黒幕

 午後二時。紫の間には、男五人と女将一人。

 黒いテーブルの周りに、私とミツルが並んで座る。彼は、小袴と筒袖という本来の服装だ。私の右隣には、お気に入りの白いコートを畳めてある。コートの上には、ミツルの麻袋も。今日の夜に帰らなければ塔が撤去されるのだから、家に置いておく時間がなかったのだ。

 反対側には、左から松平さん、森本先生、山岸さんが、それぞれ正座やあぐらをかいている。お互いに初対面なのだろう。三人のうち、誰かと誰かが会話することはない。

 森本先生は、今日は個人として招かれているからか、いつものリュックはあるものの、服装は白いTシャツと短パンだ。対して、松平さんは勤務時と変わらぬワイシャツ姿である。山岸さんに至っては、業務用の着物であった。

 紫の間は二人用の部屋だ。だが、無理を言って五人を部屋に入れてもらった。それどころか、旅館全体を貸し切ってもらった。このような特別な対応を施してもらったのには、れっきとした理由がある。

 私が部屋を予約しようと電話をかけようとした時、ミツルがこんなことを提案したのだ。

「紫の間に落書きをした犯人を当てる、と言ってみよ。旅館側も犯人が知りたいだろうし、我々が泊まるわけではないのだから、無料で部屋を貸してくれるだろう」

 どうして藤原の化けの皮を剥がすことが、落書き犯の特定に繋がるのだろうか。思うに、ミツルは藤原道長と落書き犯が同一人物だと考えているようだ。その根拠は解せないものの、既に旅館と電話が繋がってしまったため、言う通りにした。電話に出たのが五十嵐さんだったのだから、思うように事が運んでしまったのも、更に私を驚かせた。

 当の五十嵐さんは、テーブルから少し離れた場所で、座布団に正座している。彼女には落書き犯を当てると説明したが、実際はもっと凶悪な人物を特定しようとしている。とはいえ、それを説明するには長い時間が必要だろうし、知ったところで彼女の行動は変わらない。旅館としては、落書き犯が見つかればそれでいいのだ。

「さて、三人とも。来てくれて感謝する」

 三人には、これから何を話すのかを一切明かしていない。多少察している部分はありそうだが、欠席すれば、自分が藤原だと明かすようなものだ。

「このような高級旅館に招待してもらったのは有難い。ただ、用件を伝えずに呼ぶとは、一体どういう意図なんだ。てっきり飯が食えると思っていたぞ」

 森本先生は、なにやら苛立っているようである。私も彼と同じ立場なら共感するかもしれない。ただ、この状況でミツルに歯向かうのは迂闊な気もする。

「森本、それは後々解説する。まずは私のことを話そう」

 それから彼は、自分が平安時代から来たこと、京都を騒がせている塔は自分が持ってきたということ、令和の時代で藤原道長が怪異を起こそうとしていることを、かいつまんで話した。

 昨日既に概要を聞いていた松平さんはともかく、森本先生は少々怪訝そうになる。その反応が正しいだろう。普通、用件も分からずに呼び出されて、非論理的なことを伝えられても、受け入れられるものではない気がする。山岸さんに至っては、理解が追いつかないのか、口を開けて放心していた。

「さて、喜べ森本。本題に入るぞ」

 森本先生にとっては、用件が伝えられていないのはもはや過去の話であり、今は塔の持ち主が分かったことに驚愕しているようにも見える。事実、自分の苗字がミツルから呼ばれても、まったく反応がなかった。

「その藤原は、この中の三人の誰かである」

 ただ、ミツルがそう打ち明けたら、話は変わってくるらしい。森本先生を含めた三人は、互いを見つめ始める。初めて会う人間を、まるで吟味するように、こっちの方が怪しいとか、こいつはいけ好かないとかを考えているのだろうか。

「まず、藤原の特徴について考えてみよう。何か思い浮かぶか」

「じゃあ、ぼくからいいですか」

 松平が先陣を切る。使っているのは、平安時代の言葉だ。

「藤原とミツルさんは平安時代から来た、としましょう。それなら、二人とも現代の言葉が話せない、もしくは苦手であると考えますね」

 なるほど、とミツルは頷く。確かに、ミツルが現代の言葉を話せないのだから、同じ時代から来た藤原が多弁な人物とは考えにくい。

「そもそも、藤原はまだ怪異を起こしていないのだろう。なぜ藤原が分かる」

 森本先生が訊く。質問が目立つ彼だが、この状況では仕方ないだろう。

「藤原は、怪異に見せかけたからくりを作ったと考えるべきだからだ」

「怪異に見せかけたからくり。つまり、この三人の中で、一番誰でも思いつきそうなことをした人物が藤原だな。また、真っ向からミツルと対立した人間も、疑いの対象だと考える」

 最もな意見ではある。怪異が偶然起こったのではなく、故意に起こした可能性が高ければ、それは疑惑の対象であろう。松平さんだけは勝手が違うものの、一度は自尊心によって塔の解体を強行しようとした。結局、今日も塔は同じ場所に佇んでいたが、解体を中止させた理由が「解体すると怪しまれるから」という可能性もある。どちらにせよ、私には白か黒か分からない。そもそも人を疑いたくはないものだ。

「松平と森本の意見を踏まえると、藤原は、現代の言葉が苦手。偽の怪異を作ったか、私と対立した人物、であるな」

 山岸さんだけが、何も言わずに黙りこくっている。元々気弱な人のようだから、会話に参加できないのだろうか。それを気にする様子もなく、そういえば、とミツルが喋る。

「お互いのことが分からないのだったな。それも整理しよう」

 彼は、まず松平さんの名前を挙げた。

「松平は市役所の職員。十年毎に現れて消える山小屋の存在を認知し、更に無視した。私が持ってきた塔についても解体を検討していて、それで昨日ちょいと揉めたものだ。つくづく、私は感情で物事を考えるのが苦手でな。感情論は成田の仕事であるから、正直、私は今でもお前の行動は理解できない。壊すなら壊す、やめるならやめるでいいものを」

