あなたの言葉を聞かせてください
音無ハルカ
一人目〜大好きなあなたへ〜
「でね、その時、友達がね」
頭の中に直接響く声。その声は明るく、朗らかだった。話相手の男は多少戸惑いながら、話に相槌を打つ。
彼は、この声の持ち主である少女が、自分がどんな状況であるのか分かっているのだろうかと考えずにはいられなかった。
自分が、既に死んでいると言うことに。
ちょうどほぼ全員が退勤したころだった。殺風景な部屋に聞こえるのは、彼の声だけ。
彼の名前は
側から見れば、大人の男が一人で話しているように見えるこの状況は異常に感じることだろう。しかし、斎司は確かにその少女と会話していた。
斎司は、死者の声を聞くことができる。…といっても、これでは語弊があるかもしれない。正確には、死者の魂の声だ。亡くなった「人」と「人自身」は違うという、斎司の中での信条が、そう考えさせるのかもしれない。
そして今、どこにいるかは分からないが、確かにここにはいるのであろう少女の魂の声を聞いていた…のだが、斎司はどうしたものかと思案してもいた。
実は、少女の魂が今ここにあるというのは、非常にまずいことでもあるのだ。
通常、人は死ぬと魂と化し、そのまま成仏する。しかし時々、強い「想い」を抱えたまま死に、その想いが魂をこの世に引き留めてしまうケースがある。それが、今の少女だ。
ではなぜまずいかというと、魂は長い時間この世に留まり続けると消滅してしまう。消滅した魂は二度と生まれ変わることができず、完全に世界から存在が消える。それを斎司は「本当の死」と呼んでいる。
斎司は納棺師になってから、魂の消滅を少しでも減らすため、この世に留まる魂の想いを昇華するための手伝いをするようになった。
「ねえ、お兄さん」
先ほどまでは明るかった声は小さく、どこまでも寂しそうな声色に変わった。斎司は少女の胸の内を思って俯きかけたが、首を小さく振って顔を上げる。
「はい」
「真夏、もう死んじゃったんでしょ?」
斎司は言葉に詰まった。この少女—
しかし、斎司は伝えなければいけなかった。
「…ええ」
「急に話しかけても誰も反応してくれなくなっちゃって、びっくりしたんだよ。そしたらお兄さんは反応してくれたから、ついてきたけど」
魂となった人の大半は、そう言う。納棺する時に初めて自分が死んでいることに気づき、とりあえず反応する斎司の元に行こうとするらしい。
「真夏、やりたいこといっぱいあった。また友達と遊びたかったし、推しのライブにも行きたかった」
純粋な願いに、斎司は思わず目を伏せた。真夏の願いを叶えてあげることはできない。そして、この世に留まり続けていても、待っているのは消滅だけだった。斎司は重苦しく口を開く。
「榎本さんが今、私と会話できているということは、榎本さんの魂がまだこの世に残っているということなんです。そして、魂が永遠にこの世に残り続けることは、できません」
「どういうこと?」
「この世に長く残り続けた魂は、消滅してしまうんです。そしてその魂は、二度と生まれ変わることができません」
長く、というのがどれくらいなのかは、本人にも分からない。斎司はだいたいの猶予を知ることはできたが、それでも具体的な時間までは分からなかった。
斎司は静かに思案した。真夏の様子からして、二日間ほどの猶予はありそうだったが、想いの昇華にどれほどの時間が必要かまだ分からない。
真夏はしばらく黙っていたが、やがてさらに不安そうな声で
「じゃあ、どうしたらいい…?」
と聞いてきた。
真夏を見送るには、とにかく真夏が抱えている「想い」を見つけなければいけない。斎司は自分の胸に、そっと手を当てた。
「榎本さんは、何かこの世にやり残したことはありませんか」
「え?」
「簡単に言えば、未練です。魂が残っている方は、皆様何か強い想いを抱えた状態で亡くなっていらっしゃいます。そして、それを昇華することによって、あの世へ行くことができます」
またしても、真夏は黙った。思い返しているのだろう。未練は殆どが強い感情だが、死んだことによるショックで一時的に思い出しにくくなる場合もあった。斎司は真夏の邪魔をしないよう、静かに窓の外を見る。気がついていなかったが、しとしとと雨が降っていた。
