて大したことないのかもね。
ねえ、殿下やお義兄様に会いに行く前に絵を描いて回ってもいい?」
振り向こうとすると、背後から伸びた手がぱちりと、ヴィオレッタの髪留めを外した。
夜空色の髪が風になびいて広がる。
手で髪を抑えれば、相も変わらず――いや、もう取って付けたような笑顔などしない――うっとりと上目遣いをする彼がそこにいた。
「わっ――ちょっと、ミケーレ!」
距離を詰めて、髪を掬い上げて口付けをするさらさらの銀髪を押し返しつつ、ヴィオレッタは抗議する。
「だってほら、船の上ではそういう気分にならなかったし……」
「ミケーレがひどい船酔いだから! 誰のせいでもないし誰も困ってない……」
ヴィオレッタの母方の親戚の家に行って暫くしてから、二人は旅に出て、内海に面した都市をあちこち見て回った。
モザイクの建物も、岩の上に立つ城も、大運河と跳ね橋も、時計塔も。絵に描いて、その場で似顔絵を描いて売ったりもした。
ヴィオレッタは彼のことも、5年の間に色々知った。船酔いしやすいことも、つい月齢で日を数えてしまう癖も、料理が上手なことも、体に残る無数の傷跡も、抱き癖があって髪や手には口付けたがるのに、唇には絶対にしないことも。
ヴィオレッタに執着しすぎだからと、他の女性をいくら勧めても、見向きもしないことも。
「いや困るよ。アピールしておかないと、殿下に会って、いきなり縁談でも紹介されたら――」
「ないと思うけど」
「うん、君がそう思うのは自由だけどね」
ようやくミケーレが彼女から離れて一息ついたところで、何故か真剣な顔で見つめてくるので、ヴィオレッタはきょとんと見返した。
「急にどうしたの?」
「5年前はきっと信じてもらえなかったと思うんだけど」
「うん」
「僕は君が好きなんだって言ったら――」
「それは初めて言われた」
「初めて言ったよ。それで、言ったら、今なら信じてくれる?」
真剣なのにとても恥ずかしそうに、そしてじわじわと赤く染まる頬に。
ヴィオレッタもまた頬が熱くなって、小さく呟くように。
「知ってる、信じた。どうしようもないくらい」
「うん、じゃあ――」
「それで私がいいよって言ったら、あなたも信じる?」
そう言い返せば、何故だか信じられないように彼は青い目を見開く。
「……僕、ヴィオが思ってるより重いよ? いいの?」
「それも知ってる。たぶん、想定内」
小さく呟いて、呟きは風にさらわれそうになって、それでも彼の目元が緩んだので。
ヴィオレッタは抱きしめられながら口元を綻ばせて、次はこの人を描こうと思った。とっておきの
美貌の彫像に寄る皺のかたちも、増えていく数と場所も、ヴィオレッタは全部覚えているし、覚えていく。
楽しかったことがあれば、空白だったあの山羊皮の本の最後に、付け加え続けていく。
これからもきっと。
死ぬまでヴィオレッタは、羽ペンを手放さない。
写字塔の囚われ王女はうそつき騎士の愛を綴らされる 有沢楓 @fluxio
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