 感情論と言われると耳障りはよくないものの、悪気があってその言葉を使っているわけではない。私とミツルの仲だから分かる。

「森本は古典塾の講師。生徒が授業中に硬直する現象を引き起こした。結論は金縛り。これに関しては、教育を間違ったと考えたいものだが……。未来ある生徒を利用してまで怪異を捏造しようとは、普通ならば、思わないだろうな」

 私もそう考える。お得意の感情論だが、彼の教育に対する姿勢は本物だ。行き過ぎた結果、生徒に悪影響をもたらしてしまっただけに違いない。彼が普通であってほしいと願う。

「山岸は平安旅館の従業員。掛け軸の裏に、神出鬼没の文字が現れた、とな。しかし、結局はボールペンだった。私の記憶が正しければ、旅館に住み込みで働いている。家系図に精通しており、この紫の間にある、源氏物語の系図を書いたのも山岸であるよ」

 松平さんと森本先生は、掛け軸の隣に視線を注ぐ。二人は軽く頷いた後に、また正面を向いた。

「ミツルさん。藤原が、何年前からこの時代に来たのかはご存知ですか」

 松平さんが訊いた。

「正確には割り出せないが、せいぜい二、三年前だろうか」

「どうして、二、三年前に行って止めなかったのですか。そのせいで、ぼくが被疑者みたいな扱いを受けている。不当ですよ」

 考えてみれば、確かにそうである。なぜ藤原が時間旅行した直後に止めなかったのだろうか。ミツルのことだ。何か意図があるのだろう。

 ただ、彼の返答は虚しいものだった。

「時間旅行切符の話はしたと思う。あれは、一年飛ぶにつき、約一俵の米を奉納する必要がある。私は、一〇二三年から二〇二三年に飛んだ。つまり、千俵を集めなければならなかった。仲間たちと必死に集めて、やっと米が溜まった頃には、もう数年が経っていたのだよ」

 迷惑をかけてすまない、と頭を下げる。居た堪れなくなったのか、松平さんも謝っていた。だからといって状況が変わったわけではない。

「数年も怪異を起こさないで、令和を満喫しているとは、随分呑気な貴族様ですね。ミツル、それについてはどう考えていますか」

「奴が切符を手に入れたのは、平安京の全員が知っていたからな。だから数年前に『私も切符を手に入れた。何か企んでいるのならば、止めてみせる』と手紙を送ったのだよ。藤原は、いつか来るであろう邪魔者を排除して、それからゆっくり怪異を起こすつもりだったのだろうな。さっき言った通り、その頃にはまだ米が集まっていなかったのだが。つまりは虚勢というやつであるよ」

 なるほど。ただでさえ、一般庶民が千俵の米を集めるのには何年もかかるのだから、一度切符を使わせて、数年間の自由を得た方が安全ではある。自分の顔が割れていないという、絶対の自信を感じさせるような行動だ。

「怪異は脅しの手段で、本当は、もっと別のことをしている可能性もあります」

 山岸さんがぼそりと呟いた、その言葉がどうにも怖かった。

「さて、疑問は解決したか。いい頃合いだ。藤原も、尻尾を出す頃だろう」

 彼はそう呟き、右の男を凝視しながら続ける。

「現代の言葉が苦手で、偽の怪異を作った人物。さて、後は言う必要があるかな」

 ミツルが、山岸さんから視線を逸らした。彼はきっと、松平さんと森本先生に、山岸さんが犯人だと伝えているのだ。誰かに結論を言わせることで、あたかも発言者がそう思ったかのように錯覚させる手法。昨日、私と松平さんが、お互いに試みた手法である。

「なるほどな、そうか」

 まず口を開いたのは、森本先生だった。

「俺は自供した方がいいと思うよ、山岸さん」

 ミツルの視線の先を見ていたのだろう。いや、そうでなくとも、山岸さんは疑われていた気がする。

「俺が起こした金縛りと、山岸さんが発見したボールペンの落書き。松平さんが怪異を無視したことを抜きにしても、ボールペンを使うことは非常にコストが低い。出来事の全容を知らないから強くは出れないが、山小屋、金縛り、ボールペンと並べて、一番手っ取り早く怪異を捏造できるのはボールペンだな」

「怪異が起こったから、素直に起こったと言っただけです。それに、成田様やミツル様が旅館に訪れたのは偶然。自分がそうするようにしたとか、絶対ありません」

「『平安旅館』という名前なのにか。いい度胸だよ」

 そのまま、部屋には沈黙が訪れた。すると、離れて座っていた五十嵐さんが、くすりと笑った。平安時代の言葉が飛び交っていたから、一切会話の内容が理解できてないであろうに。どうして笑ったのだろうか。私が問うと、彼女は正直に答えた。

「そらあね。山岸は京言葉上手ちゃうくて、お客様の前では喋らんことの方が多いんやけど、今日は平安時代の言葉で喋れるさかい、なんかえらい嬉しなっただけどすえ」

 現代の言葉が苦手。そういえば、前に旅館を訪れて、ミツルと山岸さんが意気投合した時にも、そのようなことを話していた。

「京言葉より平安語の方が達者なのはなんでやろう。いつもはあまり喋らへんのに」

 山岸さんが、藤原なのだろうか。私は戦慄する。しかし、どうにも彼が怪異を起こせる胆力を持っているとは考えられない。けれど、そういう人に限って、大きな犯罪を企てるのだろうか。ああ、人を疑うのは慣れないものだ。

