20、人体模型と骨格標本の謎を解こう!
「血ってもっとドロっとしてて、赤黒くないか?」
ナツキの落ち着いた声に、私は冷静さを取り戻しつつあった。片目でちらりと廊下を見下ろすと、スマホライトの輪の中には、血液よりずいぶん薄い赤色をした水たまりが浮かび上がっていた。
「確かにピンクっぽいね」
見覚えのある色合いだが、どこで見たんだろう?
「それにさ――」
恐れ知らずのナツキは、ひょいとしゃがみ込んで得体の知れない水たまりに顔を近づけた。
「なんかいいにおいする」
「やめなよ、なっちゃん。危ないよ」
理科の実験では、化学物質のにおいを
「危なくないよ。石けんみたいなにおいなんだから」
しゃがんだまま私を振り返ったナツキと目が合う。
「石けん――」
私はナツキの言葉を繰り返した。なんだっけ、最近塾で習った覚えがあるんだ。薄い赤色の液体も教科書で見覚えが――
「分かった!」
私はまた高い声を出した。
「これ、フェノールフタレイン液だよ!」
「フェ、フェ、フェロモンに豚の駅?」
混乱しているナツキに私はまた解説した。
「塾で習ったの。フェノールフタレイン液はアルカリ性だと赤くなる指示薬なんだよ」
学校の理科ではまだ勉強していない範囲だから、ナツキが知らないのも無理はない。彼女は狐につままれたみたいな顔で、ピンク色の水たまりを指さした。
「つまりこの水が、アルカリ性ってことなのか?」
「そ。石けん水はアルカリ性でしょ? だからいいにおいがするんだと思う」
「なるほどなあ。石けん水は分かったけどさ、そのフェ――なんちゃら液ってのも、ええ食反応みたく理科室にあるもので作れるっつーか――」
「炎色反応ね」
言い直した私はナツキが訊こうとしている内容に気が付いた。
「そっか! オバケが私たちを近づけないように、理科準備室の道具や薬で邪魔してるんだ!」
「やっぱりユイナもそう思うか。ウチらをわざとビビらせてるんだよ」
ナツキは廊下に広がった液体をうわばきで踏みながら、理科準備室に向かって進み始めた。
「こんなことでウチらは引き返したりしないぞー!」
その声に答えるように、今度は廊下に霧が立ち込め始めた。
「くそっ、ただでさえ暗いのに前がよく見えない! ブクブク変な音もしてるし!」
ナツキが両手で霧を払おうとするが、効果はない。だが今回のからくりは簡単だ。
「多分ドライアイスを水につけて煙を発生させてるんだよ」
「ドライアイスって吸い込んだらヤバいのか?」
ナツキは避難訓練のときみたいに鼻と口を手でおおった。
「ドライアイスは二酸化炭素を冷やして固めたものだから大丈夫」
私の答えに安心したのか、口から手をはなしたナツキは、
「でも煙の中でも息できるぞ? ウチらが吸うのが酸素で、吐くのが二酸化炭素だったよな?」
不思議そうに首をひねった。
私はずいぶん前に読んだ、通信教育の付録教材に書いてあったことを思い出して説明する。
「この霧は単に水が冷やされて水蒸気になっただけだから、二酸化炭素そのものじゃないんだよ」
「ふーん?」
いまいち納得していないようだが、ナツキはそれ以上質問しなかった。私たちの目の前には、いよいよ理科準備室の扉が現れたからだ。
「ユイナは下がってな」
ナツキが手のひらで、そっと私を押した。
「どうして?」
「ウチだったら絶対ドアに何か仕掛けるから」
なるほど。納得した私は後ずさり、ひんやりとした廊下の壁に背中をつけた。私が見守る中、霧に煙るとびらをナツキが開け放った――と同時にうしろに飛び、私のとなりに並んだ。
霧の中、開け放たれたドアの上から落ちてきたのは、ひもからぶら下がったホルマリン漬けの瓶。私がドアを開けていたら、おでこにぶつかっていただろう。
ナツキがもう一度ゆっくりとドアに近づき、
「豚の胎児の標本って書いてある」
瓶のラベルを読み上げた。
「豚の赤ちゃん、安らかに眠ってね」
私は手を合わせてから、思わずため息をついた。
「私たち、本当に歓迎されてないね」
「そうだよ!」
答えた声はナツキのものではなかった。甲高い声がした足元を見下ろすと、
「ミニサイズの人体模型!」
