第18話 目覚め

 清潔な布の匂いと背に当たる柔らかい感触、そして指を動かせばさらさらとした心地良いシーツの布目。


 ベッドの上だ、とヴィオレッタがぱちりと瞼を開けば、誰かが近くで声を上げ目の前が薄暗くなる。

 薬の影響か、インクを水に垂らしたようなぼやけた視界。何度か瞬きをした末、見覚えがある目に勢い良く体を起こそうとし――、


「お母様……痛っ」


 ごちん、と。頭がぶつかった。

 相手が額を抑えて姿勢を正せば、適切な距離が取れてやっと全身が視界に収まる。


 目のかたちと濃いブラウンの瞳、それに黒に近い藍色の睫毛と髪はよく知っている母親のもの。しかし全体的に角ばった男性的な輪郭――いや男性で、普段着にしては上質そうなジャケット。そして年齢はヴィオレッタより10歳程上らしいとなれば、正体はひとつしかない。


「お義兄、様……? ……も、申し訳、ありません」

「こちらこそ済まない、妹とはいえ妙齢の女性の寝顔を……その、初めましてというのも変だが。私はロランド・オルシーニ、君の兄だ」


 ヴィオレッタは初対面の義兄の顔を観察する。

 各部の色とパーツは母親似なのに、やや神経質そうな冷めた顔立ちは、これは義父似なのだろうか。ただ視線は戸惑いで揺れ、彼女を心配していることは伝わってきた。


「父のフェデリコ……オルシーニ男爵も下で待っている」

「下……?」


 ヴィオレッタが改めて周囲を見回せば、貴族の屋敷のような一室だった。

 豪奢なベッドにカウチとローテーブル、机、それからチェスト。ただ、誰かの家にしては生活感が少なく殺風景に感じる。


「ロランド、そこを譲れ。長い間手をこまねいているだけだった君が、ヴィオの視界に最初に入るとか、図々しいと思わない?」


 声に視線を引かれれば、壁際に立つ男性が目に入る。

 修道服でも鎧でもなく、生成りのシャツとズボンにブーツ、というラフな格好でも絵になる銀髪の男性。

 ミケーレ――レナート・シルヴェストリ。


「ヴィオ、目覚めて良かった。ここはオルビタに近い港町の宿だよ」


 微笑んだミケーレがロランドを押しのけるようにベッドの側に立つ。生きていること、顔にも身体にも目立つ怪我の跡がないことを確認して、ヴィオレッタは良かった、と何度も呟く。


「良かった……良かった、死ななくて」

「君が待っててくれるなら死ねないよ。……なにロランド、ヴィオに心配してもらえる僕が羨ましいの?」


 ロランドはミケーレの軽口が堪えたように目を伏せると、


「ヴィオレッタ、私と父を許して欲しい。表向き王に逆らう訳にいかなかった。何とか第二王子らと協力して機を見ていたが、ここまでずるずると来てしまった」

「許せと、言われても……」


 腰を折り、頭を深く下げる義兄にヴィオレッタは当惑する。

 歯切れが悪いのは、元凶は全て国王にあり義父と義兄が悪いわけではないからだ。一方で修道院で母親が死に、彼女自身も長年危険に晒されてきたのも確かだった。

 と同時に、この救出劇の経緯も、修道院の外で長年何が起こってきたのかも、詳しいことは何も知らない。


「そうだな。君はもう三日も寝ていたし……詳しい話はもう少し体調が回復してからの方が良いだろう」


 立ち上がったロランドが労わるように言えば、


「三日も……」


 ヴィオレッタは大声を出しかけ、むせて咳き込んだ。側のピッチャーからミケーレが水を注いだグラスを渡してくれる。


「覚えてないと思うけど、ヴィオはあの日の翌日、薬が抜けて一度目覚めたんだ。でも疲労と長年の栄養失調のせいか、朦朧としていて、ずっと寝てたんだよ。

 服とかはほら、着替えて――宿の女主人に頼んだから、そこは心配しないで」


 ヴィオレッタは水を一口飲んでこくりと頷く。

 自身の身体を改めて見れば薄いチュニックの長袖を着ていて、布団の中で足元が心もとなく、布の泳ぐ感触がある。


「修道院はどうなったの?」

「撤退するふりをして接収してから押し返して、隣国の軍とは一時休戦にした。ついでに違法な毒を見付けたってことにして……証拠も証人も抑えたよ。殿下は後で建物を焼くつもりなんだって。毒草の根が残っても困るからね」


