生き写しの君だから
狂酔 文架
僕は自殺を試みた
天井から垂れ下がったロープが、僕のほうを見つめている。
いつ死ぬんだ。そう問いかけているのだろうか。
天井からロープをつるしたのは僕自身、僕は今、この人生に終止符をつけようとしている。
疲れてしまったのだ、自分自身の人間性に。どこまでも人のために生きて、もはやその理由すら忘れ、ただひたすらに自分は奴隷だと言い聞かせることに、僕はもう疲れてしまった。
僕を後押しするように、窓から入ってきた風が、そっと僕に触れていく。
通り抜けた風たちまで、僕に死を求めてくる。
死のうとしているのは自分だ、これ以上に好ましいことはない、もう何も悩まなくていいんだ、ただあのロープに首をはめれば、数分で僕は無になれる。
奴隷にならなくていいんだ、もう何も考えなくていい、みんなの幸せのためだなんて言って、無理やり笑わなくていいんだ。さっさと首をはめてしまおう、そうするだけで、全部終わる。
窓の外では降り出した雨が、僕の自殺に拍手を送ってくれている。
勢いよく降りしきりながら、うるさいほどの喝采が窓越しに僕の耳に入る。
—よし、死のう。
決心はついた。もう迷わなくていい、あとはあの椅子の上に上がって、ただ首をはめるだけだ。
心の中でけじめをつけ、足を自殺台に向かわせようとすると、足が震えだす。
ぶるぶるとその存在を主張するように震えだす、生きている証明を、死に際まで果たそうとしてくる。
死ねば終わる……もう何も考えなくていいんだ。そう思い込んで震える足を無理やり動かす、生きた足を、死へと無理やり近づかせる。
目の前に現れた椅子に上がろうとすると、より一層足が震えだす、足だけじゃない、全身鳥肌が立ち、腕までぶるぶると震えだした。
やっと思いで椅子に上っても、震えだしたてのせいで、垂れ下がるロープをつかめない。
死に際になって僕はやはり、生きたいのだろうと考えてしまう。
結局のところ、自分自身にいやになっても、心のどこかで、僕は生きようとしているのだろうと。
でも、どうせここで生きながらえたところで、この先に待つのはいつもと同じ奴隷を求める自分自身。
他人のために生きようとして、自分を捨てる化け物だ。
死んでしまえば、もう何も考えなくていい、死んでしまえば、生きたことすら忘れられる、死んでしまえば、自分自身を捨て去れる。
そう心に言い聞かせると、気が付けば手の震えは収まっていた。
ーようやく死ねる、これでやっと、楽になれる。
心の中でそう安堵して、ロープに首をかけようとした時だった。
いまだ降りしきる拍手の中、あかないはずの家の扉が、ガチャリと開いてしまった。
泥棒か家族だろうか、確率が高いのは家族のほうだが、連絡もなしに来られて僕の自殺を止められるのも面倒だ、どうでなら泥棒のほうが楽だ、僕は自殺さえ見過ごしてもらえれば、あとはもう好きにしてもらおう。
「ただいま」
耳に入ったのは、聞こえるはずのない声。
聞こえてはいけない、僕にそっくりな僕自身の声だ。
でも、僕はここにいる、今ここで自殺を試みている。僕の『ただいま』なんて声は、聞こえるはずがないのだ。
僕は聞こえた声にすこし驚きながら、あいた扉のほうに目をやると、現れたのはどこか見覚えのある姿。
何度も鏡越しに目に入れた、自分自身の姿だった。
ドッペルゲンガー……、脳裏に浮かんだのは都市伝説のはずのモノだった。
自分自身と同じ顔、自分自身と同じ姿、自分自身と同じ声、いるはずがない、そう思っても、今こうして僕の耳に入り、僕が目に移したのは、僕自身のモノだった。
ドッペルゲンガーと会うと死んでしまう。子供のころからよく聞いた誰でも知ってる有名な都市伝説。
つまり、僕がここで死ぬのは、決定事項ということだ。
もしかすると僕を迎えに来てくれたのだろうか、今こうして死のうとする僕を、安らかに殺そうとしてくれているのだろうか、それならば、それ以上にうれしいことはない。
ロープにかけようとした首を外して、ドッペルゲンガーと顔を合わせようとすると、目の前の自分が言ったのは予想とは真逆の言葉だった。
「なんで死のうとしてるの?」
声をかけたのは、僕自身のはずだった、でもそいつは、自分の顔を隠すように仮面をかぶって、まるで僕が死ななないように、配慮しているようだ。
僕を殺しに来てくれた、なんて嬉しい考えは、目の前の自分と一緒に家に入り込んできた風に簡単に吹き飛ばされてしまった。
「僕の人生はそんなにつらい?」
僕に問いかけている言葉、しかし、はなたれしまった『僕の人生』という言葉に、僕は開いた口がふさがらなかった。
ドッペルゲンガーだとわかっていても、その事実が姿を手に入れ現れると、僕はあまりにも突飛なその事象に、驚愕してしまった。
「首つり自殺……か、その割にはロープは適当につるしてあるし、死ぬの怖がってるのがみえみえだよ。僕」
