二人目〜消える、想う〜

 「いやあ、担当してくれるのが斎司くんだったとはな。でも、斎司くんなら安心だな」


 目の前で遺族の男性が、寂しそうに笑う。斎司はその言葉に一瞬手を止めるが、すぐに動きを戻して故人に死装束を着せていく。


 この男性は斎司の父、誠の友人である竹本稔たけもとみのる。最後に斎司が見た時より、だいぶ老け込んで見える。そして今、斎司が死装束を着せている女性は、実の妻の貴子たかこだった。


 竹本夫妻は黒影家に時々訪れており、斎司も幼いころ、遊んでもらった記憶がある。竹本夫妻には子どもがいなかったが、二人はまるで親戚のように斎司のことをかわいがってくれていた。


 稔は厳格な誠と正反対な人だった。元気で、黒影家に訪れるたびに、頭を撫でてくれた。少し成長した後の斎司は、なぜ父とこの人は仲がいいのだろうと思っていたが、未だその謎は解けていない。妻の貴子はそんな夫の傍で、いつも穏やかに笑っている人だった。斎司の母とも仲が良く、二人で食事にも行っていたようだ。


 「しばらく見なかったけど、斎司くんもすっかり大人になったなあ。誠が死んだ時はまだ高校生だったろ」


 確かに、誠が亡くなってからは、竹本夫妻に会う機会も減っていた。前に見た時から随分白髪が増えているような気がする。


 死装束を着せ終えると、斎司は櫛を取り出し、髪をとかし始める。すると、稔は何かを思い出したように立ち上がり、部屋から姿を消した。


 「斎司くん」


 稔の手には、新品の化粧品が数個あった。髪をとかし終えた斎司が櫛をしまうと、稔がそれらを差し出してくる。


 「貴子が使ってた化粧品。これで化粧してくれるんだよね?」


 故人に死化粧を施すときには、納棺師が持っている化粧品以外にも、故人が生前使用していた化粧品を使用することもできる。斎司は稔から化粧品を受け取った。


 「…はい。では、お化粧をしていきます」


 化粧のりをよくするために肌の保湿をした後、ベースメイクから始めていく。稔は斎司によって化粧を施されていく妻のことをじっと見つめていた。


 「こんなに綺麗にしてもらって、よかったなあ。貴子」


 穏やかな顔で、妻の手に自身の手を重ねる。斎司はその顔を見て、少し安心した。化粧道具を片付けると、稔に向き直る。


 「では、これからご遺体を棺に移します。竹本様にもお手伝いいただけますか」


 稔と二人で、貴子の遺体を棺に納める。その後、手を胸の前で組ませ、副葬品を棺に入れた。


 「…俺さ、今まで貴子がどんな化粧品使ってたとか、全然知らなかったんだよ。何年も一緒にいたのになあ。そんなことすら知らないのかって、自分に思ったね」


 納棺を終え、蓋が閉められた棺を見ながら、稔は呟く。実際、故人が使用していた化粧品を知らない人は多い。些細なことほど、人は気づかない。当たり前になればなるほど、自然と認識から外してしまうものだ。


