雲隠、源氏物語物語

 私が、三人目にして、最後の時間旅行者である。

 利口なミツルのことであるから、私が何者であるのかを察したのだろう。彼は頷きながらしゃくりあげている。何が起きているのか分からなかった松平さんも、次第に状況を把握して、まだ怪異を止められる可能性があることを知った。

「その、黄色い切符が本物の切符なのですね。よかった。これで藤原を平安に飛ばせる」

 ただ、話はそう簡単ではない。私は千年前から来たのではなく、千年後から来たのだ。ミツルに握らせた切符にも、「西暦三〇二〇年→西暦二〇二〇年、千年前」と記されている。

「この切符で三〇二〇年に戻り、それから平安に行く。いわば、乗り換えが必要なわけですか」

 松平さんも、歴史に対する独自の誇りを持っているだけで、本来は物事を柔軟に捉える人である。ただし、時間旅行切符は「指定した西暦に飛び、来た時代に帰れる道具」ではなく、「現在西暦と目的西暦の間を往復できる」ものだ。今回の例だと、私は三〇二〇年から京都に飛んだが、切符を使って帰るのは数年後の三〇二三年となる。

 それを説明し終えると、松平さんが神妙な面持ちで尋ねてきた。

「そもそも、なぜ令和の時代に来たのですか。まさか、成田さんも藤原を止めに来たとか」

 即座に首を横に振った。私が人の野望を止められるほど勇敢な性格だと、彼は本気で思っているのだろうか。

 ならばどうして、と興味津々な松平さん。自分のことを知られるのは悪いことではない。意気揚々と答えようとするものの、ミツルは勘づいたようだ。そこで、彼に言わせてみる。

「三〇二〇年からすれば、令和は昔々の時代。つまり成田は、令和の古典を研究しに来た三〇二〇年の国文学者。違うだろうか」

 違わない、と肯定した。つくづく、彼は私の正体など既に看破していたように思える。多少なりとも不信感はあったのだろうか。

 そういえば、思い当たる節がある。国文学者ではないのか、と彼が呆れた出来事。平安の書籍が一つもなく、昭和から令和までの文学だけを揃えた私の本棚。聡明なミツルのことだ。その時点で察していたとすら考えられる。

 とはいえ、今後の策を練るためには、私の素性を私が明かさなければならない。自分の話は苦手ですが、と前置きした上で、令和に訪れてからの約三年を語る。


 京都に引っ越して、もうじき三年となる。

 激しい雷雨の中、大切な友人を元の時代に残し、私は令和に向かった。

「帰ってきたら、楽しい話を聞かせてくれたまえ」

 友人の言葉を回想する。彼は菅原という名の歴史学者だ。私と同行したいとすら話していた。ただ、それは叶わなかったのだから、余計に虚しくなるだけだった。

 土産話は沢山集まった。だからといって、仕事も疎かにはしていない。私は国文学者。専門は令和の古典だ。とはいえ、令和の時代に需要があるのは平安の古典。ただ、専門ではないにしろ、高校生に教えるだけの知識はある。だから私は、三〇二〇年の慶鈴の時代から持ってきた建物を、塾としたのだ。

 慶鈴と令和では、使っている言語は似ているものの、微妙に意味合いが異なることもあるようで、古典塾の生徒からは、しばしば日本語が下手だと指摘された。また、慶鈴では新たなる史料が見つかったとして、令和と年号が違うこともあるらしい。慶鈴では「清涼殿落雷事件」は九二五年とされているものの、令和では九三〇年だ。道理で松平さんと意見の相違があったわけである。

 スマホをあまり使わない理由は、よく分からないから。慶鈴の時代には、思考を読み取り自動で操作できる情報端末が一般的だ。たとえ人差し指一本で操作できたとしても、指すら要らない道具のそばで育ってきた私には、ただ面倒で億劫な玩具でしかないのだ。

 慣れない時代で暮らす困難は多かれ少なかれあった。今では安泰な古典塾も、最初はミツルの件と同様に、違法建築として訴訟されたのだ。ただ、裁判の直前になって、古典塾に生徒を預ける親御さんからの反発により、なんとか撤去を免れたのである。法律よりも子の教育に力を注ぐ大人の言葉は、論理に対抗し得る数少ない手段だろう。

 その大人たちから、講師が塾に泊まるのは教育上よくない、と言われて現在の賃貸に暮らすことになる。貯金は飛ぶものの、古典塾を守ってくれた方々に歯向かえやしない。つくづく、子持ちの大人は狂戦士に似ているとすら思う。

 ただ、様々な制約に縛り付けられてでも、令和に飛んで後悔したことは一度もない。令和の古典に加えて、京都の街自体が歴史の産物なのだ。守りたいと思った。国文学者たる私にとっては、夢のような時間。そして、夢から覚めなければならないということも、とうに理解していた。


