第15話 「完全に忘れてたあああああ!」
更衣室のドアの前で睦美は一度立ち止まり深呼吸をする。このドアを開けて中に入ると同時に寄せらる視線に未だ慣れることが出来ないでいた。人の目が気になる彼女にしてみれば当然である。それでもこの先に進まなくては一日を始められないのが現実だった。睦美は意を決し、「おはようございます」と誰に向けるでもない挨拶をしながら中に入る……が、今日はそこに人の姿はなかった。
(朝の騒動でいつもより遅くなったからかなぁ……)
そんな一人だけの空間で着替えを済ませ、物言わぬ部屋の灯りを消してそっとドアを閉めた。少し遅めに入ると誰も居ないことを学んだ睦美は、明日からも人の目を避けるためにこの時間を選ぼうかと悪戯に思案しているようだった。
(――!? 勝手に人の思考を読み取らないで! 当たってるから怖いわ……)
ついさっきまで人の声に溢れていたこの通路も今では静まり返り、人の姿は見受けられない。始業時刻が目前に迫っているのだから当然ではある。睦美もそれを感じてか自然と急ぎ足で通路を進み、自分の勤務場所である営業部のドアノブに手をかけ、今まさに中に入ろうとしていた。
(あんなことがあった後だけど、秦君は大丈夫かなぁ……)
「七瀬さん、おはようございます」
「――! おはようございます。湯浅君、今日は珍しく遅いですね」
突然、背後から声をかけられ肩をビクつかせて驚いた睦美の振り返った先には、同じ営業部の湯浅が立っていた。いつもなら既に営業所内に居るはずの彼の登場に少し驚きながら挨拶を返していた。
「えぇ、朝から得意先のマネージャーに呼ばれて今帰ってきたところなんですよ」
「それはお疲れさまでした。ひょっとしてN社のマネージャーですか?」
「N社ですか、上手く濁しますね。ご名答……と言うか、この時間に平気で呼び出してくるの、あのマネージャー以外は居ないですからね」
苦笑いしながら答えた湯浅と共に睦美は部屋へと入っていった。
「「おはようございます」」
「お、二人とも来たか……さっそくだけど会議報告があるから朝礼するぞ」
部屋に入ると同時に所長の岸永が待ってたと言わんばかりに声をあげた。そんな中で睦美は、気になっていた秦の姿がいつもと変わらないのを見て安堵したようだった。
「おはようございます。さっそくですが会議報告をさせてもらいます。明日、5月1日から新しい管理システムの導入が決まっていた件ですが、予定通り試運転を開始することになったので間違えのないように再度確認をお願いします」
(在庫管理システムのやつかぁ、絶対トラブル起きると思うんだよねぇ……)
「それから、ゴールデンウィークが明けてからになりますが、兼ねてより話に出ていた研修を終えた新人の配属が正式に決まったので、教育担当を七瀬さんと秦さんにお願いしようと思います。セールスはこの後、担当する得意先の振り分けの話があるから会議室に再度集まってください」
(ん? 教育担当……そうだった⁉ 完全に忘れてたあああああ!)
「何か質問とかありますか? なければ、本日のスケジュールの確認をします。私と秦さんは得意先の同行訪問の予定なので、秦さんは相手先のアポの確認と……」
(ダメだ……全然頭に話が入ってこない。どうしよう……今日は逢澤さん達にお願いすることばっかり考えてたから。急に教育とか言われてもやったことないよぉ。先月聞いてたことを完全に棚に上げちゃってた報いなの?)
