第14話 「残念だったね……」
部屋の掃き出し窓に掛けられたカーテンが開かれ、ベランダの向こうから差し込む朝日を浴びながら、今日も睦美の一日が始まる。その朝陽がもたらす恩恵は、世界に温かさを与え、生きるすべての動植物に必要な命の根源とも言える空気を生み出し、人には今を見据える視界と新しく一歩を踏み出す希望を与えてくれる。それは、平等に降り注ぐ天の恵みであり、人が無意識に受けている恩恵であり、今ある日常もまたその一つなのだ。
「――さっきに続いて、また大層な語りはじめじゃない……どしたの?」
『自分にもよく分からないんすけど、やっぱり視界が変わったからっすかねぇ? それに気持ちの切り替えも大切っすから!』
「そっかぁ、私もそうありたいもんだよ……よし! 今日も頑張りますか!」
そう言い放ち、気合が入った睦美は行動を開始する。今日は火曜日、彼女の変わらない日常のルーティンでは、今朝はトイレに浴室、水回りの掃除の日になる。ほとんど使用されることのないシンクは、その曇り一つない輝きで掃除の必要性を否定しているかのようだ。
「――ちょっと! 言い方! 普段から綺麗に使ってるだけでしょ!」
『でも、最近は料理してるところ見てないっすよ? いつも店屋物で済ませて……』
「うっさい! 一人だとその方が節約になることもあるんだから!」
怒っているわりに楽しそうなのは睦美の心境の変化によるものなのか、それとも孤独ではないと感じる事への喜びからなのか。どちらにしても、今の彼女には見えているのだろう……朝陽がもたらした先にあるであろう希望が。
(んー、なんか調子狂うなぁ……以前よりも人間味があるような気がする)
慣れた手付きで着々と掃除を終わらせていく。習慣化されて継続的に行うことで経験値が増え、技量があがり要領が良くなっていく。少しでも効率を考えながら頭を使い、試行と改善を繰り返すことで得る事の出来る高みと言っても過言ではないだろう。
「えーっと……ありがとう。褒めてくれて」
『……睦美さん、やっぱり自分なんか変っす。今までと違う気がするっす!』
「うん、知ってる。なんて言えばいいんだろう……今までは状況説明を楽しんでいたところあったけど、今は背中を押してくれてるみたいな感じだね……」
(まぁ、楽しんでるところは無くなってないんだけどね)
『――ひょっとして、これが噂の……』
「な、何よ?」
『恋ってやつっすか⁉』
「うん、違うよ? 残念だったね……うん、残念すぎる」
『即否定! しかも残念って……。じゃあ、何なんすか?』
「何なんだろうね。悪い事じゃないから気にしたら負けだよ?」
『そんなもんすっか?』
「そんなもんっすよ。さてと、ご飯食べて仕事行こっと」
睦美は微笑みながらそう言うと、キッチンに向かい朝食の準備を始めた。買っておいた食パンに蜂蜜を満遍なく綺麗に塗っていき、その上に冷蔵庫から出してきたスライスチーズを一枚のせてトースターに入れて焼き始めた……このハニーチーズトーストが最近のお気に入りだ。
焼き上がりを待つ間に、先に準備しておいたコーヒーをカップに注ぐ。そして焼きあがったトーストにペッパーミルを使い粗びきの黒コショウを振りかけていく。コショウは風味や香りが抜けやすいので、こうすることで一番美味しく頂くことが出来るからだ。
「うーん、これこれ! やっぱりおいしいー! 蜂蜜の甘さとチーズの味との相性が最高! そこに黒コショウの辛みがアクセントになって癖になるー」
『睦美さん、いつの間にそんな食レポ出来るようになったんすか?』
「――いや、普通に食べた感想言っただけだけど? それよりも、君こそいつの間に香りが分かるようになったの?」
『いや、全然分からないっすよ? 睦美さんが読んでたレシピに書いてたんすよ』
「……君って意外と勉強熱心だったんだね」
こうして満足のいく朝食を終えた睦美は、身支度を整えて職場へと歩みを進めていくのだった。
