巡り会う者

 幻の巻。

 光源氏の最愛の妻、紫の上が亡くなって、年が明けた。彼は、自分を訪ねる客にも会わずに引きこもっている。

 紫の上の世話をしていた女房と話していても、やはり紫の上の話になってしまう。彼女は、光源氏が他の女性と過ごすうちに、段々と精神を病んでしまった。どうして紫の上に寄り添ってあげられなかったのか。後悔しても、妻は戻ってこない。

 光源氏が別の女性と結婚した日、雪の降る夜明けのこと。紫の上は、彼を温かく出迎えてくれた。その袖が、涙で濡れていることを必死に隠し、寛大なる妻でいることに尽くした。

「まあ、随分と雪が積もったものですね」

 女房の声を聞いて、あの夜明けのことを思い出す光源氏だったが、隣に最愛の妻はいない。

 春も深まり、夏が過ぎ、そのまま、紫の上が亡くなった秋を迎えた。

 その頃から、光源氏は出家を考えていた。そのため、出家を妨げるような手紙は処分していたのだが、紫の上からの手紙は別に保管してあった。それを見ると、まるで、たった今書かれているかのように、文字が生き生きとしていた。

 しかし、出家すれば、二度と見ることはない。女房に命じて、その手紙を破らせてしまった。

 破った手紙を燃やし、光源氏は、紫の上との思い出を空に還した。


 それに続く雲隠の巻は、令和を迎えても、未だに見つかっていない。または、雲隠自体が存在していないとされている。

 物語は、光源氏が亡くなった後の、宇治十帖に続く。




 私とミツル、そして松平さんは、旅館の駐車場に向かった。

 駐車場には一台しか車がないため、どれが松平さんのものかすぐに分かった。黒色のセダンだ。何度もバスに乗っていたからか、ミツルは、車輪が四つ付いている箱こそが移動手段なのだと瞬時に理解できたようである。

「ところで、どこに向かうのです。ご先祖様」

 松平さんが、冷やかしか尊敬か分からぬ呼称を使う。とはいえ、先程まで菅原道真に会えた感激からか、本人を抱きしめた男である。冷やかしではないだろう。

「北野天満宮だ。行けるか、子孫」

 ミツルも案外乗り気である。思うに、松平さんの協力は、もはや市役所職員の範疇を超えている。ミツルの子孫、菅原、徳川、松平の血を受け継ぐ者としての、一種の使命感、もしくは自尊心があるのだろう。

「さあ、乗ってください」

 私たちは、後部座席を案内された。すぐに乗り込もうとするも、ミツルがタイヤを見つめながら、眉をひそめている。

「どうかしましたか、ミツル」

「どうしてこの部分だけ、鉄みたいなものが刺さっているのか、と」

 鉄みたいなもの。ミツルが言い表す「この部分」とは、タイヤのことだ。一旦、松平さんは後部座席の扉を閉めて、確認しに行く。だが、次の瞬間、彼は青ざめてしまった。

「釘が刺されている」

 私も確かめると、左の後輪に丸い釘頭があった。タイヤに釘を刺されたということは、車がまともには使えないということだろうか。このままでは、歩きで北野天満宮に向かうことになる。ミツルはよく走る男とはいえ、あまり若くはない。彼に無理をさせることはできない。

 松平さんは、うう、と唸りながら、また後部座席の扉を開けた。

「知りません。走ります。まだ空気は入っている。片道なら耐えられるでしょう」

 本当に大丈夫なのだろうか。私が問うも、後で考えます、と返された。理論的な彼が感情的になると、結構頼もしく見える。

 後部座席に私とミツルが乗り、真ん中に巻物を置いた。松平さんは運転席。エンジンがかかれば、片道切符が走り出す。

 瓦屋根と木材で形成された京都。雷鳴が響くかの街は閑散としていて、人も車も疎らである。公務員たる松平さんが、六十キロを優に超えた速度を出しているのも、その所以であろうか。

 雷は、ミツルの塔にだけ落ちている。京都の街に一切の被害はない。平安の者が起こした怪異は、全て平安に持って帰る、という彼の言葉を思い出す。その全てには、雷自体のことも含まれているのだろう。

