17、音楽室の七不思議の謎が解けた!
「ええ、どうぞ」
お姉さんは快く許してくれたので、私とナツキはピアノの前へ駆け寄った。許可なくピアノのいすに座ったナツキが、
「音符と英語しか書いてなくて分かんねえや」
と、ぼやく。
「これ、英語じゃないよ」
アルファベットで記されているが、theもなければisもない。習ったことのない単語ばかりが並んでいるのだ。
「歌詞が書いてあるってことは、歌の伴奏ってことだよな」
ナツキがなかなか鋭い指摘をした。うなずく私に題名を指さし、
「なんて書いてあるんだ?」
と尋ねる。
「私だって読めないよ。何語か分かんないし……」
「ユイナでも分からないことがあるんだな」
当たり前でしょ、と答える代わりに、私は題名の右下に小さく書かれたアルファベットを指さした。
「多分これが作曲家の名前。
「ないよ」
あっさり返された。私は無視してさらに楽譜を調べる。
「あ、題名の下に『
「ユイナ、英語じゃなくても読めるじゃん。やっぱりすごいな」
「ローマ字読みしただけだよ」
作曲家ヴェルディの名前と同様、知っている言葉だったから察しがついたのだ。
ナツキがふと譜面台の横に重ねられたほかの楽譜のコピーに視線を向けた。
「なあユイナ、こっちの楽譜も同じ作曲家で同じ副題がついてるぞ」
「本当だ」
楽譜の束を手に取って眺めていると、
「今井さん、弾いてみたら?」
お姉さんから声がかかった。
「えっ、弾けるかな」
音楽教室では初見で弾く訓練もたくさんしているけれど、いま私の手に乗っている楽譜にはシャープが五つもついていて難しそうだ。
「ユイナなら弾けるって! ウチ、聴いてみたい!」
ナツキが無邪気にはしゃいでいすから立ち上がり、私を座らせた。
「ロ長調かぁ」
私はしぶしぶ楽譜に向き直った。黒鍵が多い調なのは面倒くさいが、楽譜をよく見ると曲自体は分かりやすいものだった。
ナツキが横からスマホのライトで楽譜を照らしてくれる。
私は楽譜を目で追い、両手でゆっくりと弾き始めた。音楽室に私の弾く、もっさりとしたピアノの音色が流れ始める。お姉さんの聴かせるはつらつとした音色とはずいぶん違って恥ずかしい。
「すげー! ユイナ、楽譜見ただけで弾けるのか! 天才だ!!」
だがナツキはとなりで私をほめたたえてくれる。実はオクターブなどミスタッチしそうな音は抜いているのだが、ナツキは気付いていないようだ。
私は前奏を弾き終わったところで演奏を止め、ナツキを振り返った。
「この曲、聞いたことあるよね?」
「ないな」
またあっさりと返された。
「私は聞き覚えがあるの。どこで聴いたんだろう」
記憶をたどりながら右手で歌の旋律を、左手で伴奏を簡単にアレンジして弾いてみた。
「あ、分かった」
快活な歌のメロディが私の記憶を呼び起こした。
「これ、うちにあるテノールアリア集っていうCDに入ってる曲なんだ」
私は自分の言葉にハッとした。
「もしかして――」
テノール歌手といえば、身近に思い浮かぶ人物は一人しかいない。私はお姉さんを見上げ、恐る恐るその人物の名前を口にした。
「まさかツル
「おめでとう。当たりよ」
お姉さんはツル
「ごほうびにスタンプをあげましょうね」
お姉さんが空中で指先をくるくると動かすと、ピアノの上に置いてあったカードに金色の星くずが降りそそいだ。
「わぁ、かわいい。ト音記号のスタンプだ」
初めて私が自分で解いた謎だ。誇らしい気持ちで台紙を見つめていると、ピアノの横に立っていたナツキが、
「そっか」
とつぶやいた。
「ツル
「あ」
私も小さく声を上げた。お姉さんが教えてくれた、三十年前にオバケになったという情報は、確かにヒントだったのだ。
お姉さんは悲しそうに眉尻を下げ、だが口もとにはほほ笑みをたたえて静かにうなずいた。
「ええ。私がこの世を去ってから、あの人はずっと一人を貫いているの」
