陽炎とノクターン

よなが

夜想曲第2番 変ホ長調

 意中の相手がピアノを弾いていたので聞き入った。


 もう少し詳しくするなら。


 想いを寄せている相手が音楽室で一人、ピアノを弾いているところに遭遇したので耳を傾けることにした。


 もっと詳しくしてもいい。


 他に誰もいない廊下を歩いている時に、ふとピアノの音が聞こえ始めて、引き寄せられるようにその音の源である音楽室へと足を踏み入れてみたら、そこには好きな人がいて、その演奏に耳をすませることを選んだ。


 さらに詳しくできるはず。


 それは夏休み真っ只中、つまりは真夏のことで、昨日の全体登校日で忘れ物をしたので今日も学校に来ていたのだけれど、なんとなくすぐ帰るのも惜しいと思ってふらふらしていたら、どこからかピアノの音がしてきて、音楽室に入ってみるとそこで演奏していたのは片思いの相手であったから、息を殺してその旋律に集中することにした。


 まだ足りない、でも余計な部分もある。


 真夏のことだ、静まり返った廊下をあてもなく進んでいるとピアノの音が鳴り始め、きっここからだと思って音楽室の扉を開けると、一人の女子生徒がたしかにピアノの鍵盤に指を走らせていたのだが、その子は自分がかねてより密かに恋慕していた少女であって、彼女が紡ぐ調べを堪能しようという気になった。


 まだまだ足りない、それにやっぱり無駄もある。


 遥か彼方の天から降り注ぐ陽光が容赦なく人々の身を焦がす真夏に、足音が少し響いては静寂に吸い込まれを繰り返す廊下に独りでいた折、不意に新しい音が軽やかにやってきて、はじまりを探してみると、果たして音楽室でピアノを奏でる少女と巡り合ったが、彼女こそ私の心音を日々高鳴らせ、心を燃え上がらせている人物であり、目はその指の動きを追い続けて、耳は音楽の虜になっていた。


 そうではない、これではダメだ、仕切り直そう。


 ある日、真夏の音楽室にてピアノを演奏していたのは私が勝手に恋をしている同級生で、声をかけるのが躊躇われ、ただその音楽を注意深く聴くことにしたのだった。


 方向性は間違っていない、よりつぶさに。


 皆が口を揃えて「暑い」と愚痴る真夏だと言うのに、がらんとした音楽室で冷房をつけずに一人きり、ピアノを鳴らしている彼女と出会えた幸運。なぜなら私は彼女が好きだから。自分勝手な恋心。どうして彼女はこんなところでピアノを弾いているのだろう、そう思いながらも鳴り止まぬ音に身を委ねた。


 なるほど、こういうのも悪くない。


 もしもあなたがずっと恋い慕っている人物と偶然にも、真夏の音楽室で会うことがあったなら。そして相手が汗を額に滲ませながらショパンの夜想曲――あの一番有名なやつだ――を弾いている、そんな場面に出くわしたなら? どう声をかけるだろう。私はというと、浮かんだいくつかの言葉を飲み込んで、ただひたすらにその旋律に聞き惚れた。いや、これは嘘だ。だって本当は音楽よりも彼女の姿に心を奪われていたから。彼女は軽く目を閉じて弾き続けていた。きっと私が入ってきたことに気づいていない。そう、気づいていないほうがいい、ううん、知ってほしい気持ちも湧き上がる。今ここにいるのは私たち二人きりだということ。私の熱いこの想いを伝えたい。


 あと少し、もう少し。


 真夏に汗を流しながら弾く曲としてショパンの夜想曲が相応しいかはともかく、私はその日、音楽室で彼女の演奏に。音色をこの目で捉えていたわけではないけれど、鍵盤をその指で叩く彼女の姿はこれでもかと焼き付けた。目を閉じてみて、瞼の裏に夜を想うことができなくても、彼女を想い続ける。


 これが最後。ぜんぶ、ぎゅっとして。


 陽炎ゆらめく季節、夜想曲を奏でる彼女へと私は身勝手な愛を叫びたい。


 そうだ、これでいい。

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陽炎とノクターン よなが @yonaga221001

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