「ミツル。気になることがあるのです」

 その雷について、私には少し疑問があった。

「なぜ藤原が起こす怪異を、雷だと仮定することができたのですか」

 建物に「雷」と書かれていた令和はともかく、まだ怪異が起こっていないであろう平安で、どうして雷が関わる怪異が発生すると気付いたのだろうか。実際に平安京が雷に襲われたのならともかく。

 いや、雷に襲われる。そんな事件は実際にあった。

「『清涼殿落雷事件』。藤原一族が、私の怨霊だかなんだか知らないが、謎の雷に襲われた事件があったのでな。だから、一族の子孫たる藤原は雷を恐れていると踏んだのだよ」

「恐れているものを利用したいと思ったのですか」

「逆だ。恐れているから利用するのだ。人が物事を恐れる理由は、得体が知れないからである。もしも自分がその力を手にしたら、畏怖は傲慢へと変貌する。そう考えた」

 ミツルは、運転する松平にも声をかける。

「それと、清涼殿落雷事件。やっぱり九二五年であるよ。平安にいた頃に見た史料に、そう書いてあったのでな。思うに、令和では史料が紛失したのではないか」

 運転に集中しているからか、松平さんからの返答はない。そもそも、返事をあまり期待していなかったのだろう。言い終えた後、ミツルは外の雷に視線を向けた。もう窓のことは分かっているだろう。また突き指しても、医者に行く時間はない。

「あの塔は雷を大量に貯蔵できる構造。しかし、無限ではない。含有量を超えたら、次は京都タワーとやらか」

 京都タワーの先端には避雷針がある。しかし、彼の勝利条件は、その京都タワーにすら落雷させないことなのだろう。徹底しているものだ。

 ここで、ふと、疑問を覚える。

「ミツル。時間旅行切符のルールに従うと、藤原を平安に送り返すには、持ってきた建物の中に入れる必要があるんですよね」

「ああ、そうだな」

 ミツルはさも当然そうに答えるが、それでは矛盾が生じる。

「ミツルが持ってきたのは、現在進行形で雷を受けている塔です。あの中に藤原を誘導するのは、不可能に近いでしょう。死体が増えますよ」

 ただ、意味が分からない、とでも言いたげに、彼は首を傾げた。ミツルは何を考えているのだろうか。藤原が平安に戻るには、建物を媒介しないと無理だろう。それに、藤原が建物に入ったか確認する人間も必要だ。その人間も落雷の影響を受けないとは限らない。

「どうするつもりです。ミツル」

「成田。私の切符の色を忘れたか」

 切符の色。言われて、ああ、と声を出した。青色、黄色、白色。ミツルが持っていたのは白色。割高な分、二つの建物を飛ばすことができる。ただ、飛ばした建物が何か分からない。

「もう一つ、持ってきた建物って」

 問いながら、自分で答えが分かってしまった。今は北野天満宮に向かっている。そして、北野天満宮には、山小屋と同じ種類の建物が存在する。つまり、ミツルが持ってきた建物は、北野天満宮にある、あの小屋ということか。

「自分で正解に辿り着いたようだな。成田、お前も聡明になったものだよ」

 この数日間で、慣れない環境に身を置きすぎただけだ。人に何かを問われても、私は古典以外の知識をひけらかすことはできないだろうし、人と議論するとなっても、感情論でしか戦えないだろう。だが、もしも。本当に聡明になったとするならば、それは私自身の力ではなく、ミツルの力だと断っておきたい。

 突然、がたり、と車体が揺れる。

「思ったより早くくたばったみたいです。でも、もうすぐ着きます」

 地面と擦れるような音がして、体が小刻みに振動した。しかし、松平さんは、車体を傷付けてまで北野天満宮に向かうつもりである。本気だ、彼は。

「成田、松平。今から藤原を平安に送り返す手順を教える。しかと聞け」

 自分でも驚くほど、冷静だった。

「まず、北野天満宮の賽銭箱に銭を入れる。それから、自分が飛びたいと思う瞬間に、飛びたいと念じながら、切符を強く握りしめればよい。以上だ」

 松平さんが間抜けな声を出した。どうやら、思っていたよりも遥かに簡単な手順であったから、拍子抜けしたらしい。気持ちは分かる。どちらかといえば、手順よりも、森本先生を北野天満宮まで誘導しなければならないことの方が難しいだろう。