驚いて固まる私の足元へ、ちっちゃな模型がわらわらと集まってくる。
「きみたち来るの早いよ!」
「もうちょっと待たなきゃだめ!」
「今いいところなのに!」
口々に文句を言って、私とナツキを止めようとする。
「確かに、いいところだな」
しみじみとうなずくナツキの視線を追って、私は思わず赤くなった。うっすらと透けるドライアイスの霧の向こうで、二人の人物が抱き合ってキスをしていたのだ。
「パパたち今、秘密の時間なんだよ」
ちっちゃな人体模型の一人が、小声で教えてくれる。
「もしかして理科準備室の七不思議の謎は、人体模型と骨格標本が恋人同士ってこと?」
私が尋ねると、ナツキが付け加えた。
「恋人関係から発展して結婚してるんだろ? だからきみたちはパパって呼んでる」
ナツキの言う通りだろう。小さな人体模型たちは胸を張った。
「そうだよ。自慢の優しいパパなんだ!」
どうやらまたナツキが謎を解いてしまったようだ。
「これでついに六つのスタンプがそろうね!」
私は期待のまなざしを手元の台紙に落としたが、六つ目の白い枠は空白のままだった。
「パパたちの謎を解いたつもりかい?」
足元からクスっといじわるな忍び笑いが聞こえた。
「人体模型と骨格標本が夫婦だって当てたじゃない」
私が口をとがらせると、
「まだまだ」
小さな人体模型が全員いっしょに首を振る。
「えー、ひとだまが炎色反応だっていうのも、血の海がフェノールフタレイン溶液だっていうのも当てたのに?」
「まだだめだね。パパたちの本当の秘密にはふれていないもん」
「本当の秘密?」
私はオウム返しに問い、霧の向こうに浮かぶ人影を見つめた。二人は月の見える窓ぎわで仲むつまじく過ごしている。ナツキは二人の様子をじっと見つめ、何かを考えているようだ。
私が今までに解いた謎は音楽室のみ。先を越されず答えにたどり着きたい!
足元にわらわらと散らばるミニサイズの人体模型は、班ごとに使うからたくさんいる。
「人体模型と骨格標本の夫婦には子供がいっぱいいるってこと?」
あてずっぽうで質問すると、
「そんなの見ればわかるんだから謎でもなんでもないじゃん」
正論で返された。
「バカな人間!」
幼児のようにかん高い声で言われると、より一層腹立たしい。悔しさに歯を食いしばりながら、私は考える。
窓ぎわの人影を見つめていたナツキが、足元の子供たちに視線を落とした。
「君たちはパパのどんなところが好きなんだい?」
「僕たちを子供にしてくれたことさ!」
おチビさんたちは声をそろえた。子供にしてくれたってことは――
「きみたちは人体模型から生まれたわけじゃないんだ」
私が自信をもって言い当てると、
「僕たちは工場で作られたに決まってるじゃないか!」
また現実的な答えが返ってきた。
「そこにぶら下がった豚の標本みたいに、母親のおなかから生まれるとでも思っていたのかい?」
そんなこと言うなら、そもそも工場で作られた標本がしゃべるわけないじゃない。
私が無言で目をすえていると、
「バカな人間!」
また幼児みたいな声で笑われた。ああ、もういちいち腹の立つ!
一方ナツキは、まるで本当の子供をかわいがるみたいにやわらかい笑顔を浮かべ、
「そうかそうか、優しいパパなんだね。ウチらにも紹介してくれよ」
とチビスケどもに頼んだ。
「えー、どうしよっかなー」
ミニサイズの人体模型たちはみんなで小さな頭を寄せ、話し合っているようだ。
「なあ、呼んでみてくれないか?」
ナツキが人なつっこい笑みを浮かべてお願いする。
「できればウチらもきみたちのパパにあいさつしたいんだ」
「仕方ないなあ」
「パパたちそろそろデートも終わったみたいだし」
「いいだろう」
チビどもは偉そうにうなずくと、みんなで高い声をそろえた。
「パパー!」
子供たちの声に気付いて、窓ぎわに寄り添っていた二人が振り返った。
「なんだい?」
「どうした?」
人体模型と骨格標本が同時におだやかな声で答えた途端、ナツキの自信に満ちた声が響いた。
「わかった。謎は解けたぞ」
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