22、踊り場の鏡が映し出す未来

「どうしたんだよ、ユイナ!」

 ナツキはびっくりして、私のもとへかけ寄ってきた。

「知らない自分の姿を見たいんじゃなかったのか?」

「もういいの」

 私は力なく首を振った。

 心の奥底に閉じ込めて見ないようにしてきた自分の姿を、私は知ってしまった。鏡に映してもらう必要なんかない。

 知らない自分に会ってみたいと言った私にナツキは、そんなの自分で見つけていくものじゃないのかと尋ねたが、なっちゃんの言う通りだったのだ。大階段の鏡じゃなくて、現実の体験こそが私を映す鏡だった。経験から私が何を感じるか、それこそが私自身を示していた。

 勇者のおじさんが言っていたっけ。自分の心に訊けって。教科書に書いてあることが正解なんじゃない。それを読んで私が何を感じるか、そこに答えのヒントが隠されていた。教科書は私の本質をあぶり出すリトマス試験紙でしかなかったんだ。

「ユイナ――。もういいって、なんで急によくなったんだよ……」

 ナツキは怒ったりせず、心配そうに眉根を寄せた。

「知らない方が幸せなことってあるんだよ」

 私は嫉妬する自分なんて知りたくなかった。

「怖くなったとか?」

 ナツキがさぐるように首をかしげて私を見つめる。

「そうかも」

 私は覇気のない声であいまいに答えた。

 性的マイノリティの仲間入りをしたら、お母さんが望む優等生の私からずれてしまうし、自分の未来が閉ざされたようで恐ろしい。私という真っ白なキャンバスに、黒い染みがついていることを知ってしまったのだから。

 立ち尽くす私の頭を、ナツキが優しくなでてくれた。

「じゃあせめてウチにつきあってくれよ。ウチは知らない自分を見てみたいからさ」

「やだ!」

 私は反射的に叫んでいた。

「ええっ、なんで!?」

 びっくりしてのけぞったナツキに言いつのる。

「だってなっちゃん、大階段の鏡を下見しに行くんでしょ?」

「下見……?」

 ナツキは心底わけが分からないという顔をしているが、私は名探偵のように言葉を並べ立てた。

「そうだよ。私、気付いてたんだから。なっちゃんは好きな男子に告白するための下見がしたくて、踊り場の鏡を見に行くんだって」

 そんなの、絶対についていくもんか!

 ぽかんとしていたナツキの顔が、急に険しくなった。

「何言ってんだよ! どうしてウチが男子に告白なんか――」

「だってなっちゃん、私が最後の七不思議は大階段の鏡で、鏡の前で告白すると結ばれるって話したら、急に行くって言い出したじゃん!」 

 私の指摘にナツキは黙り込んで目をそらした。どうやら図星だったようだ。

「ほら!」

 鋭く人差し指を突きつける私の顔を見ることなく、ナツキは片手で口をおさえた。

「誤解だよ……」

「じゃあなんで耳まで真っ赤になってんの?」

 私はスマホライトで彼女の横顔を照らし出した。日に焼けた頬に明らかな赤みが差している。

「いや、自分の行動が色々うかつだったっつーか」

 落ち着きなくまばたきするナツキの横顔を見ながら、こんなかわいい表情をするなんてと私の胸は苦しくなった。長いまつ毛がこきざみにふるえるのを見ていると、一生私だけの美少女でいてほしくて閉じ込めておきたくなる。

 ナツキはあちこちに跳ねているショートヘアをかき上げると、私に向き直った。

「あのさ、もしウチが誰かに告白する下見のために大階段へ行くんだとしたら、なんでユイナはそこまで嫌がるんだ?」

 そんな質問に答えられるわけがない。

「一人で行けばいいでしょ!」

 私はつんとそっぽを向いて、腰に手を当てた。

「いや、告白する相手以外と行ってもしょうがないと思うんだけど」

「だったら告白する相手と――」

 怒りのあまりかん高くなった私の声は、途中で止まった。

 同時に思考まで停止して、私は息をするのも忘れて直立不動のまま薄暗い廊下の壁を見つめていた。

 絶望のどろ沼に沈んでいた心に突然、朝日が差し込んできた――

 あまりに信じられなくて混乱する私の手を、ナツキが優しくにぎった。

「ユイナ、鏡の前で伝えたいんだ。ウチと一緒に来てくれるか?」

 手のひらから伝わるあたたかさは一年生のころから変わらないのに、私の心臓は今までで一番ドキドキしていた。

「うん」

 私は小声で、だけどしっかりとうなずいた。

 いつもはおしゃべりなナツキが何も言わずに私の手を引く。特別教室棟を抜け、下駄箱の前を歩き、大階段へと向かう。

 ちらりとナツキの横顔を盗み見る。整った顔立ちはほどよく日焼けして、凛とした美しさをまとっている。

 私たちは手をつないだまま一歩ずつ、大階段を登った。

 踊り場まで来ると、私たちはどちらからともなく足を止めた。

 大きな鏡の前で、ナツキが私に向き合う。改まった顔がおかしくて、期待に胸がおどって、私はくすぐったいような気持ちで笑い出しそうになるのをこらえていた。

「ユイナ、ずっと好きだった。ウチの恋人になってほしい」

 少しだけハスキーななっちゃんの声が、私の鼓膜を甘くなでた。

「はい」

 私は緊張した声で答えた。

「よろしくお願いします」

「いいのか、ユイナ!?」

 薄闇の中でナツキの顔が喜びに輝く。

「うん、なっちゃん。私もようやく自分の気持ちに気付いたよ」

「やったー!」

 ナツキはスタンプラリー台紙を放り投げ、私に抱きついた。

「ちょ、なっちゃん――」

 あわてて抱きとめたとき、宙を舞う台紙に押されたスタンプがまばゆい光を放ち始めた。

 私が手にしたままの台紙からも光が生まれ、私たちの身長より大きな鏡に吸い込まれてゆく。

「まぶしい」

 目を細めた私は、鏡自体が光っていることに気が付いた。

「ユイナ、あれ、大人になったウチらじゃないか?」

 ナツキが指さす鏡の中には、光が燦々さんさんと降りそそぐ砂浜と海が映っていた。手をつないで幸せそうに歩いている二人が自分たちの未来の姿なのだと、なぜか私は直感で理解した。

「どこか海外のビーチなのかな」

 私は青空にきらめく海に目を細めた。並ぶパラソルの下、ビーチチェアで寝そべる人々は外国の人が多いようだ。

「ウチら、楽しそうだな」

「うん、満たされた顔してる」

 現実の私たちも顔を見合わせて笑った。

 まるで空にかかった虹が薄くなっていくみたいに、鏡が見せた幻は白い光にとけ消えていった。

「帰ろっか」

 私はナツキの手をにぎりなおした。

「そうだな。ウチの大切なお姫様をちゃんと家まで送り届けなきゃ」

「もう何言ってるの。なっちゃんこそ私の大事なお姫様なんだよ」

 笑って階段を下りながら私は尋ねた。

「ねえ、なっちゃん。いつ私を好きになってくれたのか、訊いてもいい?」

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