08、体育館に現れた勇者

 虫の声だけが聞こえていた渡り廊下に不規則な雑音がじる。誰もいないはずの体育館で響くボールの音だ。

 私とナツキは忍び足で電気の消えた体育館へ近づく。月明かりが淡く差し込み、私たちの影をおぼろげに床へと投げかけていた。

 大きな扉のすき間からのぞき込むと、薄暗い館内が目に入った。

「誰かいる」

 私がささやくと、

「いるのかよ。誰もいない体育館でボールの音だけ聞こえるから怪談になるんじゃないのか?」

 ナツキがうしろから覆いかぶさるようにして私の頭の上にあごを乗せながら、声をひそめて叫んだ。

「うわ、本当だ! 変な恰好したオッサンがいるじゃん!」

 塾の谷ちゃん先生より若いからおじさんではないと思う。でも高校生のお兄ちゃんより年上に見える。

「大学生くらいかな?」

「さあな。夜の小学校に侵入してるし、異世界物の勇者みたいなコスプレしてるし、今度こそ通報案件だったりして」

 見慣れない服装だと思ったらコスプレイヤーなのか。男は腰下あたりまでが隠れる短めのマントを羽織り、ベルトから剣を下げていた。私はすぐうしろにいるナツキの薄いタンクトップをつかんだ。

「怖いよ、あの人。銃刀法違反だし」

「コスプレだから本物じゃないって。ただの中二病のオッサンだよ」

「でも何かブツブツつぶやいてる」

 男はボールを片手に乗せたまま一点を見つめて一人でしゃべっているのだ。薄気味悪いが、集中していることは間違いない。体育館の中に入ってよいものか迷っていると、彼の手のひらから突然ボールが浮かび上がった。

「やった! 風魔法、成功したぞ!」

 だが彼が叫んだ途端ボールは床に落ち、ボンボンと音を立てて跳ねた。

「くそっ、失敗か」

 彼の悔しそうな声を聞きながら、私とナツキは体育館の外で顔を見合わせた。

「魔法の練習してた?」

 信じられない気持ちで、私は今見たことを口にした。予備動作も何もなく確かに一瞬、ボールは浮き上がって見えた。

「ぐぬぬ、コスプレ野郎のくせに!」

 なぜかナツキは歯を食いしばっている。

「ウチだって魔法使ってみたい!」

 うらやましかったのね、と納得したときには、ナツキは扉を開け放って体育館にかけこんでいた。

「今のどうやったんだ? きみ、魔法が使えるのか?」

「うおっ、なんだこんな夜中に!」

 男はあとずさり、床に転がったボールを踏んでひっくり返った。

「危ねえ! 何しやがる!」

「ウチらはなんにもしてないよ」

 落ち着いた声で答えるナツキを見上げて、男は悪態をついた。

「お前らガキのくせに、なんでこんな時間に学校にいやがるんだ」

「きみこそどうみても部外者のくせに――」

 ナツキが言い返す前に私はスタンプラリーの台紙片手に走り寄った。

「私たち、知らない自分に出会うために七不思議めぐりをしてるんです」

「大階段の鏡のやつか? まだそのうわさ、続いてるんだな」

 ボール片手に立ち上がった男の言葉に、私は気が付いた。

「もしかしておじさんも三日月小学校に通っていたんですか?」

「俺はおじさんじゃねえ。まだ二十歳はたちそこそこだ」

「ええっと、お兄さんもこの学校の卒業生ですか?」

 私は慌てて言い直した。少しでも話をしてもらって、謎の手がかりを見つけたい。

「卒業はしてねえけど小六の途中までは通ったぞ」

 六年生の途中で何か事件が起こって、彼は七不思議の幽霊になってしまったのだろうか? 私が頭の中で仮説を組み立てていると、ナツキがけろっとした調子で言い当てた。

「分かったぞ。小六の途中からはひきこもりだな?」

「違ぇよ」

 コスプレ勇者は小さな目に怒りをこめてナツキをにらんだ。

「ドッジボール大会の帰り道、かわいそうに疲れ果てていた俺は交差点を曲がってきたトラックに気付かなくて、はねられて天に召されたのさ」

「トラックなあ」

 ナツキは腕組をして何やら考えている。トラックが謎を解くカギになるのだろうか?