 私は、一通り語り終えた。

 ふと、慶鈴の時代で別れた友人を思い出し、目頭が熱くなる。ミツルを除けば、彼が唯一の友人だった。腹の底にある感情で語り合える彼とは、もう何年も話していない。

 思うに、また会えるから寂しいのだ。孤独が満たされないと最初から分かっているならば、記憶は心の押入れにしまっておける。それをしないのは、再会した時に、すぐさま感情を受け止めてほしいから。

「時間旅行切符。元の時代に帰る際には、持ってきた建物も一緒だ。つまり、今から私は古典塾に向かわなければならないのだな」

 声だ。ミツルの独り言に違いない。彼に目を向けると、彼はあごに手を当てている。熟考しているのだろう。しばらく経った後に、彼がもう一度口を開く。

「松平、何か書くものはあるか。できるだけ大きい紙が欲しい」

 松平さんはボールペンを取り出すものの、肝心の紙がない。歩き回りながら逡巡して、ふと、彼は立ち止まった。

「家系図の裏。巻物になら、何か書けるかもしれない」

 それから、彼は三光門の方へ走り去る。車の中から家系図を取りに行くのだろう。せっかく山岸さんが作ってくれた家系図とはいえ、背に腹は代えられない。もしも家系図を返すよう要求された際には、私が謝罪しよう。

 ところで、ミツルは何を記そうというのだろうか。たとえば、突然お絵描きがしたくなったというのならば、私は山岸さんに土下座をしなければならない。しかし、ミツルは真面目な状況で不真面目なことをしない人物だと知っている。なぜなら、私が彼の友人だからだ。

「持ってきました」

 へとへとの松平さんに礼を言い、ミツルはボールペンをノックする。カチッ、という機械音。飛び出す鋭い先端。筆以外で文字を表せる平安時代の人間は、彼以外にいない。

 石畳に家系図が置かれた。人物相関図が石畳を向いている。ボールペンが、巻物に黒いインクを付け始める。心配性の私だから、山岸さんに詫びなければいけない、という感情は確かに存在する。だがそれ以上に、山岸さんも分かってくれる、という都合のいい解釈で、私の中の臆病を押し殺していた。

 空を支配する黒い雲が唸り、ぽつぽつと涙を流し始めた。雷はとうに慟哭したというのに。

 私はコートを脱いで巻物の上を覆い、ミツルの策略が水に流れないように努めた。髪も視界も雨で支配される。しかし、私は風邪を引いても構わない。友人を一人にはさせない。

「松平。この巻物を、千年間保管しなさい」

 数分経って、ミツルが言った。どうにも中身が気になって、コートを避けようとするものの、それでは巻物が濡れてしまう。読むか読まないか躊躇していると、私の様子を見兼ねたのか、ミツルが内容を音読してくれた。

「三〇二三年、五月二十六日。平安の地にて、古典塾から藤原道長が出現。即刻確保せよ。時間旅行切符を使用して平安に送り返すべし。なお、平安には古典塾を持って行くこととする。役目を終えたらすぐに帰還せよ。また、三〇二〇年から、菅原家が切符で飛ぶことを禁ずる。二〇二三年、菅原道真」

 コートがはらりとめくれて、ちらと見えた巻物には、ミツルが話したことよりも多くの文章が書かれていた気がした。ただ、それ以上に私の興味を集めたのは、明朝体で書かれた、大きなレタリング文字のようなもの。

 私は、震える声で、ミツルに問うた。

「『予言書』と、書いているのですか」

 書きたくなるだろう、と彼が苦笑した。

 予言書。私の友人である菅原は『予言書』が原因で、令和に飛べないと語っていた。つまり、この巻物が、千年の時を越えて、菅原の元に渡ったというのか。

 藤原を止めるというのか、彼が。

「成田の友人とは、すなわち私の子孫だろう。成田と共に令和へ飛ばない限り、きっと従ってくれよう。なぜなら、私は祀られるほどの有名人で、子孫は歴史学者だからだ」

 千年の縁か。ミツルが小さく呟いて、また続ける。

「私と藤原が千年後に飛び、その時代の子孫と共に平安へ飛ぶ。私たちが古典塾から離れて、子孫が元の時代に帰れば、この戦いは終わる」

 私は頷く。油断禁物だが、今度こそ、黒い雲の中から一筋の光芒を観測した。

 さて、問題は古典塾に向かう手段である。私たちは境内で話し合う。松平さんの車はパンクして使えない。タクシーを呼ぼうにもお金がない。同様の理由でバスも無理である。徒歩だとミツルの体力が持たない気がしてならない。しかし、本殿の前で立ち止まっていても仕方がないので、一旦、北野天満宮を出た。