「……となってますが、他に何か報告はありますか? なければ朝礼を終わります、本日も宜しくお願いします!」
「「「宜しくお願いします!」」」
朝礼で告げられた教育担当の話、睦美は完全に不意を突かれたといった感じで上の空である。呪われてると称された誕生日に告げられた新人の話が今、彼女を悩ませる大きな種として、しばらくの休眠を終え芽吹いた瞬間でもあった。
(他人事みたいに言わないで! いや、君からすれば他人事なんだけども……)
「七瀬さん、ちょっといい? 急な話で申し訳ないんだけど……」
呆然と立ち尽くしていた睦美の前に岸永が歩み寄りながら声をかけて来た。その眉尻を下げた表情は、見るからに申し訳なさそうで今から聞かされる内容が良いものでないことは想像に難くなかった。
「はい、何でしょうか?」
「さっき朝礼で話した管理システムに関することなんだけど、議事録からその内容だけを抜粋して簡潔にまとめておいて欲しいんだけど頼めるかな?」
「それは差し支えありませんが、期日の方は何時まででしょうか?」
「出来れば今日中にお願い出来ると有難いかな……明日から使うものだからね」
「承知しました。最悪、本日は残業になっても構いませんか?」
「いや、そこまではしなくて大丈夫だよ。業務時間内に出来なかったら、続きは俺が引き継ぐから。本来なら俺がやらないといけないんだろうけど、今日は予定が詰まっててちょっとね」
こういう時の岸永の気遣いと優しさは、今に限らず睦美をどれだけ救ってきてくれたことだろう。そんな岸永の助けになれるのなら多少の犠牲も厭わないと思えるようになったのは、彼女が確実に前を向いて進んでいることの現れだ。
(そんな風に言われたら頑張るしかないじゃない!)
「お心遣い有難うございます。所長には引き継ぐのではなく、完成したものをお渡し出来るように尽力しますね」
「そう言って貰えると助かるよ。でも、くれぐれも無理はしないようにね」
「はい!」
岸永は申し訳なさそうにそう言うと、湯浅と秦の待つ会議室へと歩いて行った。
それからの睦美の行動は早かった。すぐに自分のデスクに戻り、パソコンの画面と向き合う。連休中も含めて届いている発注案件をテキパキと処理し、得意先への必要な連絡を確実にこなしていく。その間も容赦なく鳴る電話対応にメーカーへの発注依頼、見積書の作成など留まることを知らない仕事の流れの全てに対応している……その仕事に向き合う姿は、もはや別人の域である。
(ふふん! 私だって本気でやる時はこんなもんですよ!)
長年に渡り、人とのコミュニケーションを恐れ、仕事だけに集中することで自身を守ってきた睦美だったが、その結果として思わぬ副産物を手に入れていたようだ。何にしてもそうだが、物事は考え方一つで幾重にも可能性を残すものだ。決して悪い事ばかりではないことを彼女は証明してくれていた。
(――! ど、どうしちゃったの? そんなに褒められたら照れるじゃない……)
「――失礼します……七瀬さんいらっしゃいますか?」
営業部のドアを開けて経理部の柊木が恐る恐る覗き込みながら声をかけてきた。キョロキョロと辺りを見回すその姿は、小動物のようで愛らしいものがある。
「はい、ここにいますよ。柊木さん、どうかされましたか?」
「逢澤さんから経費関連の申請書の出し忘れが無いか確認してきて欲しいと言われまして……今日が月末で締め日なので」
「そうでしたか、わざわざありがとうございます。再度確認してメールで報告させて頂きますので、そうお伝え願ってもよろしいでしょうか?」
「わかりました、伝えますね。あと、逢澤さんがお昼休みに少し話したいそうです」
「では、お昼休みに経理部に伺いますので、そちらもお伝え願えますか?」
「はい! では、経理部に戻りますね」
要件を終えて足早に戻っていく柊木の後姿は、まるでお使いを終えた子供のような雰囲気があり、それが睦美の心を和ませてくれていた。
(確かに可愛いんだけど、お使いを終えた子供って……柊木ちゃんに失礼でしょ!)
こうして昼休みに逢澤と会うことが決まった睦美だったが、目の前にある仕事は待ってくれないのだ。そんな中、確実に仕事を1つずつ終わらせていく……すべては昼休みに待っている逢澤との密会の為に。
(――⁉ 密会って! 勝手にそんな関係にしないでえええええ!)
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