第17話 満月の日、生を願う

 完成した免罪書を机にそっと置いて、ヴィオレッタは名残惜しむように表紙を眺めた。

 ブナ材の板を山羊皮で包んだ表紙は、免罪書らしくシンプルで装飾はない。背側は皮のバンドで簡単に綴じた。


(……完成、した)


 ヴィオレッタは息を吐くと再度本を手に取り、もう一度不備がないか、表裏に返し、上下左右の天地と小口とを確かめてから、表紙に指をかけた。

 最初のページは要望通り何も書かれておらず、一枚めくればそこからミケーレでありレナートの人生が羊皮紙の上で動き出す。


 装飾頭文字イニシャルはそこから芽生える木々を想像させるような、シンプルで優美な曲線を描く藍銅鉱アズライトで彩り、他の頭文字も青いインクを使った。

 周囲の空白を埋める、最低限の草と他に幾つかのつもりだった細密画ミニアチュールには、満月と新月、星空、内海を行く帆船、過去に見た離宮の風景などを付け加えた。

 そしてヴィオレッタが手掛けた証である白い鳥も。


 通常より短い納期のために手の込んだモチーフは入れ込めなかったが、これがもしかしたら技師としても最後の仕事になるかもしれないこともあり、何よりミケーレからの指名でもあり、丁寧に描いたから、いい出来だと自負している。

 確認はしてもらうが、きっと彼は書き直しを要求しないだろう。何か“本業”で会う口実が必要でなければ。


 ヴィオレッタがその日の夕食を運んできた修道女に完成を告げれば、翌昼、満月の二日前に写字塔の5階をミケーレが訪れた――修道院長と共に。


 ミケーレは取って付けたようなにこやかな笑顔だったから、内心邪魔だなと思っているのだろう。

 依頼の完了をもって報酬を受け取る院長が同席するのは全く不自然ではないが、嬉しい状況でないことは確かだ。


「院長から確認をお願いします」


 ミケーレの言葉に何故です、と問い返した院長に、彼は悪びれもせず「自分が良いと思った程度でも院長に却下される可能性があるので」と答える。

 どうとでも取れるだろうが、彼が決定権を渡すつもりがないことは伝わってくる。


「いいえ、依頼主が良いと言えばこちらから却下はしません」

「では院長はお帰りになってください。確認に時間を取りますので、付き合わせてはと思いまして」

「……分かりました」


 院長は眉根を寄せてから、免罪書をほんの1センチほど開いてめくり――内容ではなく仕様を確認して――これで良いというように頷いた。


「仕事はきちんとされているようですね、王女様」

「ありがとう、ございます」


 ミケーレは院長に引っ付くようにして凝視していたし、手がいつでも本を取り上げられるような位置で待機していたから、さぞ見づらかっただろう。

 院長はそのストレスを渋面にしてヴィオレッタに向けてから、慇懃無礼にミケーレに告げた。


「手短にお願いします。帰る前に必ず、院長室にお寄りください」


 階段を降りていく後姿と足音が聞こえなくなるまで見送ってから、ミケーレは腰を下ろしてゆっくりと一枚一枚のページを宝物でも扱うように確かめていく。

 視線が文字を辿るたびにヴィオレッタの鼓動が緊張で早くなる。

 やれるだけのことはやったが、思えば今まで改組するような写本に慣れ過ぎていて、こんな風に自分で考えた文章を綴り絵を描き、依頼主に真剣に読んでもらうことを前提にしたものを提出するのは初めてだった。