 雨が激しくなる。これでは、三人とも体を冷やしてしまう。だが、これ以上頭を捻ってもいい案が思い浮かばない。黙っていては、いずれ塔が雷の含有量を超えてしまうだろう。

 歩くしかない。ミツルが一歩、水溜まりに踏み出した時だった。

 人力車が、一台停まっていた。京都を周った時に乗った、あの人力車だった。

「言ったでしょう」

 あの時と変わらない風貌。深く傘を被った車夫が、私の前に歩み寄る。

「人力車は、雨でも雪でも走る」

 しかし、私たちはお金がない。それを伝えても、車夫は乗ってくださいの一点張り。何が彼を駆り立てるのだろうか。無賃乗車をするのは不甲斐ないものの、それを悠長に気にしてはいられない。

 ただ、人力車は二人乗りである。ミツルは絶対に乗るものとして、もう一人は、私か松平さんかだ。塔でミツルと出会った時に、どちらの家に泊まるか、と松平さんが尋ねていたことを思い出す。あの時、ミツルは私だと即答していた。彼が後に続けて発した「安らぎすらある」という言葉は、私が藤原である可能性を追うと共に、松平さんが子孫である見込みも同時に示唆していたのかもしれない。

「お二人が乗ってください。ぼくは予言書を千年間守らなければいけない」

 ただ、今回、松平さんが尋ねることはなかった。彼は千年後まで予言書を保管する必要がある。仮に人力車が三人乗りだったとしても、藤原の元に出向いて、弱点を晒すようなことは考えない。

 ミツルが人力車に乗ると、松平さんは、深くお辞儀した。

「後は託します、菅原道真公。体に気を付けて」

 再び顔を上げた彼の目は、すっかり腫れていた。ミツルが菅原道真と発覚してから、彼との別れに至るまでに、どれほどの葛藤と寂しさを雨の中に隠していたのだろうか。

 人力車に乗り込んで、ミツルの隣に座った今の私には、もはや分かるものではない。

「京都の歴史を、どうかお守りください」

 車夫が走り出す。松平さんが遠ざかる。彼のワイシャツは、とうに肌色を映し出す。巻物を守るように、ずっと、腹に両手をうずめている。

 私は前を向いた。子孫たる松平さんを置いてまで、私はミツルと同行しなければならない。目的地は、古典塾。森本先生と語り合ってきた古典塾で、最後の決戦を迎えるとは、なんとも皮肉な話だ。しかし、皮肉屋の森本先生には、丁度良いのかもしれない。

 ふと、車夫に行き先を伝えていないことに気付いた。それでも走り出しているのは、いわゆる準備運動だったのだろう。泥まみれの車夫に、私は声をかける。

「古典塾まで、お願いできますか。できれば、急いでほしいのです」

 言ってから、はっとした。古典塾という場所は、受験生以外には知名度があまりないはずだ。住所とか、観光地の近くとか、そういったもので伝えた方がよかっただろうか。

 ただ、人力車は戸惑うことなく加速した。雷が鳴り、人も車も疎らな京都で、最も速くて勇ましい車夫。轟きに怯まず、まっしぐらに進む人力車。閃光のようだった。

 私は今、人力車に乗っている。それにもかかわらず、どうしても運賃が頭をよぎる。心配性なのだ、私は。

 ぜえぜえと息を切らす車夫に、申し訳ないと思いながらも、声をかける。

「あの、今、本当にお金がありません。一文無しなのです」

 車夫は限界だったのだろう。むせ返りながら、一度足を止める。何度も肩で息を吐く。ミツルも心配そうにしているものの、前だけを向く彼には分からない。

 やがて車夫は、重い一歩を踏み出しながら、喋り始める。

「前に、払いすぎていましたよ」

 払いすぎていた。そのようなことはない。車夫が話しているのは、ミツルと京都を周った時の運賃だろう。ただ、私はきっかり二人分払った。財布から大金が消えたのだから、その金額くらい覚えている。

 ただ、彼は静かに首を振って、また加速し始める。

「二人分じゃない。一人分でよかったのです」

 人力車が、泥の中を進む。

「あなたは、お客様じゃなくて」

 車夫が、泥で汚れる。

「ぼくの先生でしょう」

 たった一度振り返った、彼の表情。

 無理な笑顔と、隠しきれない苦悶。忘れることは一度たりともない。最初の古典塾、たった一人の生徒。

 吾妻くん。

 走る人力車。走る車夫。ただ見つめるだけの私。空が見えない。人力車の屋根が、私とミツルを怪異から守ってくれている。吾妻くんが、泥のまま猪突猛進に。

「先生、ぼく、車夫に、なったんです」

 京都の歴史を継ぐ仕事。息を吐くのと同時に、彼が走りながら語り始める。無理をするな、と私は叫びたい。だがそれ以上に、生徒に寄り添うのが、講師たる私の仕事だ。彼が叫びたがっているのだ。だから私は、何も言わずに受け止めなければならない。

「先生、褒めてください。ぼく、立派でしょ。すごいでしょ」

 彼は、五人兄弟の長男。大学に落ちた時も、夢が破れた時も、家族には弱い部分を見せなかったのだろう。だから今、古典という繋がりしかなかった私にすら、称賛を要求しているのだろう。どうして私は、そのことに、たった今気付いてしまったのだろうか。