真夏が考え始めてちょうど十五分経った時だった。
「…葵ちゃん」
「え?」
「葵ちゃんと、喧嘩したままだった」
「お友達ですか」
「うん」
喧嘩が未練になるケースは珍しくない。特に真夏のような子供が多かった。しかし、昇華させるための方法を、より慎重に選ばなければならないケースでもあった。
「差し支えなければ、どのような喧嘩だったか、お聞きしてもよろしいですか」
「部活の試合で真夏がミスしちゃって、そこからちょっと喧嘩になったってだけ」
部活に入っていなかった斎司はその喧嘩がどのようなものだったか想像がつかなかったが、結局何と返せばいいか分からず、開きかけた口を閉した。とにかく、昇華する方法を考えなければならない。
「…榎本さんは、仲直りがしたい、ということでしょうか」
「うん。実は喧嘩したのは結構前のことなんだけど、そこからなんとなくきまずくて話せなくなっちゃって。一番仲がいい子だったんだけど、ずっとそれが気になってて」
「なるほど。となると、その方にご自身の気持ちを伝えるのが一番かと思いますが」
「…ラインってできないよね?」
「そうですね」
斎司が真夏のスマホを操作できるわけではない。なんとかして、他に伝える方法を見つけないといけない。
「あ、だったら、手紙は?真夏が文章を言って、お兄さんが書くの」
「よろしいのですか。内容は、あまり知られたくないのでは…」
手紙は、斎司も思いついていた方法だった。しかし、真夏のような年齢の人の問題に、どこまで踏み入って良いものか分からず、言いだせなかったのだ。真夏も少し迷っていたようだが、
「でも、それしか方法が思いつかないんだよね」
と、答えた。それなら斎司に止める理由はないが、なぜか悪いことをしているような気分になった。
「届けるのも、葵ちゃんの家は知ってるから、お兄さんがなんとかポストに入れてくれないかな。ね、お願い!」
「…分かりました。榎本さんがよろしいのなら」
斎司は少し考えてから、スマホを取り出した。荷物をまとめて立ち上がる。
「え、お兄さん、どこ行くの」
「事務所には便箋がありませんし、私も自前で持っていないもので。近くの雑貨屋に行って買ってこようかと」
「あ…ごめん。お金使わせちゃったね」
「いえ、お気になさらず」
未練の昇華のために、斎司が必要なものを購入するのもよくあることだった。そのせいか、斎司の部屋の引き出しには、あまり使った形跡がないものが所狭しと並んでいる。
退勤した後、斎司はスマホで近くの雑貨屋を検索した。普段はどこにも寄らずに帰るし、行くとしてもコンビニで夕飯を買うくらいのものだったから、この辺りの店をあまり知らなかったのだ。
近くになかったら途方に暮れていたところだったが、幸い、駅の中に最近オープンした雑貨屋があるということだった。退勤ラッシュで人が多い中、なんとかたどり着いた雑貨屋は、ずいぶんおしゃれな見た目をしていた。
「あ、ここめっちゃ可愛いコスメあるって友達が言ってたとこだ!」
真夏は喜んでいるようだったが、斎司はこのような場所に行く機会がないので、妙に緊張していた。実際、客も女性ばかりである。
とりあえず店内を歩いてみるが、置いてある商品の殆どが真夏が先ほど言っていたコスメや、文房具、アクセサリーだった。最近は年賀状すら出さず、SNSで済ますようになっているらしい。もはや手紙を書こうと考える人がいないのかもしれない。
ざっと見た感じ、便箋は見当たらなかった。この近くに本屋がないことだけは知っている。とすれば、他に買えそうな店が思い当たらなかった。
「あの、何かお探しですか」
その声で、思考の海から唐突に現実に引き戻された。顔を上げると、雑貨屋の店員なのであろう女性が立っていた。
「あ、えっと」
「すみません。急に話しかけて。ウチの店に男性が来るのが珍しいので」
「あ、いえ…あの、便箋を探しているのですが」
店員は「便箋」と繰り返すと、少々お待ちくださいと言ってレジの奥に引っ込んだ。