「さあ、着きました」

 車を停める。駐車場は本殿からは遠いものの、致し方ない。旅館から歩いていくよりも、よっぽど早い。

 三人で走った。ミツルは走るのが好きだが、歳からか、やはり息切れが早いようである。

 そこで、一番若い松平さんがミツルを背負った。人間一人の負荷がかかったら、いくら若いといえど、速度は落ちる。ただ、私は二人を置いていくような真似はしない。松平さんが疲れたら、私が変わろうとすら思った。友人と、その子孫である。人の縁は大切にしなければならない。

 一の鳥居をくぐる。楼門を通る。右を見れば、ミツルが持ってきた、もう一つの建物。

「あれは、山小屋と全く同じ建物じゃないか。どうして気付かなかったのだろうか」

 松平さんが自問している。思うに、北野天満宮の雰囲気自体が古風であるから、何かしら意味や理由のある建物だと、参拝客が勘違いしたのだろう。ともかく、数時間後には消えているのだから問題ない。

 三光門をくぐり、本殿に辿り着いた。前に訪れた時は混んでいた本殿も、悪天候となれば別だ。人はいない。拝殿に時間を食うことはまずない。

「二人共、銭はあるか」

 松平さんから降りてから、ミツルが聞いた。当たり前だ。私は買い物をする時に、小銭を計算して後ろの人を待たせたくない人間である。小銭なら大量にあるはず、だった。

 私は、ようやく、落雷の土壇場で財布を盗まれていたことを思い出した。松平さんも同様であったらしい。ない、と呟いて、その場に立ち止まっている。

「私も、ありません」

 やられた。森本先生は、私たちが小銭を使うことを知っていたのだ。だから、雷で混乱を招き、その隙に全員の財布を盗ったに違いない。

 お金がない。しかし、周りに人もいない。頼れるものは、なにもない。

 だが、一人だけ口角を上げる者がいた。

 ミツルだ。

 彼は、一度大きな溜息をついて、私に問いかける。

「成田。お前を聡明だと思っていたが、やっぱり違うようだな。なにしろ、私が言ったことを忘れてしまっているのだから」

 どういうことだろうか。彼に教えられたことはごまんとあった。記憶の海を泳ぎ、必死に探す。だが、溺れるばかりだ。切符のこと、違う。藤原のこと、違う。逃げずに立ち向かうこと、今は、違う。

 私の表情が動かないのを見てか、ミツルは、おもむろに呟いた。

「この国民一人が、国家を揺るがす転換点だったりするのだよ」

 その瞬間、私に、浮き輪が投げられた。

 見つけた。彼に諭された、最初の出来事。私は水溜まりに落ちた硬貨を無視して、謎の叫び声から逃げ出した。その後、もう一度現場に戻った時に、ミツルに硬貨一枚の価値を説かれたのだ。

 その時の、記憶。あの記憶。

「あの時の十円玉、まさか……」

 ミツルは、小袴から麻袋を取り出す。

 その中から、煌びやかな硬貨が摘み上げられた。

「この銭を使わなければ、褒めてやってもよかったがな。なあ、友人」

 かっかっか、と笑うミツル。この状況で皮肉なんて、本当に不思議な友人だ。私も思わず、笑みがこぼれてしまった。褒めなくても結構です、と返す余裕すら芽生えてきた。

 私たちは拝殿に向き合い、十円玉を賽銭箱に入れる。順調だ。

「さて、後は切符を握りしめるだけだな。どうしようか、成田。令和が少し名残惜しいのだから、どれだけ経っても飛びたいなど思わないよ」

 彼は愉快だ。後は森本先生を呼び出す手段を考えるだけ、ということもあるのだろう。それは私も松平さんも同様で、先祖と子孫が別れを惜しんだり、今になって昨日の議論で披露した論理の抜けを指摘したりと、私たちは余裕であった。