 だが私も運動神経がにぶいので、謎を解くより男に同情してしまう。

「ドッジボール大会、嫌だよね。あんな残酷な競技やめたらいいのに」

「お、分かってくれるか?」

 男はにやりと笑って身を乗り出した。

「あいつら俺が足を引っ張ったとか言いやがってよ。『お前がいなけりゃうちのクラス、優勝できたのに』だって。本当に足を引っ張るってのはどういうことか、プールで知らしめてやったけどな」

 え? プールで? 四番目の七不思議が「水の中に引きずり込まれるプール」なのだが、何か関係があるのだろうか?

 混乱する私をナツキが抱き寄せてくれた。

「ユイナは今年の大会でもまったく足手まといなんかじゃなかったよ。ちゃんと活躍してた」

 いや、一切活躍していない。というか運動神経がにぶい私めがけて敵クラスがボールを投げてくるのを、ナツキが全て防いでくれただけだ。つねに私の前に立ち、私のところに来たボールを取り、投げ返してくれた。そのおかげというより、そのせいで私とナツキは最後の二人になって残ってしまったのだ。

「か弱いユイナにボールを当てようだなんて万死に値するからな」

 鼻息荒くナツキが言い放った。現在の私はか弱くなんてないのだが、ナツキと出会った小一の頃は体が弱く、しょっちゅう学校を休んでいた。ナツキは今もその頃の私を覚えているのかもしれない。

「いつも守ってくれてありがとね」

 ナツキの二の腕にこめかみを寄せてお礼を言うと、

「お互い様だろ。ユイナだってウチに勉強教えてくれるし」

 ナツキはカラッと笑った。

「でもなっちゃん、六年生から塾に通い始めたから最近は私、教えてないよ」

「そうか? 一学期最後のリコーダーのテスト、ユイナが全部楽譜にカタカナでドレミを書いてくれたから、ウチ合格できたんだぜ。じゃなけりゃ『ツルせんリサイタル』を受ける羽目になってたよ」

 ツルせんリサイタルとは音楽の鶴岡つるおか先生が放課後に行う補習授業だ。リコーダーや歌など実技のテストに不合格だと、強制的な音楽鑑賞会が待っている。えんえんとオペラのCDを聴かされるらしいのだが、問題はCDをかき消す爆音でツルせん自身が歌い上げることだ。

「つらいらしいね、あれ」

 視聴覚室で行う英語クラブの時間、同じ四階にある音楽室から聞こえてきた苦しそうなテノールを、私は思い出していた。

「つらいかね? 俺くらったけど、音楽室で聴くにはちょっとうるせえだけで、いい声だったぜ」

 コスプレ勇者は音楽のテストで落第点を取ったことがあるようだ。

「いやいや」

 ナツキがすぐに反論した。

「放課後の時間を奪われるからクラブ活動も委員会活動も出られないし、理解できない言語で揺れまくった大声を一時間以上聴かされるのは苦しいだろ」

「揺れまくった大声? ツルせんってあいつだよな、禿げてる音楽教師」

「そうだよ。高音が特にきついってみんな言ってるよ」

 ナツキの言葉に私は、はたと気が付いた。

「多分、彼が小学生だったころはツルせん、まだ声が出たんだよ」

 ツルせんはいつ定年になるのかとうわさされるベテランの先生だ。

「私のお母さんが学校からのお便りに載ってたツルせんの経歴を見て、有名な音大出てるって言ってたの。きっと若い頃は将来有望なテノール歌手だったんだよ」

「髪の毛と一緒に声も失っちゃったのかな」

 ナツキが失礼なことを言うと、

「モテなくて焼きが回ったんじゃね?」

 コスプレ勇者が輪をかけてひどい発言をした。

「あ、あいつ三十年、恋人がいないって言ってたよ」

 しかもナツキがそれを裏付ける。元気なグループの女子たちが独身のツルせんに「彼女いないのー?」などと訊いたとき、先生が「三十年前まではいた」と答えたのは私も覚えている。

「うわー、あいつまだひとりなのか。かわいそうなやつ」

 コスプレ勇者がいじわるな笑い方をしたので、私は先生が気の毒になった。

「きみだって小学生で死んじゃったんだから、恋人なんていたことなかったでしょ」

「いや」

 否定したのは男ではなくナツキだった。

「こいつは死んでない。まだ生きてるよ」

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