あの反応を見る感じ、ないのだろうなと思いながら斎司はもう一度店内を見回す。すると、さっきの店員が戻ってきた。
「お待たせしました。便箋ですよね。ございます。ええと、こっちに…」
店員に案内されて、店の奥にあったタワーラックの前まで行った。店員がそのラックを回すと、壁に隠れて見えなかったのであろう便箋が少しだけ置いてあった。
「申し訳ありません。これしかものがなくて」
「いえ、十分です。ありがとうございます」
店員が去ってから、斎司は置いてあった商品を手に取った。それはいわゆるレターセットで、便箋六枚、封筒三枚が一緒に入っているものだった。便箋の上下と青い封筒の封の部分には同じ花の模様があしらわれている。
「可愛いね。それ、何の花なのかな」
真夏の声が近くで聞こえる。斎司はじっとその模様を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「…カスミソウですね。今の榎本さんによく合う花だと思いますよ」
「よく合うって、どう言う意味で言ってるの?」
「花には花言葉というものがあります。カスミソウは—」
斎司の言葉を聞いた真夏は、即決でその便箋を選んだ。斎司も内心、それがいいと思った。直接ではなくても、伝わるものは必ずある。
雑貨屋を出た後は、テーブルがあるところに落ち着くべく、同じ駅の中にあったカフェに入った。仕事終わりの人々が多く、店の中はずいぶん混んでいた。
一番隅の席に案内されたのはありがたかった。周りを気にせず書くことができる。注文したコーヒーが来るまでの間、斎司は先ほど買ったレターセットをじっと見つめていた。
言葉というものは繊細だ。言葉ひとつが薬となる時もあれば、刃となるときもある。実際、そう言った「言葉」が未練として残るパターンを斎司は何度も見てきていた。
そんなことを考えているうちに、注文したコーヒーが運ばれてくる。ミルクはつけていなかったはずだが、店員は最後に小さなミルクピッチャーを置いて去っていった。
少し考えた後、そのミルクをコーヒーに入れた。そして一口だけ飲むと、手があたらないよう少し離れた場所に移した。
鞄から小さな筆箱を取り出し、レターセットを開ける。紙の手触りに、なざかほっとした。
「始めましょうか、榎本さん。言ってくださればその通りに書きます」
「ありがとう、お兄さん。って、ずっとお兄さんって呼んでるけど、お兄さんの名前って何?」
真夏の声は、最初に話した時より柔らかく、明るくなっていた。斎司はそれに少し安心した。何より大切なのは、真夏が納得し、安心してあの世へ行けることなのだ。
「黒影斎司です。榎本真夏さん、よろしくお願いしますね」
突然フルネームで呼ばれたからか、真夏は変なの、と笑って、少しずつ、ゆっくりと、言葉を紡いでいった。その言葉は、後悔、友愛など、さまざまな色を含んでいた。斎司はただひたすらに、便箋へ言葉を置いていく。
そこからは早く、すぐに残り数行のところまで書き終わった。と、そこで、あまり悩む様子を見せなかった真夏の声が初めて止まった。
「榎本さん?」
急かすつもりはなかったが、しばらく経っても真夏が何も言わないので、流石に心配になって声をかける。すると、小さな声が聞こえた。
「うぅ…」
一瞬した後、それが真夏のすすり泣きであることに気がつく。この手紙は、当然「真夏が死んでいる」ことを前提にして書かれている。文章を頭に思い浮かべるうちに、自分が死んだという現実がだんだん体に染み込んでいったようだ。その恐怖、悲しみが今、この涙として出てきているのだろう。
「そっかぁ。真夏、もう死んじゃったんだぁ…」
小さかった泣き声は、だんだん大きくなっていった。斎司は目を伏せ、静かに語り始めた。このような時こそ寄り添える。だからこうして魂の声を聞き続けていたから。
「…榎本さん。私は、魂の声が聞こえるようになって、様々な人を見てきました。榎本さんと同じくらいの方も、もっと幼い方も、ご高齢の方もいました。皆様、一人一人、亡くなった理由も未練も違いました。でも、どの方にも共通することがありました。皆様、生まれ変わりを心から信じていらっしゃったんです。生前、神や霊の類を信じなかった方でも、です。それは、ご自身がそのような存在になったから、という理由もあったそうですが、もっと強い理由がありました」