「それ見ろ。山岸さん、あんたじゃないか。住み込みで働いているのも、家がなかったからだろう。そうか、そういうことだったのか」

 森本先生がまくしたてる。山岸さんの腕を掴み、啖呵を切る。今にも取っ組み合いが始まりそうだ。

「あんた。うちの山岸に何してはるんどすか」

 五十嵐さんも、場の異変に気付いたようだ。立ち上がって止めにかかろうとする。女将たる人間が怪我をしたら大変だ。彼女がテーブルに向かうより早く、私が森本先生に駆け寄る。

「よしてください、森本先生」

「成田先生も分からないのか。藤原道長は平安時代の貴族だぞ。何をされるか分からない。古典塾の生徒に危害が加わるより先に、俺が止めなければ」

「止めるなら議論をするべきでしょう。それに、まだ決まったわけじゃない」

「ミツルが言ったんだぞ。後は言う必要があるか、と。もう結論は出ているんだ」

 森本先生に振り払われて、思わず体勢を崩し、尻餅をついた。すぐに五十嵐さんと松平さんが心配してくれるものの、もう一度森本先生に立ち向かう勇気はない。

「ミツル、彼を早く平安に返すのだ。俺の生徒に危害を加える前に、さあ、早く!」

 しかし、ミツルは顔色一つ変えない。目の前で乱闘寸前の状態だというのに、全く狼狽すらない。

 まさか、これすらも予定調和だったというのか。

「ならば、こうも言った」

 まるで和歌を詠むかのように、彼はゆっくりと呟く。

「藤原も、尻尾を出す頃だろう」

 森本先生が、ゆっくりと山岸さんの腕を離す。目を見張って、言葉の意味を理解する。

 私は山岸さんに歩み寄り、腕の心配をする。痛くはないようだ。それよりも、ミツルの、その悠然とした態度に圧倒されている。松平さんも、山岸さんも、五十嵐さんも。そして、森本先生も。

「罠にかかったな、狐め」

 ミツルの目は、茫然とする森本先生を捉えていた。


 平安時代を専門とする、古典塾の講師、森本先生。彼こそが、藤原道長だというのか。

「理解できない、ミツル。それなら、金縛りの件をどう説明するのか」

 彼は一呼吸入れてから、自分が藤原である証拠を求める。しかし、立ったまま喋っているということが、彼の余裕のなさを明確に示している。

「まあ、とにかく座れ。松平も、山岸も、だ。二人を呼んだのは、この後に仕事があるからだよ」

 一度、全員が元の位置に戻った。ただ、松平さんと山岸さんは、遠目で見ても分かるほどに森本先生から距離を置いている。私でもそうするだろう。万が一、森本先生が藤原ではなかったとしても、感情で他人に掴みかかる男の隣にはいたくない。

「ただ、金縛りの件は、一旦放置する」

「まさか、金縛りが故意だと証明できないのか。ならば、どうして俺を藤原だと考えたのだろうな。憶測なら撤回してもらいたい」

 金縛りが追求されないと分かったからか、彼の口調に余裕が戻る。その態度こそ怪しいのだが、怪しいという感情で人を犯罪者呼ばわりはできない。

「憶測なわけあるか。では、そうだな。山岸が藤原ではない理由から挙げようか」

 ただ、怪異以外にも森本先生を追い詰める論理は組み立てていたらしい。ミツルに任せるべきだろう。私は一度、深く息を吸う。

「森本は、山岸が住み込みで働いているから怪しいと疑った。しかし、考えてみろ。時間旅行切符を使った者は、建物を持って行く必要がある。それならば、むしろ家がないという山岸は、建物を持っていない、もしくは、建物をどこかに隠したと考えるべきだな」

「隠したのだろう。俺でも分かる」

「いや、隠せやしない」

 森本先生の言葉を、あっさりと否定するミツル。

「成田から聞いたのだが、仕事をするには住所が必要らしいな。それは市役所も旅館も同様。建物を隠していては、どこに住所があろうか。いや、あるはずがない」

 それどころか、と彼が続ける。

「古典塾は授業の分かりやすさだけで合否を決める、とな。そりゃあ、森本。住所が要らないわけであるよ」

 森本先生が何か反論したげに口を開くが、また閉じる。その一部始終を見てから、次に、とミツルが言う。

「現代の言葉が下手、であるか。残念だが、その仮説は見当外れだ。藤原は下手どころか、たいそう成熟した令和の言葉を使うのだよ」

「どうして、そう言えるのですか。藤原はあなたと同じ時代から来たはずだ」

 疑問を呈したのは松平さんだ。私も同感である。現地に行くだけで、その地域の言語が瞬時に使いこなせるわけがない。だが、ミツルは得意げに笑った。

「松平。お前は昨日、私に問うたな。どうして藤原は、十年毎に山小屋を飛ばしたのか、と。それを今から解決しよう」

 一日跨いでの解決。松平さんが前のめりになる。

「藤原が何度も山小屋を飛ばしたのは、何度も現地に赴いて、言葉を覚えるためだろうな。藤原が持つ富があれば、何度も切符を購入するなど容易いことだ」

「ええと、つまり、言葉を教える人がいたのですか」

 松平さんが問うと、ミツルは深く頷いた。

「私にとっての成田のように、平安の言葉が話せる人物がいたのだろう。そうとしか考えられない」

「十年毎という決められた間隔は、一体なんでしょう」

「約束だろうな。十年後に会おう、と互いに誓っていたに違いない。山小屋が消える時期は多少変わったとしても、現れる時期はずっと一緒だったのだから」

 私のように、平安時代からの来訪者に興味を持ち、協力しようと考えた人物はどの時代にもいるらしい。知的好奇心に溢れた人類は、今も昔も必ず存在するのだと思い知らされる。読めない書籍だったとしても、私の本棚を漁ったミツルの姿を回想した。