 もっと早く彼に寄り添っていれば。彼は大学で学び、私たちは徒歩で古典塾に向かっていた。吾妻くんを泥まみれにしなくて済んだ。

 それなのに、彼は働いて、私は人力車に乗って、吾妻くんを泥まみれにした。

「先生」

 人力車が停まった。古典塾の前だ。大学に落ちたのだから、塾すら心の傷になっていてもおかしくないというのに。

「京都って、本当に歴史をそのまま残したかのような街ですね」

 喋りながら、彼は私とミツルを降ろしてくれる。吾妻くんは平安時代の言葉が使えないからか、空気を慮っているからか、ミツルは無言である。それは正しい。今は、生徒と講師の空間だ。

「お客様を乗せて、京都を周る度に、ぼくは思うんです」

 吾妻くんが、私の手を握って、目を見据える。

「歴史を絶やしてはならない。絶対に」

 物語を絶やしてはならない。森本先生の言葉が蘇る。私が硬直していると、吾妻くんは手を離し、何も言わずに走り去ってしまった。

 彼に寄り添えられなかったこと、それは生涯でも一番を争うほどの悔恨だ。しかし、彼は立ち直り、車夫として立派に京都の歴史を受け継いでいる。しかし、あろうことか、古典塾の森本先生が雷を起こし、京都の街に怪異をもたらしている。

 私は今度こそ、吾妻くんに寄り添わなければならない。

 雷が鳴る。


 黒い雲はついに消散しなかったものの、雨は小降りになっている。私を覆う薄気味悪さが、夜の訪れを告げ知らせる。私は石畳の上にいて、水溜まりのない場所で雲を見上げていた。

「さて、藤原を呼ばねばならぬ」

 ぽちゃりと水溜まりに足を入れながら、隣にいるミツルが話す。彼が森本先生を苗字で呼ぶことは、二度とないだろう。対して、私はまだ彼の偽称を引きずっている。

「しかし、どう呼ぶというのです。森本先生にとっては、ただ雷が落ちない場所で待機するのが得策でしょう。それに、森本先生という存在が、全部演技だったとしたら……」

 私がまだ森本先生を森本先生と呼ぶのは、心のどこかで、彼が藤原ではないと思いたかったからかもしれない。授業をして、教育を語って、生徒を想っていた森本という人間。それが丸ごと嘘だったのだと受け入れることは、私にはまだ難しい。たとえ彼が、怪異を起こすために生徒を利用したとしても。

「藤原も同じ人間。笑ったり泣いたり、恋もする。たとえば、眠りから覚めた時や驚いた後には、ぽろっと、本物の藤原が現れたりするものであるよ」

 ミツルが言った。冷静ではない時の森本先生。私には、あまり想像できない。彼はいつも皮肉屋で、皮肉を言えるということは、心に余裕があるということ。少なくとも、塾で会った時に、彼が彼である証拠は落とさなかったようにも思える。

「直接会ったことのない私よりも、成田の方が、本物の藤原を見てきたはずだ。成田、お前の記憶だけが頼りなのだよ」

 本物の彼は、塾の中には見当たらない。、ふと、ミツルの推理が外れていたらと考えてしまった。藤原はとっくに帰っていて、雷が立て続けに降る怪異も、何らかの科学で証明できたら。そのような理想が叶うならば、私はどれだけ楽になれただろう。

 しかし、それではいけない。私は託されたのだ。旅館の二人に、松平さんに、吾妻くんに京都を託されたのだ。森本先生を一番よく知るのは私だ。私が考えなければ、全てが水の泡。小雨に打たれながら、ひたすら唸る。

「塾の中にいないのならば、塾の外で考えるべきか」

 そう呟いた時だった。私は、森本先生が藤原になった瞬間が、たった一つおぼろげに浮かんだ。ずっと雲に隠れていたはずの月が、煌々と辺りを照らし始める。

「ミツル。京丹後市の海、覚えていますか」

「覚えている。藤原は、切符を燃やしていたのだよな」

「ええ、そうです。そうですが、森本先生にとっては、私たちと遭遇するなど想定外」

 京都市から最低限の移動で、切符を処理しようと京丹後市に向かった森本先生。しかし、不運なことに、私と鉢合わせてしまった。

「まるで蜘蛛の糸のように、緻密に張り巡らされた嘘には敵わない。しかし、たまたま同僚と、自分を止めに来た男に遭遇したとしたら、嘘は簡単に瓦解します」

 森本先生が皮肉屋なのは今に始まった話ではない。しかし、皮肉は心に余裕があって実行できるものだ。切符を燃やしている最中に、切符の持ち主と邂逅したとして、果たして余裕でいられるだろうか。いや、いられない。