「どれどれ。久々に切符を見るとするか。古典塾で落としてから、しばらく麻袋すら開けてなかったからな。銭を手に取った時も、中で切符と同じ肌触りがしたから、平等に目で確かめないと切符に怒られてしまうよ」

 なんとも悠長な人だ。しかし、その性格すら、今は後ろ髪を引かれる思いを助長させる。昨日、松平さんは、ミツルの住民登録を、という話を持ちかけた。今思うと、加勢すればよかった。こうした侘しさを感じるくらいならば、ずっと彼と暮らしていたい。彼と暮らす日々が、私にとっては、どのような温泉よりも心地良いものなのだ。そう気付いた。

「ぼくも、一度切符を見たいものです。ご先祖様、ちょっとだけでいいから、お見せくださいよ」

 松平さんは、少し図に乗り始める。だが、当のミツルの様子がおかしい。切符を手に取ったのにもかかわらず、呆然としている。私も、その異常さに気付いた。

「それが切符ですか。思ったよりも、切符っぽくないですね」

 実物を見たことがない松平さんだけが、まだ飄々としている。しかし、事態を把握したのだろう。彼は、怪訝そうに尋ねる。

「それ、本当に切符なんですか」

 ミツルは、今にも泣き出しそうな声で、答えた。

「すり替えられた」

 彼は、何も書かれていない、ただの札を手に取っていた。

 あの時だ。古典塾の怪異が起こった時だ。

 ミツルが私の元に寄ってきた時に、ポスン、という音と共に麻袋を落とした。その後、森本先生が、私たちが座っていた場所の周辺で、動かない生徒の肩を叩いていたのを確認している。そして、いざ帰宅するとなった時に手渡したのだ。あの合間、森本先生が麻袋を拾って、切符を入れ替える時間は大量にあった。しかし、硬貨を盗むと事が大きくなると分かっていたから、硬貨には手を出せなかったのだろう。結局、森本先生は切符だけを入れ替えて、ミツルに渡したのだ。

 切符は、十円のように替えられる代物ではない。奪われれば、それでおしまいだ。

 しかし、私は、まだ希望を捨てたくはない。

「森本先生は、手元に切符を持っているかもしれません。先に北野天満宮に呼び出して、切符を奪い返すことができれば、まだ可能性はあります」

「いや、奴が切符を持ってくるとは思えない。奴は元の時代に帰るつもりはないのだぞ」

 ミツルが項垂れる。それでも、と私が励まそうとした時に、コートの右側のポケットから何かが震えた。手に取ると、スマホである。私はあまりスマホを使う人種ではないので、よく衣類の中に忘れていることがあるのだ。

 スマホを起動すると、まず、京都に謎の塔が出現というニュース。次に、森本と書かれた人物からのメッセージが届いている。嫌な予感がした。

 二人が、私のスマホを覗く。同様の危機を感じ取ったのだろう。私は、震える指でメッセージアプリを開いた。

「切符は俺が燃やした」

 途端、悪寒が走った。切符を燃やしている瞬間も、私はおそらく、目撃している。

 京丹後市の海、彼はバーベキューコンロで何かを燃やしていた。それこそが、ミツルの切符だったのだろう。わざわざ京都市から離れた場所で処理していたのに、私たちと鉢合せたから、森本先生は、つい強い口調になってしまったのだ。

 もうだめだ、と松平さんが震えた声を出す。だが、私は諦めない。

「あなたの切符があるでしょう。それを奪います」

 すぐに返信が来る。

「ああ、あの青い切符か。とうに破って燃やしたよ。もう過去に用はないのだから」

 ああ、と松平さんが泣き崩れてしまった。ミツルに至っては、感情こそ表に出していないものの、一歩間違えれば発狂するに違いない。表情ではなく、その佇まいが絶望を告げ知らせる。

 切符の消失は、怪異を止められないということと、ミツルが平安に帰れないことを示唆するには、十分過ぎる事象。新しい切符を買おうにも、米を集めるだけの金は、とうに奪われている。