「どうして一年後や二年後ではなく、十年後なのでしょうね」

「宇治十帖……いや、それを話すと長い。単純に考えるならば、身元を特定できないように間隔を取ったと考えるべきか」

「そもそも、どうして行ったり来たりしたのでしょうね。ずっと一緒にいた方が、お金にもお互いにも優しいでしょうに」

 ミツルは、ふうむ、と考える素振りをする。

「そうしなかったのならば、奴のゴールは、その人物がいた時代ではなく、もっと先の時代にあったのだろうな」

 ぎり、という歯の擦れる音。森本先生のものだ。ミツルはそれを無視して、偽の怪異、と呟いた。

「森本。ボールペンで怪異は簡単に起こせる、だったかな。確かに山岸が怪異を起こすことはできる。だが、それだと、どうにも理解できないことがある」

 首をかしげるミツル。ほんまに首をかしげる人っているんやなあ、という五十嵐さんの声が聞こえた。当人には届いていないだろう。

「それは、あまりに簡単すぎたこと。藤原は、怪異と誤解するほどの現象を起こす必要がある。しかし、いざ蓋を開けてみたら、ボールペンで書いただけ、とな。自分の命運を賭けているのだから、もう少し凝った現象を起こすべきだろう。たとえば……」

 ミツルが、森本先生を睨む。

「自然を操り、金縛りを発生させるとか」

 思うに、彼は金縛りの原理を説明できるにもかかわらず、あえて口に出していないのだろう。どういった理由があるかは知らないが、少なくとも私の不利益ではない。ところで、旅館の怪異の正体がボールペンだと知った途端、私だけが興ざめしたと思ったのだが、どうやらミツルも同様であったらしい。親近感を覚える。

「それなら山岸さんが、日本語が下手で、平安時代の言葉を話せるのはどうしてだ。説明しろ」

 余裕のない口調で、テーブルから身を乗り出しながら問い詰める森本先生。もはや自分が藤原だと認めている態度であるが、証拠不十分では断定できないのも事実である。

「山岸は日本語が下手なのではない。京言葉が下手なのだよ」

 ミツルに言われて、山岸さんは、こくりと頷いた。

「自分はずっと関東出身で、歴史に興味を持って京都に来ました。それで、旅館に住み込みで働けば住居も確保できるなと思って、就職したのはいいのです。ただ、平安旅館は歴史と伝統のある旅館。京言葉を話さなければ、女将さんに叱られてしまう。下手なことをして標準語が出るなら、最初から喋らない方がいいなって」

 彼は控えめに五十嵐さんに目を遣った。ミツルを介しての会話は平安時代の言葉で行われるので、彼女には聞こえていないだろう。私がそれを指摘すると、どこか安堵した表情になった。ただ、陰口を叩くようで愉快ではない。

 確かに五十嵐さんは、山岸は京言葉が下手、とは言った。しかし、日本語が稚拙だとは一度も口に出していない。お客様の前では喋らんことが多い、という言葉を真に受けるなら、業務外では標準語で普通に会話していたとも考えられる。

「あの、山岸さん。もしかして、あなたK大卒ですか」

 そう訊くのは、松平さんだ。歴史好きには、どこか惹かれあうものがあるのだろうか。

「え、そうです。でも、どうして分かったんですか」

「さっき、家系図に精通している、とミツルさんが仰ったじゃないですか。それで、たった今、もしかしたらと思ったんです」

「えっと、松平さんですよね。あなたもK大ですか」

 彼は頷いた。大学も大学院もK大だったという。よほど愛校心があるのだろう。

「山岸さん。多分『昔の話し言葉』の講義、取っていましたよね。道理で、発音の癖がぼくの教授に似ていると思ったんですよ」

 松平さんは喋っていた。ぼくが通っていた大学の講義でも、昔の話し言葉というものがあった、と。二人は同じ大学の先輩後輩であり、平安時代の話し言葉の講義を取っていたから、ミツルと会話ができるのか。どちらも発音の癖が強いと感じていたが、同じ教授から教わっていたからだろう。家系図サークルもそうである。K大という、歴史に重点を置いた大学だからこその集いだ。

「これで、山岸さんが藤原ではないという証拠は出揃ったわけですか」

 私が確認すると、ミツルは大きく頷き、満足そうに笑った。それを見てか、森本先生は少し泰然とした振る舞いに戻る。

「山岸さんが違うから、俺が犯人と。背理法で推理しているんじゃないだろうね。山岸さんが違うから俺、ではなく、俺が藤原たる証拠を出してもらわないと」

 腕を組み、あぐらをかく。完全なる開き直りだ。山岸さんに危害を加えようとした人物だからか、五十嵐さんは、ずっと森本先生を睨みつけている。次に何かしたら、ただじゃおかないぞ、と言いたげだ。

 ただ、ミツルはやはり悠然としている。

「醤油はな、料理が完成してから、つけるものだよ」

 森本先生の体が、一瞬、ぴくりとした。

「料理はできた。あとは調味の時間であるよ。この、平安の妖狐め」

 刹那、風が吹いた。強い風だった。森本先生の前髪が、一度、ふわりと浮く。彼の驚愕と不穏を、私に告げ知らせる。

「成田。五十嵐に、これから落書き犯を追い詰めることと、あの扇子を持ってくるよう伝えてくれ」

 私は言われた通りにした。五十嵐さんは、森本先生を一瞥して部屋から退出する。会話の内容は分からないものの、森本先生が犯人だという空気なのは察したようであった。

「さて、まず落書きをしたのが森本であるならば、森本が旅館に来たことを証明しなければならぬ。山岸、怪しい人物が紫の間に泊まったのだよな」

「はい。黒い帽子と黒いマスク、それにサングラスをかけた、黒ずくめの男性でした」

 松平さんが、少し眉をひそめる。その仕草を見てか、ミツルは彼にも問いかけた。

「松平。確か、塔についてクレームが殺到していると言っていたよな。それは電話か。それとも直接か」

「直接です。毎日来るものですから、対応するのが面倒になってしまって。そのクレームに押されて、塔の撤去を強行しようとも考えてしまいました。市役所職員がクレームに負けるなんて、恥ずかしいから言いたくなかったけど」