そこまで話して、斎司は一呼吸入れる。コーヒーには手をつけなかった。
「皆様、生前大切に想われていた方に、また会いたいと心から願っていらっしゃったんです。自分の母に、夫に、子供に…友達に。どうしても会いたかったから、ご自身の死を受け入れ、未練の昇華に努めていらっしゃいました。魂が消えない限りは、また生まれ変わります。しかし、消滅してしまったら、もう二度と会うことはできません」
「生まれ変われる、なんて、なんで黒影さんが知ってる、の」
嗚咽の合間にやっと絞り出したと言った感じの、とても苦しそうな声だった。真夏の疑問は最もで、手伝いをした殆どの魂が、そう聞いてきた。そして、それに対する斎司の答えもいつも一つだった。
「私に納棺師という仕事を、亡くなった方とそのご遺族に寄り添うことの大切さを私に教えてくださった人から、そう聞きました。彼も、魂の声が聞けたようです。でも、生まれ変わりに関しては疑問もありましたし、遺された人々にとっては知る由もないことですから、どうにも実感が湧かずにいました」
今でも、あの日を思い出すと深い後悔と自責の念に駆られる。永遠とまでいかなくても、なんとなくそばにいると思っていた大切な人を失ったあの日。斎司は自嘲気味に笑みを浮かべる。
「私にそう教えてくださった彼は、ずいぶん前に亡くなりました。その時、私はまだ無知で…彼を、助けることができなかったんです」
胸がずきりと痛み、斎司は思わず手を当てる。彼の言葉が、次第に自らの呪いとなっていることに、気づかないふりをし続けていた。
「彼の魂が消滅した時、確かに感じたんです。彼が完全にいなくなったことを。どこを探してもいない、二度と会えない。…そこで気づいたのです。ああ、遺された人はこのような気持ちなのだ、と。もちろん、消滅について知っている人は殆どいません。でも」
そこでようやく斎司は目を開ける。柔らかな照明が、眩しく感じた。
「遺された人は信じるしかないんです。亡くなった方が、今、どこかで元気に生きていることを。彼はもういないと知っている私ですら、そう考えてしまいます。死を受け入れることは簡単ではありません。生きている私が言うのも烏滸がましいというのも分かっています。しかし、遺された人の想いを受け取ること。皆様、それを胸にして、ご自身の死を受け入れていらっしゃいます。ですから、榎本さん」
斎司は少し顔を上げる。今だけは、遺された者として、榎本真夏という少女に語りかけていた。
「どうか、受け入れてくださいませんか」
そこではっとする。ここまで語るつもりもなかった。真夏には受け入れることを迫っているように聞こえているだろう。お前に何が分かるんだと怒鳴られても斎司は何も言えない。分かっていたはずなのに。
「…申し訳ございません。私が図ってはいけないところでした」
真夏からの返事はなかった。泣き声すら聞こえなくなっている。斎司は一瞬、真夏が消滅した可能性を考えたが、どうやらいるようだった。それでも焦りは消えず、忙しなく視線を彷徨わせると、ふと小さな声が聞こえた気がした。斎司は戸惑いながらも、それが真夏の声であるように聞こえていた。声はだんだん堪えきれないというように大きくなっていく。どこまでも切なく、明るい笑い声が。
「榎本さん」
思わず呼びかける。真夏はたっぷり五分笑い続けた。ようやく笑い終わった真夏は、息が切れたのか途切れ途切れに話し始める。
「本当、黒影さんっておもしろい!さっきまで真面目で、なんというか、人間っぽくないなぁなんて思ってたのに!意外と情熱的なんだね」
「じょ、情熱的…?」
そこまで熱く語ってしまっただろうか。今まで情熱的という風に自分を表されたことがなかったため、そうなのか斎司自身でもよく分からなかった。