「ただ、簡単に嘘をつく方法は、少なからず存在します。その一つとして、嘘に真実を混ぜる方法」

「つまり、成田。本物の藤原というのは……」

 私は頷いて、記憶の中からひときわ輝く真珠を手に取った。

「森本先生には、本当に想い人がいて、手紙を燃やしていたのです。だから私たちは、想い人を誘拐した、という嘘の脅迫をすればいい」

 我ながらむごいと思った。ただ、ミツルの使命を果たすには、森本先生を傷付けなければならない。一切泥で汚れないわけにはいかないのである。

 ミツルも、もはや手段を選ばないようだ。私に同意して、彼に連絡を取るよう指示した。

 コートのポケットからスマホを取り出す。スマホを使うのは慣れないが、今は仕方ない。雨に濡れていたものの、水没はしていないようだ。

「そういえば、成田。想い人が誘拐されたと、どうやって藤原に信じさせるのか。本当に想い人を連れてくるのは不可能だ。何か策があるのだな」

 私は頷く。当たり前だ。策がなければ、慣れないスマホを操作してまで森本先生を呼ぼうとは思わない。

 ふと、松平さんの車に乗っている際に、ミツルが話していたことを思い出す。

 人が物事を恐れる理由は、得体が知れないから。自分がその力を手にしたら、畏怖は傲慢へと変貌する。

 それを頭の中で繰り返しながら、電話をかけた。相手はもちろん、森本先生である。もはや連絡など通じないだろう、と一瞬思ったからだろうか。電話が繋がった時には、動揺の声すら漏れてしまった。

「成田先生。どういうことだ」

 森本先生だ。怒りの声である。皮肉はない。雷が全て塔に集中しているからか、京都が全く壊されていないことに腹を立てているのだろうか。ただ、そうだとしても、私がやるべきことは変わらない。

 今は夜である。私はただ無言で、それが来るのを待った。

「何をした、成田」

 苗字を呼び捨てにされる。満月の夜に狼男が唸るように、森本先生が正体を現していく。数年も共に生徒を教えた同僚だというのに、未だに彼のことは理解できていないように思えた。

 ふと、私の視界に眩いものが入り込む。二つセットの光。

 期待通りだ、と思った。すぐさま光に駆け寄る。石畳の道を外れて、足元を泥だらけにする。少年時代のような心地。冒険といたずらに明け暮れて、涙が出る度に母に抱きついた頃の、あの心地。

 私はとうに大人になってしまった。母は亡くなり、想い人もおらず、友人も慶鈴の時代に置いてきた。ただ、今だけは子供に戻らせてほしい。いたずらがしたい気分だ。

 近くで、きゃう、という鳴き声が響いた。狐の声だ。私はこの声を、女性の叫び声だと勘違いしたことがある。ミツルに指摘されなければ、狐の鳴き声自体を疑うことなどなかっただろう。

「成田、これは、誰の叫び声だ」

 森本先生は、誰、と聞いた。これが狐の声であることは、指摘されなければ分からないはずだ。一度は恐れたものを、今度は他人を騙すために利用する。畏怖は傲慢へと変貌するとは、よく言ったものだ。

 最大限の冷静を保つべく、唾を呑み込んだ。その間にも、狐は自由に鳴いている。

「聞こえますか、この叫び声が」

 人を騙すのは慣れないものだ。声が震えているかもしれない。それを察してか、ミツルは肩に触れてくれた。幾分か正常を取り戻す。

「平安時代に飛んで、あなたの想い人を誘拐しました。今すぐに落雷を止めて、一人で古典塾に来なさい」

 私は、ただの一度も生徒を叱ったことはない。それだからか、初めて強い口調を使う人間が、生徒ではなく講師だということに、私自身が驚きを隠せなかった。

 スマホから声は聞こえない。ただ、少しは頻度が落ちたとはいえ、落雷が収まったと断定するには時期尚早だろう。これ以上狐の鳴き声を聞かせたら、落雷を止めても無駄だと思ってしまうだろうから、私たちは古典塾の中に入ることにする。

 森本先生の返答があったのは、古典塾の電気を付けた時だった。

「俺の想い人の名前を、ここで、言ってほしい」

 想い人の名前。思わず、ミツルと目を合わせた。私は記憶を辿る。藤原道長の妻は、一人ではない。ただし、想い人は妻でもない。どこにも答えがない質問のように思える。

「分からないなら、今すぐ訊くんだ。そこにいるのだろう」

 想い人など、ここにはいない。本当は平安時代に飛んでなんかいないし、誘拐なんてもってのほかだ。森本先生にも、私が誘拐を実行できる人間だとは到底考えられないのかもしれない。