 彼が強引に塔を解体しようとしたのは、彼自身の哲学に加えて、毎日クレームの対応に追われていたからだろう。無実の人間が自白を強要されて、苦しみから逃れるために嘘の自供をする事例があるが、それと似たようなものだろうか。

「さて、森本。昨日会った時に話していたな。あれを見るのは俺の日課でね、と」

 否定はない。私もそれを聞いているのだから、言い逃れはできないと悟ったのだろう。

「松平。塔の周辺で森本らしき人物を見たことは」

「ありません。ぼくが責任者ということで、塔には毎日いたのですがね。古典塾の講師ということは存じ上げていたものの、今日が初対面だ。毎日来ているなら、どこかで見てもおかしくないのに」

 推測通りだったのだろう。ミツルは、それならば、と口角を上げる。

「黒ずくめの男はいたな」

「はい。それこそ、毎日押しかけて来たクレーマーです」

 落書き犯とクレーマーが同一人物である可能性が高まった。ただ、森本先生は余裕を取り戻したのか、それとも平静を装っているのか、わざとらしく落ち着いた口調で反論した。

「それが俺だと主張したいようだな。ただ、ミツル。俺は市役所職員のいない場所で見ていたんだ。それとも、必ず近くで見ないと確認できないことがあったとでも」

「ああ、その通りだ」

 森本先生が、ぎょっと目を見張った。唾を呑む音。ミツルは、さも当然のように言う。

「お前は、『アマノミツル』を解読しただろう」

 そうだ。森本先生とミツルが初めて遭遇した時に、森本先生は、晴れた時にもう一度見に行って、「アマノミツル」の文字を確認した、と喋っていた。しかし、その日は私も見に行ったのだが、塔は既に市役所職員によって包囲されていた。それに、前日は雨で視界がよくなかった。「アマノミツル」の文字を解読するには、雨が止んでから塔に近寄るしかない。

「いや、違う。俺は双眼鏡で確認したんだ」

 苦し紛れに言い逃れする森本先生。

「詭弁です。そもそも、見たい方向に文字があると分かっていないと、双眼鏡を使おうとも、持って行こうとも思いません。なぜなら、あの建物で最も重要視するのは高さだから。まさか、高さを知るために双眼鏡を使ったとは主張しないでしょうね」

 森本先生が必死に捻り出した言葉は、松平さんに打ちのめされた。今思えば、森本先生が、塔の高さよりも、入口がないことを気にしていたのも、彼が藤原だったからだろうか。

 それでも懲りずに反論を続ける姿は、どこか見苦しさも覚える。

「ただ、塔の中に重要なものがあるのは事実だろう。入口がないんだぞ。つまり、何かを隠していたんだ。その可能性を無視して、塔を解体しようと言った松平さんだって、藤原の可能性があるじゃないか」

 それでも、森本先生が藤原である可能性よりも低い。心の中で呟く。人を疑うのは慣れないものだが、山岸さんを利用してまで逃げようとした森本先生には、ある程度の疑惑を向けるなど構わないだろう。

 ただミツルは、かっかっか、と笑った。その途端、森本先生は悍ましさを感じさせる表情を浮かべて、口を大きく開けた。

「また罠にかかったようだな、森本」

 罠。私は復唱する。彼の言葉が理解できない。森本先生の発言に、なんの不可思議があるのだろうか。ミツルの、次の言葉を待った。

「あの塔には、入口がある。そして、重要なものなどない」

 真っ先に驚いたのは、松平さんだった。なにしろ、塔を間近で見続けてきた人物だ。今まで当たり前だと思ってきたことが、覆されているのだろう。

「正確には、入口を塞いだ、と言うべきかな。松平、壁に釘跡があったろう」

「はい。それらしきものは」

 私も釘跡を見た。松平さんに呼び止められて塔に向かった時に、「アマノミツル」の横に小さな穴があった。あれのことを言っているのだ。

 途端、ミツルがしたことを理解した。

「私は、壁に『アマノミツル』の文字を彫り、そして入口を壁と同じ材質の木で塞いだ」

 ミツルと京都全域を周る旅をした際に、いくら傷だらけの建物を飛ばしても、到着した時代では新築同様になっている、と聞いた。壁に彫った文字も傷の扱いになってしまうのならば、入口を封鎖したまま「アマノミツル」と書くことは不可能。

 しかし、なぜ文字を彫る必要があったのだろうか。私が問うと、彼は神妙な面持ちで答えた。

「藤原を呼び寄せるためだ。突然謎の塔が出現したとなれば、藤原は誰かが時間を飛んだのだと察して、真っ先に塔へ向かうはずだ。そして、壁に彫られている『アマノミツル』が平安時代の文字だと分かれば、藤原の中では、時間を飛んだ人物は、平安時代に手紙をよこしてきた奴らだと確定する」

 ミツルが私を一瞥して、それから続ける。

「藤原は、こう思うだろう。奴らはわざわざ建物を持ってきたのだから、中には貴重なものや、自分を止めるために必要な物資があるはずだ、と。それから入口を探し回るだろう。塔の高さには目もくれずにな。だから入口を塞いだ」

 これが罠であるよ、と彼は言った。森本先生は、彼の思惑にまんまと引っ掛かってしまったらしい。毎日塔に行くことで、解体するようクレームを入れつつ、どさくさに紛れて中を調べようとしたのだろう。

「俺が藤原だとしよう。それなら、古典塾がある日も塔に行かねばならない。黒ずくめの服を着てからクレームを入れて、家に帰ったらスーツに着替えて塾に行く。徒労だと思わないのか」