通勤に使用しているこの道は、いつもと何ら変わることなく人の往来を生み出している。以前に気持ちが下向きになったときは、この道を通る事さえも辛かったのだ。しかし、それも今の睦美にしたら過ぎた過去の話……前向きに変わろうとする彼女の気持ちは、周りの人目さえ気にせず乗り越えてゆく。
(いやいや、そんなに簡単に人は変われませんよ? 人の目はやっぱり怖いよ……)
黙々と歩き続けるその姿は、ここを歩く人々の作り出す波に乗り進んで行く。真っすぐ、ひたすら真っすぐに職場へと……その先に待ち受けるエントランスの先にあるエレベーターに乗り目的の職場へと。
季節はもうすぐ五月……新緑の若葉が芽生え、新しい命が芽吹く季節。睦美のこれからを見守るかのように、五月晴れの雲一つない青空がそこにあった。
「――いったいどういうつもりなんだい!」
「――! えっ、何⁉」
エレベーターを降りると同時に聞こえてきた怒号に睦美は一瞬怯み、その場に立ち尽くしてしまった。よく見ると、その通路の先で逢澤が物凄い剣幕で怒っているのが見えた……その隣には逢澤を盾にして隠れるように柊木の姿も見える。
「だから、誤解なんですって……本当に何もしてないんですって……」
「だったら、なんでこんなに柊木が怯えて困ってるんだい!」
逢澤の怒りの矛先は営業部の秦だった。どうやら柊木と何かあって揉めているようだ。被害者であろうと思われる柊木は、相変わらず逢澤の後ろに隠れたままだ。
「何度も言ってますが、本当に何もしてないんですよ! ただ、あんまり話したことがなかったから話しかけただけなんですって!」
「秦……あんたまさか、いきなり柊木に話しかけたのかい? それも一方的に!」
「そ、そうなります……そしたら柊木さんが怯えだしちゃって……」
「そりゃそうだろ! 柊木はね、コミュ障なんだよ! 怖がるに決まってるだろ!」
「す、すみませんでした! 自分、知らなかったもんで……」
「あんたは少しデリカシーがなさすぎるよ! もっと相手を気遣いな!」
逢澤が声を荒げて怒っていたのは、自分ではなく柊木の為だった。面倒見が良いとは言っても、他人の為にここまで本気で怒れる人はそうそう居ないろう。そんな逢澤だからなんだろう……柊木が絶対の信頼を寄せれるのは。
「柊木さん、本当にすみませんでした!」
秦が頭を深々と下げて謝罪をするのを見た柊木は、コクコクと小さく頷いて見せたが逢澤からは離れようとはしなかった。
他人からすれば些細なことでも、当人にとっては死活問題になることも少なからずあるものだ。睦美にも同じような経験がある為か他人事に思えなかったことだろう。
「ほら、もう分かったから営業部に戻りな。あとは私が柊木見てるからさ……」
「はい、すみませんがお願いします!」
秦は頭を下げてそう言うと足早に営業部の部屋へと戻っていった。そして、それと同時に睦美が逢澤の元へと歩み寄っていた。
「おはようございます、逢澤さん、柊木さん」
「お、睦美じゃん。おはよう! 朝から騒がしくてごめんな……柊木がさ……」
「はい、大丈夫です。私も知らなかったので少し驚いてますけどね」
「……おはようございます、七瀬さん」
(良かった、柊木ちゃん挨拶してくれた……大丈夫そうだ)
「大変でしたね、私も似たようなところあるのでよく分かります」
相変わらず逢澤の後ろに隠れたままの姿ではあるが、柊木が睦美に見せてくれた小さな笑顔は、彼女が大丈夫なのだと教えてくれるには十分なものだった。
「逢澤さん、柊木さん、仕事が終わったらお二人に相談したいことがあるんです」
「その顔……真面目な話だね?」
「はい、柊木さんの為に本気で怒れる逢澤さんだからこそ、お願いしたいんです」
この瞬間、睦美の決意は固まった。他人のことで親身になれる逢澤の姿は、今の自分をさらけ出しても受け入れてくれて必ず助けて貰えると信じさせてくれたのだ。
「そんなに可愛い声で頼まれたら断る理由はないじゃない!」
「ありがとうございます。では、また終業後に――」
そう言うと睦美達三人は、それぞれの部署へと向かうのだった。
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