「……どう、でしょうか」


 ヴィオレッタはおずおずと、裏表紙が閉じられてからもエンボスも彩色もない山羊皮にじっと注がれる、ミケーレの視線を伺った。


「ありがとう」


 たった一言だけ呟くように。

 ミケーレは長い銀の睫毛を震わせて、大事そうにそれを胸に抱きしめると、そのまま高価そうな布で包んで鞄にしまう。

 そっと顔を上げた彼は優しく微笑んでいた。


「これから最初のページを、僕が書くから。全てが終わったら読んで欲しいな」

「分かった」

「……満月の日の日没が過ぎたら、ここに兵が来る。必ずそれまでに薬を飲んで」


 囁くような声で念を押して、ミケーレは立ち上がるとゆっくり階段を降りていく。

 数呼吸ののち、ヴィオレッタは椅子をがたりと鳴らして追いかける。


 これが最後の会話かもしれない、もっと何かきちんとしたことを話さなければと思うが、何も思い浮かばない。

 彼が写字塔と写字室を隔てる扉の前に立った時、ようやく名前だけを呼べた。


「ミケーレ――レナート、」


 振り返った彼は安心させるように――いや、心底から何かを信じるような、何かに運命を委ねるような顔をして。


「大丈夫だよヴィオ、満月は僕にとって縁起がいいんだ」


 そのまま目の前で扉が閉まっていくのを、ヴィオレッタは立ち尽くして眺めていた。


 ――そして暫くして、扉のすぐ向こうで、ガチャリと夜間にかかる重い鍵の音が聞こえた。

 息を呑んで慌てて扉に取り付き取っ手を揺らすが、当然開かず、鉄の固い感触が手を苛むだけだった。


「王女様」

「院長……? 鍵を、開けて、ください」

「もうシルヴェストリ様はいらっしゃいませんので」


 扉越しに聞こえた院長の声は、苛立つほどに何の感情も浮かんでいなかった。


***


 修道院の緩い幽閉生活は、本格的な監禁生活に変わった。

 写字塔から出ることは許されず、食事が与えられる時には扉から下がって待つように命じられる。使用済みの食器も、次の食事まで放置だ。


 次の変化は満月の朝に訪れた。院長が細く扉を開けたかと思えば、布を差し出したのだ。


「今日、王女様を隣国へお送りすることになりました。出発は夕食後です」


 目が泳いでいる。戦の気配が迫り焦っているのだろうか。確かに扉やベランダ越しにも修道女たちの不安な気持ちは感じ取れた。


「それまでにこちらに着替えておいてください」


 手に服を押し付け、院長は扉を閉めた。

 畳まれているにも関わらず判る、白と赤の強いコントラストは笑ってしまう程ヴィオレッタに似合っていない。

 ミケーレが見たら一緒に笑ってくれただろうか。


(もうここに……思い残すこともない)


 ヴィオレッタは口角を上げると、階段を駆け上がった。


 ミケーレが残していった保存食の余りを腹に詰め込むと、ヴィオレッタは服をばさりと広げた。

 今まで触れたことのない滑らかな肌触りは、これに絵を描いたらどんなものになるだろうかと少しだけ惜しい気もしたが、適当な写本を抑えにして本棚の影に吊るす。ちらりと裾が階段から見えれば時間稼ぎになるだろう。


 他の不要な写本を片っ端から引っ張り出すと、背のバンドを抜き取り、羊皮紙は作業用ナイフで細く長く裂いていく。

 以前だったら相当苦労しただろうが、最近の食事のおかげか、毒草スープの摂取を辞めたからか、以前より体調は良く筋力もついた気がするくらいだった。


 割いた皮やバンドを結んで長くする。

 それをこの二日で用意した同じような皮ロープと撚り合わせて一本の太いロープを作ると、もう日は暮れ始めていた。

 開け放った硝子戸の向こう、遠く北の方に狼煙が上がっているのが見える。

 ヴィオレッタはロープの片端をベランダの手すりに結びつけ、一度くるりと手すりの柱に回してから、もう片端を腰に結ぶ。


 時間がない。

 下を見れば、以前、5階まで外壁を登る――とミケーレが言っていた冗談を思い出す。

 確かにあれは冗談だったはずだが、外壁にはおあつらえ向きの石積みの突起や装飾があちこちにあった。


(あれを使えば降りらそう)


 子どものような体重を幸いに、ヴィオレッタは何度もロープを引っ張って解けないことを確認してから、慎重にベランダの外に身を乗り出す。

 風が泳いでヴィオレッタの身体を撫でると一瞬背筋を緊張が走ったが、恐怖まではなかった。

 手すりの下部に巻き付けた皮のロープと足掛かりの外壁にゆっくりと体重をかけ、手繰り、降りていく。


(大丈夫、できる)


 生きたいという衝動が、生きて欲しいと望まれていることが、普段なら無謀だと頭の中で却下する行動に彼女を駆り立てていた。

 西に沈んでゆく太陽が、砕いた辰砂の朱を東の海にばらまいて溶かしていくように見えた。

 途中で休憩を挟みながら、少しずつ、やがて滑り降りるように地面との距離を縮める。最後はロープが足りなかったのでナイフで腰の紐を切って足から着地すると、疲労がどっと全身に押し寄せた。


 それでもヴィオレッタは立つと、中庭に走った。

 服の下に提げた革袋から小瓶を取り出す。

 誰かの胸元に下がっている三角の木札を目の端に捉えた時、蓋を開けて中身を煽る。

 躊躇いはなかった。

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