 森本先生が汗をかく。紫の間が暑いからでもあるが、決してそれだけではないだろう。

「黒ずくめ、とな。ならば逆に考えよう。黒ずくめの服を着ずに、黒ずくめと言われる方法をな」

 まさか、と思った。私は咄嗟に喋り出している。

「古典塾の森本先生は、いつも黒いスーツと黒シャツ、スラックスです。森本先生は全身黒コーデだったのですか」

「そう考えるべきだ。黒い服だけなら黒い服と呼ばれる。しかし、全てを黒で揃えてしまえば、自ずと服以外のものが目立ってしまうわけだよ」

 強引な手段のような気もするが、それで黒ずくめと呼ばれているのだから、森本先生の見通しが当たったのだろう。現に「黒ずくめの男」というレッテルが貼られたわけである。

「お待たせした。落とし物の扇子を持ってきたで」

 五十嵐さんが扇子を持って入ってくる。途端に、森本先生の目が泳いだ。

「自分のではない、とは言えないはずだ。これを紛失したら、機嫌を損ねるほどなのだからな。思うに、これは平安から持ってきた形見だろう」

 森本先生が藤原だろうと、扇子に罪はない。私は彼女から扇子を受け取り、持ち主に返してやった。彼は一瞬だけ私の顔を見る。しかし、すぐに目を落とした。

「それと、森本。飯が食えると思っていたのだよな。私が正しければ、お前は今日も醤油を持ってきているはずだ」

 森本先生が押し黙る。しかし、ミツルはどうして醤油に過剰な反応を示すのだろうか。不思議でならなかったので、失礼します、と断りを入れてから、私は森本先生のリュックを調べることにした。

 ほどなくして、小さな醤油の容器が見つかった。

「平安時代では、醤という調味料がある。大変高級なものでな。それこそ米よりも上等で、皇族でないと口にできない代物、贅沢品だ。令和では醤油という液体に成り代わったとはいえ、本質は変わらぬ。醤油が好きだと主張されればそれまでだが、今までの流れを踏まえれば、否定はできないだろう。お前は、令和の時代に飛んでも、自らの富と繁栄を誇張したかった。違うか」

 もはや、成す術なし。森本先生は項垂れて、魂が抜けたかのように、そのまま動かなくなる。私は大きく息を吐いて、体中の力を抜いた。藤原の正体が同僚だったとは。ミツルはいくつも証拠を挙げたが、私には、まだ信じられないところもあった。いや、誰も傷付かない正解を探していたのかもしれない。松平さんを傷付けてまでミツルを守ったように、ミツルは森本先生を傷付けて令和の京都を守る選択をしたのだった。

「ミツル。お前は、どうして俺を止めようとしたのだ」

 肩を落としたまま、森本先生は問う。私も気になっていたのだが、それを訊いてしまうと、ミツルが友人という枠から外れて、どこか遠くへ行ってしまうような予感がして、言えなかった。

「森本。平安で、遣唐使が廃止されたのは知っているか」

「ああ。聞いたことがある」

 平安に暮らす者同士の会話だ。私や松平さんには、夢のような光景だろうが、決して関わってはいけない、触れていけない領域。

「あれが廃止された理由と同じだ。私はな、外部から一切の干渉を受けずに、倭の国がどう発展していくかを見たかったのだ」

「つまり、俺は外部の人間で、平安より先の時代に関わってはいけない、ということか」

 ミツルは私を一瞥してから、森本先生の目を見据えて、はっきりと言った。

「ああ。森本、平安に帰ろう」

 森本先生は、ふう、とため息をついた。年貢の納め時だと理解したのだろうか。松平さんと山岸さんは、いつの間にか私たちの隣に立っている。森本先生が別の時代の人間であり、別の立場にいるからこその行動のように思えた。そうでなくとも、突然腕を掴んでくる人間の隣にいると、どうにも警戒心が拭えない。

 少しして、森本先生は立ち上がる。開いた障子の向こうから、紫の間に入り込む葉っぱを見つめる。水滴が、ぽたり、と紫の間に落ちる。

 彼は、私を見て、呟いた。

「もう遅い」

 刹那、雷鳴が轟いた。目の前が光る。間隔を空けずに、二度目の霹靂。あまりの轟に、思わず耳を塞ぐ。ミツルが、障子の方へ駆け寄る。更なる雷の襲来に、彼は腕で顔を覆う。

「俺が『雷』を書いた理由は、雷が降る場所を指定するためだ」

 森本先生が何かを喋っているが、それよりも、ミツルが心配だ。彼の元に寄る。紫の間から見る外は、一面が緑。落雷地点を特定できない。

「女将さん。この旅館は木造建築だな。何度も雷を当てれば、被害が出ると思ったのだよ。怪異は夜に起こすつもりだった。だから掛け軸の裏に、夜にだけ出現する文字を書かせてもらった」

 森本先生が告げた。現代の言葉だった。

 次の瞬間、頬を叩いたかのような音が響く。振り向くと、五十嵐さんが森本先生の手を握りしめている。彼の頬が赤いことから、平手打ちを受けていたのだと知った。

「うちの大事な旅館と、大事な従業員を傷付けるんやったら、あんたを許しはしいひん。百年の歴史はうちが守る」

 五十嵐さんは、四代続く旅館の歴史を背負っている。彼女の一撃は、女性一人分の重みではないはずだ。手が出てもおかしくなんてない。

 しかし、森本先生は躊躇なく手を払いのける。体勢を崩す女将。山岸さんが支える。

「俺が語り継ぐ歴史は、千年だ」

 またもや雷鳴。彼の起こす怪異とは、雷のことに違いない。松平さんが突進するも、森本先生に避けられる。更に爆音が鳴り響く。両手を耳に当てないと、正気ではいられない。耳鳴りがする。

「物語を絶やしてはならない」

 耳の隙間から、森本先生の声が聞こえた。私のズボンのポケットから、何かが抜けたような感覚。そこには財布を入れていたはずだ。手を入れる。ない。私は振り返る。彼の姿は、もはやどこにもない。しかし、お金を心配している場合じゃない。

