閑話休題〜生と死と〜
「宙、私です。斎司です」
「おー来たか。ちょっと待ってろ、開けるから」
ある日の昼時。もう数え切れないほどしたやりとりの後、オートロックが解除される。斎司はエレベーターで六階に昇り、慣れた手つきで部屋のチャイムを鳴らした。
「よう」
短い挨拶の後、部屋の主は斎司を中に招き入れる。斎司は部屋を見て、小さく微笑んだ。
「部屋片付けたんですね、宙。先月来た時は文字通り足の踏み場もなかったけれど」
「どっかの誰かさんが母親かってくらい片付けろって言うからな」
そう言って棚を漁り始めた部屋の主—
手を洗ってから戻ってくると、宙がお菓子を大量に持って戻ってきた。がさっと音を立ててお菓子を置くと、テーブルに二つ用意してあったコップにお茶を注いだ。
「…宙、寝てます?」
斎司は宙の顔を覗き込む。宙はこの辺りの総合病院で医師をしている。当直もあり、あまり寝る時間がないと聞いたが、今日は元気そうだった。
「だから母親かっての。大丈夫だよ。最近はわりと寝れてる」
宙は苦笑いしながら答えた。それはそうと、と宙はポッキーをぽりぽりと齧り、斎司をじっと見つめた。
「斎司こそ、どうなんだよ。いっとくけど、睡眠の話じゃないぞ」
わざと目をそらして、斎司は少しお茶を飲む。宙が何を言おうとしているかは分かっていた。少し俯き、ぽつりと言った。
「大丈夫ですよ。宙みたいに話せる人がいる内は」
「含みのある言い方やめろよ」
宙は眉を顰めると、お茶を一気に飲む。空を見つめる目に何の感情があるのかは、上手く読み取れなかった。
「なあ、斎司。お前、本当に気をつけろよ」
どきりとした。
「俺さ、時々思うんだよ。お前が、気づいたらいなくなってるんじゃないかって」
斎司は勢いよく宙の方を振り返る。同じ言葉が、頭の中で反芻された。
『気をつけろ』
『その力に屈するな。順応しろ。そうしないといずれ、身を滅ぼすぞ』
父である誠の声が、聞こえてくる。もう、いなくなってしまったのに。
誠が亡くなったのは、斎司が高校生の時。本当に突然のことだった。病気を持っていたわけでも、なんでもない。
轢き逃げだったのだ。
あの時、斎司と母は家にいた。電話をとった後の母の青ざめた表情を、斎司は今でも覚えている。逆にいえば、そこからはよく覚えていない。気がついたら、誠の葬儀が始まっていた。
斎司は、茫然としたまま棺を見つめていた。
そして、その時、聞こえた。
いないはずの、父の声が。
パニックになる斎司を見て、誠も驚いていたようだった。そして、あの言葉を残したのだ。
元々魂の声を聞くことなどなかった斎司にとって、その衝撃は大きなものだった。誠の死に加えて残されたそれに斎司は耐えることができず、そのまま気を失ってしまった。
当然、斎司は最初、誠を亡くしたことによるショックでの幻聴だと思った。というより、そう思いたかった。
しかし、目覚めた時、斎司は確信した。
父は、もうどこにも存在しないと。
根拠のない確信だった。しかし斎司は『聞こえること』『消えること』、そしてそれらが『日常的に起こっている』ことを、一ヶ月足らずで痛感することになった。
今でこそ、納棺師としての、送り出す者の責任として、全ては助けられないと割り切っている部分があるが、誰にも気付かれないままの魂というのは、少なからず存在する。斎司は最初、それらの声に耐えることができなかった。恨み、妬み。未練として残ることも多い人間の黒い感情に触れ続けるのを、ひたすら避けるようになり、気づけば高校も休みがちになっていた。
家の中で斎司は、誠が残した言葉について考え続けていた。
『屈するな。順応しろ』
順応するなんて、どうすればできるものなのか。この力が、自分に何を与えるのかわからなかった。
そうして、誠のことをぼんやりと思い返しているうちに、ふと、ある記憶が蘇ってきた。かつて、幼い斎司が、納棺師という仕事についてまだよく知らなかった頃、誠に仕事について尋ねたことがあった。
『人は亡くなっても魂がある。この世に魂を残さないよう見送るのが納棺師の務めだ』
それが誠の返事だった。当時は、深く考えずその言葉を受け取っていた。しかし、魂の声が聞こえるようになり、その言葉が、ただの信条ではなく、誠が見た世界そのものであるということがわかった。そして、それを理解し始めたときから、斎司は誠の影を追い始めた。
そして、斎司が納棺師を志し始めるのに、たいして時間はかからなかった。聞こえることを含め、そのことを宙に話した時、宙は小さく微笑んで『そうか』と言っただけで、これまで通りに接してくれた。
高校を卒業したあと、納棺師の専門学校に入学した。学校に行っている間、ずっと誠の言葉が頭の中にあった。納棺師になれば、この耳を少しは受け入れられるのだろうか、と。
結局、その答えはまだ見つけられていない。でも、仕事としてその声に向き合えるようになったことや、宙のような人がいてくれるおかげで、なんとか生きていけていた。
「いなくなりませんよ。私は」
「そうは言うけどお前、たまにあっち側行きかけてるだろ。誤魔化そうとしてんのか無自覚なのか知らねえけど、見ててヒヤヒヤするんだよ」
言葉に詰まる。大体の場合、冷静に対処できているつもりでいるが、一瞬でも心が弱ると、一気に持っていかれそうになる。誠の精神が強かったのか自分が弱いだけなのかは、未だにわからない。
「宙には敵いませんね」
「当然だ。何年一緒にいると思ってるんだよ。—まあ、あんまりこう言うふうに言っていいのかもわからないけどさ、気持ちはわかる。俺も、死を見るのを避けられ続ける職業じゃないからな」
本棚に収められた医学書を眺めながら、宙は続けた。
「俺たち医者が見るのは人間だ。もちろん、命のためにある場所なんだけどな。その命を産むのか、延命させるのか、はたまた自然に終わらせるのか。決めるのは人間だ。俺たちが向き合うべきは、人間なんだよ。でも、斎司が向き合うのは、いや、向き合わなきゃいけないのは、死そのものだ。何を考慮したとしても、死という現実は変わらない。それを受け止めて、死んだ側も遺された側も、心で理解するようにする。半端な精神力じゃできない。…十分、強いよ。斎司は」
「…ふふっ」
思わず笑ってしまう。この人が親友で、本当によかった。
「おい、俺が珍しく真面目に話してるのになんだよ」
「いえ、違うんです。嬉しくて。あははっ」
ちゃんと、わかってくれる人がいた。少なくとも、一人ではない。それだけで十分、向き合い続けることができると思えた。
「まったくしょうがねえな。斎司、後で呑むぞ」
「え?ちょっと待ってください。私たちの耐性わかって言ってます?」
「忘れるぞ。全部。たまにはいいだろ、お互いな」
そうして冷蔵庫の中身を確認しに行く親友の背を眺めながら、斎司はぽつりと呟いた。
「…ありがとう」
窓から、柔らい光が差し込んでいた。
あなたの言葉を聞かせてください 音無ハルカ @Otonashi_write
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