「マジか……」
ナツキが感心したような声をもらす。
「だから私も鶴岡くんが心配で、空の上へあがるわけにいかなくてね」
口調こそ仕方ないと言わんばかりだが、お姉さんの表情はやわらかかった。
「いつも鶴岡くんのそばにくっついて、ずっと地上で待っているのよ。あの人がいつの日か体を脱ぐのを」
「ううっ」
となりからむせび泣く声が聞こえてギョッとする。ピアノのいすに座ったまま見上げると、ナツキが手の甲でごしごしと涙をぬぐっていた。
「早く一緒になりたいよな」
「優しいのね、島本さんは」
お姉さんはふわりと笑った。
「平気よ。肉体から離れると時間の感覚もおぼろげになるから」
その言葉を体現するように、お姉さんは音楽室の中を漂って見せた。クラゲのように広がる白いロングスカートの下から足がのぞかないことに気がついて、私は少しゾッとした。
「鶴岡くんには私の分も、この世を楽しんでほしいと思っているの」
「生きてるって楽しいことばかりじゃないけど」
私がうっかり心の声をもらしたら、
「そう思うでしょう?」
いきなり目の前に現れたお姉さんにのぞきこまれてしまった。心臓に悪いからやめてほしい。
「私も生きていたときは毎日練習に追われ、コンクール結果に一喜一憂して神経をすり減らしてばかりいたわ。でも命が終わるとすべていとおしかったと気付くのよ」
お姉さんは両手を胸の上で重ねて、そっと目を伏せた。
「私の魂は、悲しみも苦しみもすべてを味わうために、肉体という器の中に入ったんだなあって思い出したの」
そんなものだろうか? 半信半疑なのが顔に出ていたのか、お姉さんがふふっと笑った。
「体から離れると生まれる前の気持ちを思い出すのね。空の上では満たされていてどこまでも平和だったけど――」
ここでも出た、空の上の話!
「――私は歯を食いしばって悔しがったり、夢を追い求めて必死で努力したりする経験に憧れていたんだなあって」
「でも」
とナツキが口をはさんだ。
「道
質問しにくいけれど気になる話題に正面から切り込んだ。
「私のしたかった経験は全部できたのよ」
お姉さんのおだやかな口調は変わらない。
「道
「死ぬって夢から覚めちまうみたいなもんかな?」
ナツキはちょっと首をかしげながら言葉を続けた。
「この間ウチ、新しいゲーム機を買ってもらう夢を見たんだ。けど目が覚めたらさ、当たり前だけど机の上にもランドセルの中にも、そのゲーム機はなかったんだよね」
「そうね」
お姉さんは満足そうにうなずいた。
「魂が仕事を終えた体から離れるときっていうのは、まさしく夢から覚めたみたいな感覚ね。でも目が覚めたあとも、ゲーム機を買ってもらった喜びは残っていたでしょう?」
「そうなんだよ! よっしゃあってガッツポーズ取った感覚がリアルだったからウチ、起きてから本当に自分の部屋を探しちゃったんだ」
ナツキは夢の中で感じた興奮を思い出したのか、両手のこぶしを握りしめている。
お姉さんは優しく、うんうんとあいづちを打った。
「同じように、肉体の時間が終わっても、感じた思いは魂に刻まれて残っているのよ。楽しかったこと、つらかったこと、嬉しかったこと――」
お姉さんは離れたスクリーンに映る映画を眺めるように、どこか遠くを見つめていた。
「だからあなたたちも精一杯生きていろんな体験をして、たくさん感じてね。この世では苦しかったり悲しかったりすることも、魂に戻ったときにはかけがえのない経験だったって気づくから」
「はい」
私は神妙な面持ちで返事をしてしまった。だがナツキはまた柄にもなくめそめそとし始めた。
「でもウチは好きな人と離れ離れなんて耐えられないよ。死んでから貴重な経験だって気づくとしたって」
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