 まず障子を閉めた。少しは静かになるとは思ったが、障子はよく音を通す。現状は変わらない。次に廊下への移動を試みる。コートと麻袋を抱えて、部屋から出た。まだ雷が聞こえるものの、いくぶん楽にはなった。私たちは、そこで一旦耳を落ち着かせる。松平さんは森本先生を追いたがっていたが、案ずるな、とミツルが止めた。

 数分経って、やっと全員が落ち着いた頃、ミツルは私に言う。

「さて、森本が引き起こした金縛り。あれは本物の怪異だと考えている」

 彼が唐突に新事実を話したので、私は困惑を隠せない。麻袋を渡しながら、どういうことか尋ねた。

「成田、教室の壁にあった落書きのようなものがあっただろう。あれは、旅館でも見た『雷』をかなり薄くした文字の可能性が高い」

 上に雨冠のようなものがあった落書きのことだ。ミツルがそれを消したがっていたのは、落書きではなく怪異だと悟っていたからだろうか。

 雷という文字を書くことで、落雷地点を指定できると森本先生は話していた。まさか、古典塾にまで雷を落とすつもりだったのか。彼のことが恐ろしくなるが、本当に私を震え上がらせるのは、いつだってミツルの方だ。

「雷は既に落ちていた」

 雷が、落ちていた。しかし、私も森本先生も、はたまた一部の生徒にも影響はなかった。森本先生の授業を受けている生徒だけを眠らせるなど、不可能のように思える。

「本当の本当に微量な雷を、一度だけ落とすのだよ。それこそ、金属に触ったら痺れる程度のものだ」

 古典塾の記憶が回想される。怪異を解決した後に、ドアノブに触れた瞬間、私は静電気を起こした。あれは偶然ではなく、怪異の仕業だったというのか。

「それくらいの電気で人は死なない。ただ、ストレスや睡眠不足で弱っている生徒なら、突然の痺れを眠気だと勘違いして、またはその痺れ自体が、弱っていた生徒を直接金縛りに陥れたのだろうな」

 私は、教育者である森本先生のことを信じていた。しかし、生徒にまで危害が加わるならば、容赦はできない。

「気付いていたなら、なぜその時に教えてくれなかったのですか」

「成田、お前は『雷』という文字が書いてあるから雷が落ちた、と言われて信じようと思うか。あの時点では、まだ客観的な証拠が足りなかったのだ」

 なんとも静かで平然たる様子だ。対して、私は穏やかじゃない。

「すぐに追いましょう。生徒が落雷に遭ったら心配だ」

 逸る気持ちが抑えきれない。ミツルは苦笑いで諭す。

「成田、一番大事なのは焦らぬことだ。一つ一つ解決するのだよ」

 とはいえ、何度も雷が降れば、甚大な被害が及ぶかもしれない。瓦屋根と木材で形成された京都の街だから、尚更。しかし、彼はやけに落ち着いている。

 急に松平さんが、そうだ、と声を上げる。

「ミツルさんが持ってきた、あの建造物。わざわざ持ってきたのならば、意味があるのでしょう。立入禁止は解除するべきでしょうか」

「否。むしろ、これ以上ないほど強固に封鎖せよ。誰も近寄らせるな」

 昨日の夕方、ミツルが喋っていたことを思い出した。塔の周りを無人にしてほしい。つまり、塔の周りは危険ということだ。藤原は雷を起こせる。その雷と塔を結び付けるもの。

 ここで私は、やっと、塔の存在理由に気が付いた。

「ミツル、あの塔が高い理由って、もしかして」

「やっと気付いたか、成田」

 私は走り出していた。後ろからも、多くの足音が聞こえる。階段を急ぎ足で降りた。玄関に向かう。仮説が正しいことを、一刻も早く知りたい。好奇心が騒ぎ出した。

「私が確認した中で、『雷』と書かれた建物は二つ。私が平安からやってきたという事実が、奴を急かしたとするならば、これ以上『雷』の字はないと信じたいものだ。そうなると、自然の摂理は、正しい方向に歩き出すのだよ」

 玄関を抜けると、黒い雲が目に入る。雷の暗示だ。また落ちた。視界が光り、遅れて雷鳴。更にもう一度。

 だがしかし、雷は全て同じ場所に落ちている。天から最も近い場所に。

「あの塔は、避雷針だったのか」

 ミツルが平安から持ってきた塔が、全ての雷を受け止めている。京都タワーよりも遥かに高い塔が、まっしぐらに怪異に立ち向かっている。

 私は、ふっと振り向いた。数日前、初めて旅館を訪れた時の視界と同じだ。その時にも、ミツルは話していた。木材は雷に弱いと言われているが、木材自体は雷を通さない、と。あの塔の下から五メートルは木造だった。それ以外は、鉄。

「平安時代には、避雷針はなかったはずです。どうして避雷針を作れたのですか」

「避雷針。というと、あの塔のことか。平安にいた頃に、藤原が起こすであろう怪異が雷であると仮定し、それを対処する方法が、とにかく大きな建造物を作ることだと気付いて、平安の人々と共に作ったのだ。米を集める傍らでな」

 令和には建物を作るために、重機や先進技術が使われている。一方で、ピラミッドのように、昔に建てられたのにもかかわらず、現代建築に劣らないスケールの建物も存在する。ミツルが持ってきた塔も、平安時代の知識と労働力を寄せ集めて作られたのだろう。