 仮にも修道院の神殿騎士であったのにこともなげに言う、ミケーレの表情はそれでも明るい。

 確かに仕えているのは神でなく第二王子だったということだろう。


「ああ、噂をすればだね」

「――戻った。入るぞ」


 ミケーレが耳聡く足音を聞きつけたのか、ノックが響いて部屋の扉が開く。

 そこには黒髪に淡い金の瞳の青年が立っていた。

 ミケーレと同い年くらいだろうが、この場で最も堂々とした風格を漂わせている薄汚れた旅装の彼は、そのまま初対面の女性のベッドまで近づくとヴィオレッタを見下ろし、次いで二人に視線を向ける。


「次の国王は無事兄上に決まった」

「私はエドアルド殿下が立つべきだと思いますが」

「俺は血を流しすぎたし、直近でも流す予定がある。

 今まで俺の分までクソ親父の束縛の犠牲になって、あの状況で、伯母上に使われた毒の残りを託してくれたのも兄上だ」


 エドアルドは何も入っていない服の胸ポケットを軽くはたく。


「無実で寛容な国王として兄上が王位に立った方が、民も喜ぶ。

 ……まあ、あのクソ親父の虐待の影響が残らなきゃいいが、そこは俺が補佐するさ。俺がぶっ壊して、兄上が作る」


 ロランドにそう言ってから、エドアルドは精悍な顔をヴィオレッタに向けた。

 ヴィオレッタは止めるミケーレを振り切って床板に立つと、軽く礼をした。


「初めまして、ええと、半分だけ忌々しい血を分けたお義兄様……?」

「お前とは初対面だな、ヴィオレッタ。俺は忙しいから手短に尋ねるが、オルシーニになるか忌々しい王族の苗字を名乗るくそったれな栄誉に与かるか、どっちがいい?」


 にやりとエドアルドが笑えば、横からミケーレが口を挟む。


「そのク……名乗ると口が汚れる姓を名乗り続けるのですか」

「惚れた女の前だからって言い直したなお前。国王の姓なんぞ、何だったら母系にして変えてもいい。……そういえばお前も名を捨てるんだったな」

「最初から私もヴィオも、“死ぬ”予定でしたよ。

 ヴィオはもう二度と利用されないよう、王家と距離を取って欲しいですし、私も修道士ごっこはもう御免です。さんざん王女や修道女を誑かして……ついでに修道女には死体愛好家って思われてますし」


 死体愛好家――三角形の木札絡みだろうか、とヴィオレッタがミケーレの顔を伺えば、合っていたらしく頷かれる。


「ヴィオ……うん。これで名前を呼ぶのは最後かもしれないね」

「……」

「僕が君にあげたかったのは、自由だ。名前も、仕事も、行く場所も自分で決めていいんだよ」


 ミケーレは窓際に寄って、木の鎧戸を開け放った。

 ここは坂の上に構えた宿だったらしい。港町の風景が一斉に目に飛び込んできた。


 宿の前の道は遠く左右に伸び、今まで見たこともないようなカラフルな商店や民家が段々に連なり、その間を人々が行き交っていた。

 坂の下には港と、帆船が浮かぶ青い内海が広がっている。白く広がるマストの上空でカモメが鳴いていた。


 ヴィオレッタが暫く見入っていると、ロランドが遠慮がちに口を開く。


「自由はいえ、全く縁がないのも困るだろう。オルシーニとしては、しばらく国内もごたごたするだろうから、外国にある母方の親戚の家で静養するのはどうかと考えていたんだ。しばらく……いやずっとでも、そこの姓を名乗ってもいい。ゆっくり休んで身の振り方を考えるのはどうかと」

「……それはありがたい申し出ですね」


 ヴィオレッタは少し考えこんだが、大した時間はかからなかった。真っすぐに義兄と、そしてエドアルドを見て、


「それでは、許されるなら母の姓を」

「分かった」


 エドアルドが頷きロランドを見やれば、複雑そうな、罪悪感を滲ませた顔で再びヴィオレッタに提案した。


「望みさえすればレナートやうちの使用人が、商船で送り届ける。他にも希望があれば言ってくれ。しばらく私もこの宿にいるから……」

「ありがとうございます、お義兄様」

「礼などいい。辛い思いをさせてばかりだ」


(私こそ、……お母様を独り占めしてしまったから恨まれると思っていたのに)


 ヴィオレッタは首を横に振る。

 多分、全く別の境遇を生きてきた――母親を奪われて生まれた兄妹では、決して埋められない距離があることを、互いに理解していた。

 どちらのせいではなくとも、側にいれば互いに辛いことばかり思い出させるような気がする。


 部屋に沈黙が訪れた時、ミケーレがヴィオレッタに声を掛けた。


「……ところでヴィオ、約束は覚えてる?」


 言いながら彼が大切そうに鞄から取り出したのは、一冊の本――彼女が綴った免罪書だった。

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