 途端、森本先生の言葉が、頭の中をよぎった。

「この手紙だけは、やはり、燃やせないな。俺は光源氏になれない」

 頭で考えるよりも早く、私はスマホに向かって声を発していた。

「紫式部。それしか、彼女は話してくれません」

 紫式部の本名は明かされていない。令和から千年経っても、未だに紫式部という呼称が定着している。調べようとする同僚はいたものの、成果を上げるには至っていない。

「成田、お前、一体何を」

「叫び声をあげる程度のことです。確かめたければ、自分から来ることですね」

 これ以上は誤魔化せない。電話を切って、体中に酸素を取り込んだ。来るかどうかは分からない。思い返すと、苦し紛れに放った紫式部が蛇足だったかもしれない。脅迫した時点で電話を切っていても、彼の不安を十分に煽れたはずだ。後悔ばかりがうずめいて、森本先生を慶鈴に送る準備ができない。

 無性に、なぜ森本先生が怪異を起こしたのかが気になってしまった。たとえば、藤原の名を数千年後も継ぎたいのならば、令和よりも先の時代に行くべきである。そもそも、子孫を残せばいいから時間を飛ぶ必要性すらない。考えれば考えるほど、森本先生の動機だけが、暗闇に紛れて見えなくなっていく。

「ミツル、私に切符を預けてくれますか」

 気付けば、そう口に出していた。ミツルも提案を素直に受け入れる人間ではない。藤原に情が移ったか、と皮肉を言われる始末である。

 それでも私は、事件を間近で見届けた者として、真実が知りたかった。悪い知的探求心だということは分かっている。一度古典塾に来た森本先生が、隙を見て逃げ出す可能性もあるのだ。

 だとしても。私は、同僚として、生徒を利用してまで怪異を引き起こした理由を知らなければいけない。頭を下げて、ミツルに頼み込んだ。

 しばらくの沈黙。静寂を打破したのは、かっかっか、という彼の笑い声であった。

「私は平安に帰ってから訊けばよいが、成田はそうもいかないな。三〇二三年に留まらなければならないのだから」

 手に熱がこもった。何かと思って見ると、ミツルに、私の手を握られていた。角張った黄色い切符も、私の手に渡っている。

「成田はもう、私がいなくとも大丈夫だ」

 私がいなくとも。現実を理解して、突然心に穴が空いたかのような虚しさに襲われた。目が腫れた松平さんの姿が、次第に私の中で創造された。

 古典塾の玄関に立ち、二人で彼を待ち伏せする。ミツルと何かをするのも、今回で最後となるのだろう。藤原を特定した昼間も、私が正体を明かした夕方も、古典塾で寂寥を感じ取った夜も、数時間前、それこそ数分前のことなのに、途端に過去の記憶へと格納される。扉を睨む彼の振る舞いだって、明日には思い出になってしまう。濡れた服も、黄色い切符も、なにもかも。

 寂しいと分かっていたのならば、最初から経験しない方がよかったと考える日だってあった。でも、彼と過ごした毎日が太陽のように輝いて、予定調和を捻転したいと何度も思った。

 ミツルが、何も話さないことだけが救いだった。これ以上何か喋ると、私はまた臆病になってしまう。彼がいなくとも大丈夫ではなくなってしまう。

 それでも、この数日間が私たちにとって、スノードームのように煌めいてほしいと思った。だから、私にも聞こえないように、ありがとうと呟いた。

 その瞬間、ぎい、と扉が開く。森本先生だ。

 ミツルはすぐさま彼の腕を掴んで、古典塾の真ん中へ連れて行った。

「無駄であるよ。古典塾に書かれた『雷』は、とうに消した」

 痛い、と森本先生が顔をしかめたほどに強引だったから、ミツルが抱える憎悪は、私が想像する何倍も膨大だったのかもしれない。その一方で、森本先生に逃げられる可能性があるにもかかわらず、私の意見を尊重してくれた。よくできた友人であると感じる。

「想い人などいない。お前は騙されたのだよ、藤原」

 吐き捨てるミツル。ただ、森本先生は何もかも見越していた様子だった。

「そうだろうな。だが、万が一、彼女が危険な目に遭っているなら、騙されたって構わないと思ってしまった」

 彼は、右手に手紙を持っている。見たことがあった。森本先生が、海で唯一燃やすことのできなかった手紙だ。

「それは、『雲隠』の巻ですね」

 直感である。ただ、森本先生は静かに頷いた。彼の持つ手紙の中身は、源氏物語で長年見つかっていないとされる、雲隠の巻だ。

「それを持って、令和で何をしに来たか。なぜ怪異を起こしたか。言え」

 ミツルの声は厳しい。彼が源氏物語を知らないということもあるが、やはり森本先生に対する憎悪が拭い切れないのだろう。

「俺は」

 森本先生が、一度大きく溜息をつく。緊張を和らげるためだろうか。彼がいつ逃げ出すか見計らう私とミツルも、同様の状態にあるだろう。それを知っているか否かは定かではないものの、犯人は降伏したように告げた。

