大学生だった

千織

大学生だった

 やあ、僕の話に興味があるだなんて、奇特な方だね。僕はしがない文具店の店員だが、一体何に興味を持ったのかな。


 ああ、僕のことを、元教師だと思っていたんだね。いつも、教育でくだを巻いているから。半分あたりで半分はずれ。僕は私塾で講師をしていた。


 だが、教育学部ではないんだよ。法学部だ。その中でも経済寄りでね。だから、大抵の人は僕を教育学部だと思ってるし、後輩は、僕を経済学部出身だと思っている。同期くらいだね、ちゃんと僕が法律を勉強していたと知っているのは。


 僕は、本当は憲法学者になりたかった。法律の中で一番好きだった。人類の悲哀を感じるんだ。こんなもので縛らなくては人類は生き残れない。そういう人間の愚かさの象徴として。美しいと思っていた。


 一般教養では、履修していたよ。僕は完全な小さな政府派の人間で、あらゆる場面の国家の制約を否定する立場をとっていた。制約する側の頭がまともだとは限らないからね。一方、友人は法律による統制に寛容な立場だった。彼女とはいつも意見が真逆だったが、どちらにも評価は「優」が来た。彼女とは、今でも親友だ。


 三年生になり、張り切って憲法ゼミに入ろうとしたら、教授が退官することになって、新しい教授も来なかった。憲法なんて、社会人になって学ぶもんじゃないだろう? 僕の憲法学者への夢は閉ざされたんだ。僕はやけっぱちになって、ゼミはほぼ適当に選んだ。


 ゼミは、会社法にした。つまらない、選択だろう? 刑法のような憎しみもない、家族法のような悲しみもない、民法のような解釈の面白さもない、訴訟法のような緊張感もない。


 本当に、僕みたいだよ。まさに実用。


 実際、卒論のテーマには困った。なんせ、経済に合わせて、合理的かつ当時は生まれたての法律だから、議論の余地がないんだ。


 今は変わったようだけど、僕の時代は卒論を書かなくてもいい仕組みだったんだ。それでも書いた方がいいと、担当教授が言ってくれて。出来上がったものは、笑えるくらい全く価値のない物だったけど、教授はきちんと製本に出してくれて、僕とゼミの同期、それぞれにプレゼントしてくれた。


 同期は、僕とその友人だけで、先輩も三人しかいない小さなゼミだった。教授は税理士資格を持っていてね、法律の内容よりも、「法律を学んだ者がどう生きていくか」を現実的に教えてくれた。僕は……ほぼほぼ法律の知識を使う人生ではなかったから、先生の助言を活かせなかったけれども、先生がいつも熱心に語ってくれたことが、嬉しかったね。



 ある資格を、僕と先輩が取ることにしたんだ。法律分野は楽勝だった。僕は私設の勉強会にも出ていたから。案外こう見えて、法律の勉強には入れ込んでいたんだよ。


 二人とも無事に合格して教授に報告したら、教授はガッカリしていた。なんで質問しに来なかったんだ、って。先輩と顔を見合わせてね、同じ気持ちだったんだろうよ。教授が期待するような、楽しいゼミ生との交流を生み出せなくて申し訳なかったな、って。


 いつもこんな感じで、先生の熱量が10なら僕たちは3くらい。先生のことはみんな好きだったけど、なぜか噛み合わなくて。それでも僕は、いつしかそのゼミが好きになっていたんだ。



 良き時代でね、僕たちゼミ生は修学旅行みたいなものに無料で参加できることになったんだ。もちろん、法に関わるところに見学に行くのだけれど。中でも、今でも忘れられないのは、やっぱり最高裁判所だよ。


 まるで、神殿。石材には花崗岩が使われていて、音が無闇に響かず、静謐が保たれるようになっているんだ。大法廷の前と後ろには二枚ずつつづれ織の大きなタペストリーが掛けてあって、正面の二枚は太陽が、後ろの二枚は月が。最高裁判所には十五名の裁判官がいるんだけど、大法廷は全員で構成される。傍聴席から見る十五席はね、圧倒されるよ。たかが、椅子なのに。


 数え切れないほど六法をめくり、ボロボロになるまで判例集を使い、頭が千切れるくらい考えた、ある意味、頭脳の最高峰の人たちがね、ここで、誰かの人生を、決定しようとするわけだ。


 全ての事件の中でも、ここに来るものはほんの一握り。何十年も闘ってきた人。死刑判決が下された時。仕事を終えて退廷する法曹の日常。


 極みだよね。


 

 僕が、民間に就職が決まったとき、私設勉強会を開いてくれていた教授に言われたんだ。


「法律家に向いていると思っていたのに。法律を解する力は、それは皆もあったけれども、あなたには、弱い人を救いたい気持ちがあったよね」


 そう言われて、心の底から嬉しかった。自分のことを理解してくれる人なんて、いないと思っていたから。


 僕は、法律が好きだったけれど、法律の出番は最後なんだ。その間に、たくさんの人が嫌な思いをして、苦しんでいて、辛い思いをしているんだよ。だから、僕は教育を選んだ。


 

 時々、言われるんだ、再開しないのか、って。

 僕の友人らは皆優秀でね、学んだことを胸に、警察官や弁護士やってるよ。論文を出した奴もいるし、勉強会の教授は、学部長になっている。


 だから、僕が少しくらい休んだって大丈夫なんだ。今は、オニヤンマの絵を描いている。複雑な羽の模様。こんなところを真剣に見つめたことなんてなかった。文具店で飾ってくれるんだ、画材を使った見本として。評判がいいんだよ。でも僕は週一しかお店にはいかないから、ミステリアスだろ? 多才で困ってしまうよ。



 だいぶ、喋りすぎた。黙って聞いていられるなんで、君も変わった人だね。

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大学生だった 千織 @katokaikou

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