 ミツルは、塔の近くにある京都タワーを見つめている。

「令和に来たら、似たような塔があって驚いたものだよ。だが、こちらの方が大きくて安心した。平安の者が起こした怪異は、全て平安に持って帰るのだからな」

 かっかっか、と笑うミツル。その彼を、松平さんは懐疑的な目で見つめていた。何を考えているのかは気になったが、それを問いただすのは無粋のように思える。

「さて、山岸。頼んでいた家系図はできたか」

 山岸さんは、もちろんです、と答えて旅館に戻っていく。数日前に泊まった時、確かにミツルは家系図を書いてほしいと頼んでいたが、どうしてこのタイミングなのだろうか。友人の私にも理解できない。きっと気分屋なところがあるのだろう。

 ほどなくして、山岸さんが、巻物仕立ての家系図を持ってきた。山岸の家系図は正確なんやで、と五十嵐さんも言っている。

「成田。お前は不思議に思っていたな。平安から来たと言わずに、どうやって私の家系図を作るのか。スタートが分からなければ、家系図は作れない。確かにそうである」

 ミツルは、その家系図を見ることなく、未だに懐疑的な目を続ける松平さんに渡した。これにお前の知りたいことが載っている、と告げて。

「始まりが分からないなら、終わりから書けばいい」

 ミツルはそう呟いた。始まりと終わり。家系図でその考えを適用すると、先祖ではなく、子孫から書き始めることになる。つまり、ミツルは山岸さんに、逆から家系図を書くように依頼したのだ。

 次第に、松平さんの手が震え始めた。瞠目しながら、有り得ない、と声を漏らしている。

「あなたは、九〇三年に亡くなったはずだ。どうして藤原道長を知っているんですか」

「言ったであろう、歴史は嘘をつく。私はな、左遷された後に、時間旅行切符で新しき時代の平安に飛んだのだよ」

 そんなの、史料で見たことない。呟きながら、彼は苦しそうに呼吸する。

「プライドの高い松平のことだ。お前を味方にするには、これしかなかったのだよ」

 まるで子供のように口元を緩めながら、ミツルは松平さんの肩を組んだ。

 私の洋室の光景が、蘇ってくる。ミツルは、文字が比較的少ない家系図のページで手を止めて、それをまじまじと見ている。彼が、徳川家康、と呟いている。あの光景。

「成田の家で見た家系図に、こんなことが書いてあった。松平と徳川は血の繋がった関係。そして、徳川の先祖となる一族がいる、とな。その一族の苗字が、どうにも見覚えしかないわけだ」

 松平さんは、おもむろにミツルの方を向く。

「ミツルさん、いや、違う……」

 肩で息をしながら、かの市役所職員は呟いた。

「ぼくは、菅原道真公の子孫なのか」

 ミツルが大きく頷くと、松平さんは勢いよく彼を抱きしめて、獣のように泣き喚いた。

 菅原道真。令和では、学問の神様として崇め奉られている存在だ。京都にも、彼を祀る北野天満宮という神社が存在する。しかし、藤原の一族による讒言により、現在の九州に飛ばされた。藤原との因縁は、ここから始まったといわれている。

 ふと、私は、ミツルが一度も名前を名乗っていなかったことに気付いた。私が確認したのは、塔に彫ってある「アマノミツル」だけ。あれは表札だと思っていたから、彼の名前はアマノミツルだと思っていた。

 いや、待て。「アマノミツル」は、漢字で、天満。天満宮。まさか、自分が菅原道真ということを既に暗示していたというのか。しかし、北野天満宮は菅原道真の死後建てられた。なぜミツルが存在を知っているのだろうか。違う。ミツルは時間を飛んだ。だから本人が北野天満宮を認知しているのだ。

 混乱してきた。疑問で頭の中でパンクしたので、ひとまず少しだけ吐き出すことにする。

「どうして、平安から平安に時間を飛んだのですか」

「私が消えた後の平安で、藤原が絶大な権力を持っているかもしれない、と不安になったのだよ。予想は的中してしまった。幸運や悪運やら」

「その時に使った時間旅行切符は、どうしたのですか」

 ミツルは、力の入らない松平さんを支えながら、苦笑いで答えた。

「当時、歴史について研究したがっていた者がいたから、譲渡したよ。もう帰ることもあるまいと思ってな。結局、元の時代で忽然と姿を消した私は、その後に死んだと言われていた」

 松平さんは、片手に巻物を持っているせいか、上手にミツルと抱擁できていない。そこで私が持ってあげると、彼は本来の感動を、苦しさをもってミツルに伝えるのであった。

「家系図で人を幸せにできたのは、これが初めてです」

 山岸さんが笑う。場の空気を汲み取ってか、五十嵐さんは、彼に京言葉を使うように指示はしなかった。

「松平、お前は私の子孫だ。子孫なら、ご先祖様が怪異を止めようとしているのに、協力しないのだろうか」

 ミツルが、何を言わせようとしているか分かる。なぜならば、私が国文学者だからだ。

「いや……します。協力させてください」

 言いたいことを強調するために、あえて反対のことを問う。反語だ。なんともミツルらしい口調である。

「さて、そろそろ行かねばならぬ。しかし、菅原の血を継いでいない者を、この怪異に巻き込むわけにはいかない。とはいえ、成田。お前は地獄までついてきてもらうぞ」

 はいはい、と苦笑しながらも、最初から退くつもりなどなかった。狐の鳴く夜に誓ったのだ。彼を一人にはさせないのだと。

「山岸、五十嵐、世話になった。ありがとう」

 ミツルが言う。山岸さんが、いえいえ、と頭を下げているから、五十嵐さんも同様にしていた。令和の時代に生きているのに、会話に置いてきぼりにしてしまったのは申し訳ないと思っている。

「全然ついていけへんかったけど、あの山岸の手を掴んだ人が落書き犯なのよね。せやったら、こてんぱんにしておくれやす」

 はい、と私が言うと、おきばりやす、と返ってきた。京言葉で頑張れと言われたので、私は頑張る以外何もできないだろう。

 空が光った。

 私は目を瞑る。

 雷が鳴った。

 私は深く息を吸い、巻物を握りしめる。

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