 「斎司くん。ありがとうな。貴子も喜んでいるよ。本当に、綺麗だった」


 今回の場合、棺は自宅から出棺される。斎司が担っているのは納棺の儀のみだったので、斎司にできるのはここまでだった。


 竹本家を後にし、車で事務所に戻っている途中に、その声は聞こえてきた。


 「…斎司くん?」


 急に話しかけられたが、斎司は冷静だった。運転中だったためよそ見するわけにもいかず、近くの駐車場に、一度車を停めた。


 「竹本さん」


 基本的に斎司は、魂に対しては「様」付けをしない。始めはつけていたものの、やめてくれと言われることが殆どだったため、今では最初からつけていなかった。


 「あら、懐かしくって話しかけたら、本当に答えてくれちゃった。それにしても、やあね、斎司くん。竹本さん、だなんて。うふふ。昔みたいに、貴子おばさんって呼んでよ」


 「…貴子、さん」

 斎司が下の名前で呼ぶ人は殆どいない。しかし、今後話す時に、実と区別が付きづらくなるのも事実だ。斎司はこそばゆいような、変な気持ちで呼びかけた。


 「大人になったわねえ、斎司くん」


 昔のように微笑んでいる貴子の顔が頭に浮かぶ。さっきの発言からして自身が死んでいるのには気づいていそうだったが。


 「ねえ、ちょっと聞いてもいいかしら、斎司くん。なんだか私、成仏できていないようだけど、これって大丈夫なのかしら?」


 いきなりの核心に迫った発言に、斎司はどきりとする。貴子は答えを急かすこともせず、ただ黙っていた。


 「いいえ、このままでは危険です。貴子さんは今、魂だけこの世に残っている状態になっています」


 斎司はその後、貴子に「未練」のことを含め、今後すべきことを話した。


 「そうなの。でも私、未練なんてあったかしら」


 貴子は不思議そうに呟く。今の話を聞いてなお、冷静でいられる貴子の精神力に驚いた。


 「ご自身が些細なことだと思っていても、それが未練になる方もいます。自分が思った以上に心にそれが作用していた、というケースも珍しくないので」


 「そうねえ」


 どこか上の空な声が響く。実との生活を思い返しているのかもしれない。


 だいぶ時間が経っても、貴子は悩んでいた。


 「引き留めちゃってごめんなさいね、斎司くん」


 「いえ、私のことはお気になさらず。私がやりたくてやっていることなので」


 「…ねえ、斎司くん。私一回、主人の所に帰ってもいいのかしら。そうしたら、何か思い出しそうな気がするの」


 斎司が確認した限り、貴子の魂は他より長めの猶予があるようだった。そのことを伝えると、貴子はほっとした声になり、やがて声が聞こえなくなった。


 斎司は少し外を見てから、車を走らせる。


 どうにも、雨が降りそうだった。


 数日後、昼休憩を取っていた斎司の耳に、貴子の柔らかい声が入ってきた。


 「斎司くん」


 斎司は一瞬周りを見渡し、一度外へ出た。


 歩道に設置されている木のベンチに腰を下ろす。行き交う人々はスマホを見ており、周りへの視線は一切ない。


 「時間をくれてありがとう。おかげで、わかった気がするわ」


 「そうでしたか。差し支えなければ、それをお聞きしても?」


 「…そうね、これは、私一人でどうにかできることじゃないのよね」


 そして、貴子は一拍置いた。そして、小さく呟く。


 「私、主人と離れたくないの」


 斎司はその言葉の真意を汲み取ろうとしたが、できなかった。黙って、続く言葉を待つ。


 「私と主人は、共通の友人の紹介で出会って、その後、主人の方からプロポーズしてきてくれたの。それで結婚した。でも、私は、私が思っている以上に、主人のことが好きだった」


 竹本夫妻の仲がとても良いことは、斎司もよくわかっていた。母と貴子が話しているのを見ながら、実は貴子について、斎司と誠によく話していた。


 「ある時、主人が同窓会に行ってくると言ってきた時があるの。直接聞きはしなかったけれど、同窓会なんだから、女性も当然いるわよね。…そう考えた瞬間、訳のわからない怒りが出てきてしまったの」


いつも穏やかな貴子に、そんな激情が湧くことがあるのかと、斎司は内心驚いた。貴子の声は若干震ている。


 「その時は何も言わなかった。主人のことを信じているから。でも、そういう、女性と接点を持つ場面で、私は毎回激しく嫉妬した。主人は別に、会う以上のことはしなかったのに」


 貴子は、まるでダムが決壊したかのように話し続けた。


 「それで、ずっとそんな重たい感情を持ったまま死んで、そこで気づいたの。ああ、私はずっと主人と一緒にいたいんだって。死して尚、主人を離すことができない。でも、もうどうすればいいかわからないの」