「彼女が遺した源氏物語を、永遠のものにしたかった」

 源氏物語。作者、紫式部。

「俺と彼女は、お互いを想っていた」

 源氏物語は、平安時代に書かれた小説で、紫式部の唯一の作品である。

「俺には妻がいて、彼女には夫がいた。だが、愛し合ってなんかいない。宮中で都合のいいように利用させられた。ずっと、彼女を愛していたのに」

 主人公の光源氏は、幼少期から容姿と才能に恵まれた男性だった。

「直接彼女に会えるのは、物語を書いてもらうために、紙を渡す時だけだった」

 ヒロインの一人である紫の上は、光源氏からめっぽう愛された女性だった。

「手紙が届く度に、紙を渡せる瞬間が待ち遠しかったものだ。部屋を訪れて、誰よりも先に物語を見せてもらう瞬間が、いっとう好きだった」

 紫式部という呼称は、紫の上から取られたという説がある。もしも、光源氏のモデルが貴族たる藤原道長だったとしたら。

「でも、彼女は亡くなった。殺されたんだ」

 紫式部は、三八歳でこの世を去っている。世の中には、源氏物語の終わり方が中途半端だと揶揄する人々も存在する。紫式部が殺されたとなれば、不謹慎だが、納得がいく。なぜなら、物語が絶えてしまうから。

「白い服を着て、黄色と白色の札を持った集団だった。『過去の作家を殺したら、戻った先で作品は残らない。これは学問のための犠牲です』と言いながら、奴らは忽然と姿を消した」

 現在も源氏物語が語り継がれていることから、殺人犯の目論見は失敗に終わっている。想い人を奪われた男だけを残して、何もかも歴史の中に埋もれてしまった。

「俺は不安になった。作品が残らなければ、彼女の書いた源氏物語が消えてしまうのだろうか。彼女の存在は、数年後には誰も覚えていないのだろうか。彼女が生きた証は、紫の扇子だけなのだろうか」

 源氏物語を、日本最高の文学と称する同僚もいる。少なくとも、三〇二〇年には。

「だから、世界で最も彼女を愛した俺が、物語を継ぐしかなかった」

 令和は印刷術が発達しています。私が言うと、彼は首を横に振る。

「俺がやらなければいけない。古典を教える成田も、俺に言葉を教えてくれた学者も、何一つ理解していない。標本を作って、何もかも分かった気になっているだけなんだよ」

 彼がむせ返り、言葉が途絶える。また話し始める頃には、古典塾の床に丸いシミが現れていた。

「彼女が死んでから数年経って、ようやく計画が整った。切符を何度も買って、令和の時代に飛ぶ前に、何度も何度も彼女の顔を思い浮かべた」

 それなのに、と彼は歯を食いしばる。

「失敗した。失敗したんだよ、俺は。奴の切符も燃やして、濡れ衣を着せる方法も考えて、いざ実行となったら、雷が吸収されて、彼女が捕らえられたと脅されて。一体何の恨みだ、成田。俺が何度、青い切符で飛ぼうとしたか分かって脅迫したのか」

 険しい眼差しを向けられる。それを庇うように、ミツルが質問した。

「雷の怪異の正体、令和に飛んだ理由、怪異を起こした理由を言え」

「雷は、白い服の集団が落とした薬品。それが薬ということは、時代を飛んでから知ったが。悪天候の日、願えばいつでも雷が落とせる。私が雷と書けば、場所も指定できる」

「十年毎に飛んだのは、宇治十帖の暗示か」

「ふと思ったのだ。記憶に残らないのならば、記録に残ればいい。俺が源氏物語を語り継ぐために飛んだと分かれば、聡明な学者集団が、十年の意味を勝手に解釈してくれる」

 想定外のことまでもな。一息置いてから、彼は続ける。

「令和は、万葉集に載っていた言葉で、まだ薬品が開発されていない時代だったから、俺はその時代に飛んだ。そして、雷を落として街を破壊すれば、俺を信仰する人々も現れる。一通りの怪異を見せつけたら、信者に源氏物語を説けばいい。京都は木造建築が多いから、上手くいきそうだと思ったんだ」

 教祖気取りか、と感じるものの、平安時代は宗教が苛烈でもある。その時代に生まれた森本先生ならば、考えかねないのかもしれない。私には到底分からない思考であるものの、これも多様性の一種であると解釈した。