 黒雲。雷鳴。泣き叫ぶ男と、押し黙る友人。ミツルの塔は、いずれ雷を飽和するだろう。京都を雷が襲えば、なにもかも消えてしまう。何千年もの遺産が、たった一人の強大な力によって。

 古典塾。旅館。煌びやかな歴史と、硬派な伝統。なにもかも消えてしまう。動機すら分からない男の手によって。

「成田」

 京都に引っ越して、もうじき三年となる。

「お前と平安旅館に泊まった時に、夢を見たんだ」

 瓦屋根と木材で形成された京都は、歴史がそのまま保存されているかのようだ。

「あまりにも信じがたい夢だが、聞いてほしい」

 その趣のある街並みは観光客から支持を得ている。

「私は、雷に襲われて、暗闇の中で倒れ込んでいた」

 月明かりも頼りにならない夜の京都は、妖怪や怨霊を連想させるほどに不気味である。

「その私の窮地を救ってくれたのは、私の、一番臆病な友人だった」

 その私の窮地を救ってくれたのは、平安から来た、謎の男だった。

「その友人は、私の手を握って、言ったのだ」

 その友人は、私に頭を下げて、頼んだのだ。

「一人にはさせない」

 どうか助けてほしい。

 

 つい数日前までは、夜の暗闇にすら怯えていた人間だった。高校生に古典を教えながら、その日その日を生きることに精一杯だった。家に帰れば、孤独だった。自分を揶揄するほど後ろ向きな性格だった。

 それが、ミツルと出会ったことで、世界が鮮やかに彩られた。

 謎の塔が現れて、そこから出てきた男と友人関係になって、自分を守る以外の方法で冗談を言えるようになった。

 天ぷらを作った。旅に出て、海に行って、久々に全力で競争した。高級な旅館にも泊まった。何から何まで、私の忘れていた煌めきばかりだった。仮初めの非日常だったとしても、微睡が起こした蜃気楼だったとしても、まるで青海原のように澄み渡っていた。泡沫の中に蒼穹を描いて、彼との日々が驟雨でないことを願っていた。

 しかし、夢は覚める。私は頭が回らないし、後ろ向きであるし、おまけに臆病である。聡明で、前向きで、天真爛漫な彼とは対照的だ。私はいつも彼に引っ張られて、彼に納得させられて、彼に笑わされてきた。ただ、彼が後ろ向きになってしまった瞬間だけは、私が前向きにならないといけない。

 彼は、私を友人と呼んだ。それは、自分を理解してくれようとしたからだという。私も、彼を友人と呼んだことがあった。でも、理解してくれようとしたからではなくて、友人と呼ばれたから、自分もそう言い返すしかなかったのかもしれない。

 それでも、今から私が彼の友人を名乗るとするならば、それは、お互いに助け合えるからだと主張したい。

 無知で後ろ向きで臆病な私の、ただ一つの打破。

 いつか終わる夢ならば、自分から覚めた方が、幸せな朝が訪れるのだと信じていた。


 私は、コートの左側のポケットに、手を突っ込んだ。懐かしき肌触り。長年使わなかったものだから、ずっとお気に入りのコートに入れていたのだ。

「成田。お願いだ。どうか私を……」

「言わないで」

 彼の言葉を制止した。頼みごとをするのに、いちいち形式ばったことをしていては、まるで仕事でもしているかのようである。そうじゃない。これは仕事なんかじゃない。

「友人でしょう。私たちは」

 もう、初めて出会った日のように、彼に頭を下げさせはしない。

 私たちは他人じゃない。二〇二三年の京都で、偶然出会ってしまった迷子だ。

 迷子同士、手を繋いで、一緒に出口を探そう。


 私は、ポケットから、それを取り出した。

 涙ぐみながら、ありがとう、と告げる友人。

 私は、気にしないで、と微笑む。

 友人に、それを軽く握らせる。

 青色も白色も消えて、最後に残った、黄色の切符。

 誓っただろう。私は、彼を。


「一人にはさせない」

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