 ぐちゃぐちゃになった全ての感情が、波のように押し寄せてくる。斎司はかける言葉が見つからず、唇をきゅっと引き結ぶ。


 「…斎司くん?」


 聞き覚えのある声。しかし貴子の声ではなかった。斎司が顔を上げると、そこには貴子の夫、稔の姿があった。貴子も驚きの声を隠すことができず、「なんでここに」と呟く。


 「竹本、さん」


 「稔でいいよ。それより今、休憩中?今からちょっと話せないか?」


 正直、迷った。しかし、貴子への実の気持ちを、引き出せるチャンスかもしれない、と思い頷く。稔は笑って、ちょっと待ってなと言って離れた。


 数分後、缶コーヒーを二つ持った稔が戻ってくる。よいしょとベンチの隣に座り、斎司にそれを一つ差し出した。


 「相談料じゃないけど、さ」


 そっと両手で、それを受け取った。コーヒーの温かみが、缶から伝わってくる。


 稔はベンチの背もたれに体を預け、行き交う人々を眺める。


 「この前はありがとうな。あの後、ちゃんと送れたよ」


 稔の顔にはやはり疲れが見える。ちゃんと眠れているのだろうか。


 「変な質問するんだけどさ。斎司くんから見て、俺たちって、どう見えてた?」


 「どう見えてた、とは…」


 「要は、仲良さそうに見えてたかってことだよ」


 一瞬、目を見開いた。稔のこの質問が、貴子の未練に直結しているような気がしてならなかったからだ。


 「そうですね、幼いころ、遊んでもらっていた時から、とても仲の良い夫婦なのだなと思っていました。なんだか、お互いがお互いを、心から信頼しているといいますか」


 もっと上手い言葉を使いたかったが、結局、通り一遍の言葉になってしまう。稔はふっと息をつき、ようやく缶コーヒーのプルタブに手をかけた。


 「信頼、か。そんな綺麗な言葉で片付くならいいんだけど…いい年してこんなこと話すのもなんだか恥ずかしいんだけど。俺ってさ、随分貴子に惚れ込んでたみたいなんだよね」


 唐突な告白だった。コーヒーを持つ手を彷徨わせ、結局元に戻す。


 「貴子が死んでさ、悲しかったんだよ、俺。当然だろって思うでしょ?でもね、ただの悲しいって感情だけじゃなかったんだよね。なんかこう、もっと、重いというか、真っ黒というか。貴子は死んでも俺の妻だっていう、そこから貴子を、離したくなかった」


 「えっ」


 貴子から、心から驚いた声が漏れる。斎司が言葉を発するより、速かった。


 「本当なの、ねえ、私、あなたの奥さんでいていいの?」


 縋り付くような、必死な声だった。斎司は自分が口を出していいのか分からず、ただただ稔を見つめる。


 「もし、貴子がいるなら、言いたいんだ。お前がよければ、ずっと俺の奥さんでいてくれ、ってね。俺もずっと、お前の夫でいるから」


 稔はにこりと笑うと、すっと立ち上がった。慌てて斎司も立ち上がるが、稔に肩を掴まれて座らされる。


 「ありがとな、斎司くん。一方的で悪かったけど、話せて楽になったよ」


 一瞬、稔は別のところへ目を向ける。そして、手を下ろした。


 「


 「えっ?」


 「何かあったら、頼りなよ」


 じゃあね、と言って稔は背を向けてしまった。斎司は小さくなっていく背中を、茫然と見つめる。


 「斎司くん」


 貴子に話しかけられて、我に帰る。貴子は、涙声だった。


 「ありがとう。主人の言葉のおかげで、私、とっても楽になった」


 「いえ、私は何も」


 「そんなことないわ。斎司くんがいなかったら、私一人だったら、絶対聞けなかったんだもの」


 貴子の声は、最初と変わらず柔らかかったが、安心感を帯びた。


 「もう、大丈夫よ。…本当に、ありがとう」


 すっと、貴子がいなくなった。


 斎司は静かに頭を下げる。


 「…いってらっしゃいませ」

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