「お前が想い人を殺されたからといえど、他の時代の人々を巻き込んだことには変わりない。とんだ迷惑人物であったよ」

 ミツルが吐き捨てた。私はともかく、神社で祀られているミツルが、森本先生の動機に興味がないのは、少し意外だとも感じられた。

「成田、満足したか。では、あれを渡しておくれ」

 彼が指す「あれ」とは切符のことだろう。素直に渡した。硬貨を賽銭箱に入れたのはミツルだから、切符を握るのも彼でなければいけないのだ。

 森本先生は、観念したという風に遠くを見つめている。もう犯人の自供は済んだのだ。後は二人が平安に帰るだけである。しかし、古典塾が時間を飛ぶ気配など、一切ない。

 ふとミツルを見る。彼と一瞬目が合うものの、途端に視線を逸らされた。その目頭が熱くなっていることに気付くのには、少々の時間を要した。

「ミツル、どうしたのですか」

 声をかけた。彼は、おもむろに視線を合わせてから、私に言う。

「成田。私には分かる」

 ああ、と思う。心の中でも考えないようにしていたのに。やはり、ミツルに隠し事はできないらしい。

「お前は、まだ令和に残るつもりなのだろう」

 私は、観念したように、苦笑いを浮かべてみた。

「古典塾の生徒は受験を控えていますからね。彼らを大学に進学させてから、ちゃんと慶鈴に帰ります」

「そうか、うむ。それでいい。お前はそういう男だからな」

 ミツルは、もう涙を隠す気はないらしい。私のために泣いてくれる友人がいるから、本当に幸福な人間関係を築けたのだと思う。ただ、私は大人だ。生徒の人生に、責任を持たなければならない。

「生徒の未来を私の都合で潰すなら、この時代で死ぬ方がよっぽどましです」

 それに、他にもやるべきことがある。

 私は、森本先生の手を取った。咄嗟のことで、挙動不審になる森本先生。しかし、構わずに喋る。

「あなたの行為は許されない。ただ、私も国文学者です。物語も歴史も絶やしてはならない。ならば、源氏物語は私が語り継ぎましょう。もちろん、正当な手段で」

 なぜ森本先生が時間を飛んだのかと問われれば、遠く離れた時代からの来訪者による、紫式部の殺人だと答えられる。時間旅行者の過失は、同じ時間旅行者の私が埋め合わせてもいいのではないか、と思った。

 歴史は誰かが語り継がなあかん、という五十嵐さんの言葉を思い出す。歴史とはバトンのようなもので、本来の源氏物語は、もっと違う形で語り継がれてきたのではないか、と考えることがある。それが、パラドックスを引き起こそうと企む人々に捻じ曲げられて、レーンから逸れてしまった。

 たとえ私が正しいレーンに戻したとして、別の人物が逸らしたら、また直せる保証などない。ただ、想い人の生きた証を遺そうと奮発していた、一人の男だけなら救えるのではないだろうか。

 森本先生が、ようやく私の目を見据える。私が、深く息を吸う。吐き出すと同時に、誓う。

「何十年、何百年、何千年経とうと、源氏物語を語り継いでみせましょう」

 その瞬間、藤原の瞳が、心なしか輝いたように見えた。

「さあ、元の時代に帰りなさい」

 震えながら頷く藤原。私は、彼の手紙を受け取り、コートの左側にしまった。

 それから、無理矢理笑ったような表情のミツルに、声をかける。

「と、いうことです。ミツル、私は失礼します」

 精一杯の虚勢だ。これ以上古典塾に留まってはいけない。明日からは、どうにかして教室を確保しよう。その前に、生徒には最大限の謝罪をしよう。

 口角を上げて、私は一歩を踏み出す。

「成田」

 後ろから、友人に呼び止められた。

 あの激しい雷雨の日を思い出す。皮肉なことに、私を引き止める友人の苗字は、どちらも菅原だ。感情が爆発する前に、離れなければいけないのに。

「雨は激しい。風邪を引く前に、早く帰りなさい」

 きっと、ミツルも限界なのだ。人の気持ちも知らないで、本当に格好つけた友人である。

 そんな彼が、本当に大好きだった。一週間程度とは思えない、濃密な毎日。その全てを与えてくれた彼に、どのような感謝の言葉がふさわしいかなど、未だに分からなかった。

 だから、友人の言葉を引用することでしか、私が口を開くことはできない。

「いつか会えたら、楽しい話を聞かせてくれたまえ」

 数年前、どのような心境で、友人が私を見送ったか分かったような気がした。

 力なく笑う藤原と、感情を堪えるかのような表情のミツル。私は一度振り返り、最大限の微笑みを浮かべて、大きく手を振った。

 かつての私は、最高級の笑顔は、子供の特権だと思っていた。しかし、逆である。永遠の離別に耐えられなくなった大人にこそ、笑顔を浮かべる権利があるのだ。いや、表情に権利なんてない。ただ心の中で湧き出したのだから、それを投影するのに年齢なんて関係ないだろう。

 ドアノブを握る。もう静電気はない。黙って、おもむろに玄関を開けた。雨は止んでいる。雲が多少残っているからか、星が朧げで、月だけが美しい夜空。

 いつか会えたら、楽しい話を聞かせてくれたまえ。

 二度と会えないと分かっているのに。でも、その瞬間だけ、前向きになれた。


「心得た」


 振り返ったら、更地だった。

 雷が止んでいる。狐が鳴いている。石畳には、少しばかり水溜まりが残っている。いつもは避けていたそれに、ぽちゃりと、足を入れてみる。

 瓦屋根と木材で形成された京都。

 侘しさだけを残して、私は暗闇の中の孤高になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る