仮面の先から紡がれる言葉は、僕に対してのもので、紡がれたそれは、どうしようもない事実だった。
ボクの言うとおりだ、たぶん僕はこのままこのロープに首をかけても、死ぬことはできていない。
ロープに首をかけて椅子を蹴り飛ばした瞬間に、ロープと一緒に床に落ちて終わりだろう。
僕はそもそも、自殺なんてできていないのだ。死ぬ勇気など……なかったのだ。
「他人のために生きる……辛いよね、僕にはよくわかるよ、その気持ち。
どれだけ優しくして、どれだけ他人のために生きても、自分を救ってくれる人間が現れないんだ、そりゃあ死にたくもなるよ」
仮面をつけたボクから放たれたのは、僕が胸に隠していた、どうしようもない本心だった。
他人にやさしくするたびに、自分を犠牲にするたびに、僕はいつからか、僕を救ってくれる救世主を探していた。
僕は自分自身を犠牲にするたびに、他人のために行動するたびに、僕の心がすり減るたびに、僕は救いを求めていた。
「でも、怖いんでしょ。結局そんな自殺台なんだ、死ぬときも助けを求めたかったんだろ?君は」
僕じゃないボクに語られる僕の思い。完璧に僕の心を読んでいて、僕をわかっていて、僕を助けてくれようとしている僕自身の言葉、僕の目の前に立っているのは、どうしようもないほどの救済者だった。
「なんで……なんで、僕が、僕が助けて……僕は僕だけじゃ……ないんですか」
震える声で、あふれ出そうとする涙を、抑え込みながら言葉を吐いた。
頭に残る疑問を、どうにか涙をかき消そうと、僕は話をそらそうとした。
「泣いてもいいんだよ。もう君は十分頑張ったんだ、泣いてもいいよ」
僕の言葉を聞き入れることなく、涙を抑える僕を許すその言葉をボクが吐いた瞬間、僕は椅子を飛び降りてボクに抱き着いた。
久しぶりに、僕は僕のやりたいことをした気がした。
プライドなんて、他人なんて、自殺なんてもうどうでもよかった、ただ僕はこうして泣きたかったのだ。誰かの胸の中で、僕は救われたかったのだ。
「なんで……なんで……」
あふれる涙を流しながら、震えるどころかもはや言葉にもできない声を絞りだして、僕はボクに問いかけた。
「僕は君だからね」
たった一言、それだけだった。
優しい声で、僕の耳元で、僕を包み込んだまま、泣き止まない僕に、ボクはそう言った。
僕が心の中でいつも叫んでいたSOSに、ボクは駆けつけてくれたのだ。
「もう君は生きていいんだよ、自分のためにね。もう十分頑張った、君が助けた他人の百倍は頑張ってるよ、だからもう君は生きていいんだ、君のために」
優しくささやかれる僕の求めていた言葉は、ボクによって吐き出された。
その言葉を聞いた瞬間、自殺なんてしようとした僕が馬鹿みたいに思えた。
もう生きていい、僕のために生きていい、その言葉に、ぼっくはどうしようもないほどに救われた。
「ありがとう……ありが……とう」
それしか言うことができなかった、少し落ち着いた涙を拭きながら、少し詰まった喉から言葉を押し出した。
「僕なんだから……当然でしょ?」
仮面で見えないはずの表所が、僕の目には映っていた。
優しい微笑みが、僕の目には確かに映った。
「さあ、もう生きられるかい?僕のために、君のために」
スっとボクは立ち上がると、そう言って僕を指さした。
大丈夫だ、僕はもう救われた、僕はもう生きられる。
僕は強くうなづいた、少し赤くなったままの目元を日の光にあてながら、僕はしっかりとうなづいた。
「よし、じゃあ僕の役目は終わりだ。じゃあね僕」
そうボクが言った瞬間、止まった涙がまたあふれ出した、まだ、行ってほしくなかった。
そんな僕の気持ちは知らずに、ボクはそういうと、玄関のほうに振り返って、扉を開けてこう言う。
「行ってきます」
待ってほしくて、もっと話したくて、追いかけようとしても、足が思うように動かない、震えた足を無理やり動かそうとしたツケが、今になって回ってきた。
「待って!! もっと話して……もっと聞いて!! おいていかないで……」
その言葉を言い終わるころには、ボクはもうこの家を後にしていた。
玄関に投げ捨てられた仮面は、まるでボクがいなくなってしまったと言っているような気がして、もういないという虚無感が、僕を襲った。
ボクを探すように玄関の扉を開けると、透き通った青色の晴天と、空には虹が浮かんでいた。
七色に輝く虹を目に入れると、僕の言葉が脳裏に浮かんだ『行ってきます』、あの虹を渡って、ボクはどこかへと行ったのだろう。
僕を救ったボクは、またどこかへと足を踏み入れたのだ。
虹に僕の落とした仮面を掲げて、後を追うように僕も言う。
「行ってきます」
僕も生きよう、僕のために。
そう胸に誓った瞬間、僕の掲げた仮面は消え去った。
生き写しの君だから 狂酔 文架 @amenotori
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