「気にしないでね、黒影さん。真夏怒ってないから。ほんと、おもしろくて涙も引っ込んじゃったよ。それに、黒影さんが言うなら、ちゃんと受け止めようって思った」
かなり焦ったが、どうやら上手く着地したらしい。真夏がなぜ出会ったばかりの斎司のことをそこまで信頼してくれているのかも謎だったが、ひとまず安心した。
「榎本さん、では…」
「うん。続き書こ。っていっても、もうほぼほぼ終わりだけどね」
手紙の締めというのは相手への思いが綴られることが多い。真夏もそうしたかったようだが、堅い手紙にはしたくないようで、今までで一番悩んでいた。
「うーん。でも、真夏、直接伝えるの難しいかも。ねえ黒影さん。さっきの花の意味、もう一度教えてくれない?」
真夏の考えを察した斎司は、便箋に描かれていたカスミソウの花言葉を繰り返す。真夏はそれを聞いて、嬉しそうに最後の言葉を紡いだ。
「これで、よろしいですか?」
最後の言葉まで丁寧に書き、斎司はペンを置いた。真夏の確認が得られるまで、静かに待つ。何度か読み返したのか、しばらく時間がかかっていたが、やがて「うん」と声が聞こえた。その声は温かく、柔らかだった。
「では、投函しましょうか。…今日中の方がよさそうですね」
斎司は手紙を封筒に入れた。
「え、でも、黒影さんは大丈夫なの」
「私は大丈夫です。想いは、早く伝えた方がいいと思うので」
「…分かった。じゃあ、とりあえず駅に行こう」
斎司が立ちあがろうとすると、殆ど手をつけていないコーヒーが目に入る。それを見て座り直すと一気にコーヒーを飲み干した。
カフェを出た後、真夏の案内に従い、二駅先の住宅街にやってきた。だいぶ時間も遅かったので、人影はなく、静かな空間が広がっていた。
「ここ」
真夏の声を聞いて立ち止まる。二階建ての一軒家。表札には「中村」と書かれている。オレンジ色の明かりが、窓からもれていた。
真夏は何も話さなかった。斎司は、表札の下にあるポストに直接、手紙を投函する。
「榎本さん」
呼びかけるが返事はない。斎司は動かず待っていたが、時間だけが過ぎていった。
「黒影さん、ありがとう。もう、いいよ」
真夏が唐突に、そう言った。
「真夏さ、誰にも認識されないのってこんなに寂しいんだって思った。でも、黒影さんが、真夏のことちゃんと見てくれたから、本気で話してくれたから、ちゃんとお別れしようって思えたんだ。ありがとう。でもね、もう大丈夫だよ。私は一人で、大丈夫」
最期を一人で過ごしたがる魂は多い。斎司は静かに頷くと、一歩後ろに下がって頭を下げた。そして踵を返すと、黙ってその場を後にした。
一人その場に残った真夏は、窓から見える温かい光を、じっと見つめていた。
翌朝。
その日は休日特有の穏やかな空気が流れていた。中村家から、父親と思しき男性が出てくる。そしてポストを確認すると、新聞と共に入っていた手紙を見て不思議そうな顔をする。
「葵、お前に手紙来てるぞ」
リビングで水を飲んでいた少女、葵も不思議そうな顔をする。父親から受け取った手紙の表面には確かに『中村葵さんへ』という文字がある。誰からかと思いひっくり返してみると、封筒の裏面には『榎本真夏より』と書かれていた。
どくんと心臓が脈打つのが分かる。さっき見た限り切手が貼られていなかったから、直接ポストに入れたのだろう。とすれば、なぜここに真夏の名前が書かれているのか。だって、真夏はもう。
葵は自室に駆け込んだ。
タチの悪いいたずらかと思った。でも、喧嘩してなんとなく話せなくなったあの日からの後悔が忘れられず、夢中で封筒を開け、中身を引っ張り出した。
震える手で手紙を読み始める。そこには真夏がまだ生きていた時に両方言えなかった、温かい言葉が連ねらていた。いつのまにか頬に涙が伝う。そして、最後に思い出したように添えられた言葉に、一気に声をあげて泣いた。
「…ごめんね、真夏」
ほぼ同時刻。自室で読書をしていた斎司は、ふと顔を上げる。そして立ち上がると、頭を下げながら小さく呟いた。
「いってらっしゃいませ」
カスミソウ『感謝』『幸福』
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