古典塾の怪異

 ミツルが令和に来て、二日ほど経過した。

 私と彼が初めて出会ったあの塔は、未だに破壊されていない。市役所はまだ手間取っているそうだ。解体費用とか人件費とか、そういったお金が、私の知らない場所で足を引っ張っているのだろう。おかげで助かった、と彼は笑っていたが。

 ミツルに街案内をした折に、二人で近所の怪異を探したのだが、それらしい何かは見つからなかった。「怪異の正体はほとんどが針小棒大」といえど、その怪異自体ですら、令和の時代には既に解明されたものが大半だった。一方で、異変がないのが一番良いのだよ、とミツルは語る。その前向きさの裏側に焦燥があることを、私は知っている。

 いくらミツルが平安時代から来たとはいえ、令和における最低限度の常識と語彙は身に付けた方がいいだろう。たとえば、私は塾講師であるから、生徒が通う高校について教えた。

 また、彼は醤油のことを「醤」と呼ぶ。それは、平安時代に醤油はまだ存在せず、醤油の先祖となる醤が活躍していた時代であり、彼自身も醤油が醤だと思っているからだ。

 しかし、平安時代ではそれで通じるものの、令和ではそうもいかない。今後出会う人々との齟齬を避けるためにも、語彙は重要な事柄である。もっとも、彼は現代語が話せないし、現代語を教えるのにも膨大な時間がかかるため、話の食い違いが起こるのは大抵私のような気もするが。

 それでも、彼は勤勉に取り組んでくれた。その成果もあって、二日経った今では、横文字までも話せるようになった。私は塾講師だが、彼に言葉を教えている時だけは教師だった。

「成田、カレンダーに何か書いておるのか」

 午前八時の土曜日。洋室には私とミツルがいる。狭い部屋だが窮屈ではない。不自由だが孤独ではないように。

「今後の予定を立てています。二日もあれば、京都全域を回れるスケジュールです」

「京都限定とな。しかし、既に大阪や奈良に移動した可能性もある」

 平安時代の人間が、令和の地名を口にするのは違和感があるものだ。私は新鮮味を覚えながらも、言葉を続けることにする。

「怪異を起こそうとしている人物は、あなたと同じ平安から来たのです。そうなると、令和に飛んだ直後はバスや電車といった交通機関の乗り方もままなりません。それに交通費もない。慣れないことをするならば、その場所に留まって衣食住を満たす方が理知的です。ゆえに、その人物は京都のどこかの市で身を潜めていると考えるべきでしょう」

 カレンダーに最後の一文字を書き終わり、ボールペンを筆入れにしまう。と、ミツルがそれに顔を覗かせた。

「その筆はなんだ。墨は使わないのか」

「ああ、説明してなかった。これはボールペンです」

 ボールペンを持たせてみた。彼は、おお、という嘆声をもらす。

「上の部分をノックすることで、簡単にインクを出し入れできます」

 横文字の理解に時間がかかったのか、ミツルは数秒固まった後に、納得したような表情で親指を動かした。カチッ、という機械音。にゅっ、と飛び出す鋭い先端。彼は興奮しながら話す。

「何か書かせてくれ」

 そこで私は、スーパーのチラシを持ってきた。チラシの裏にでも書いてろ、という悪口を耳にしたことはあるが、決して彼の筆跡が落書きと同等の価値だと考えているわけではない。

 まずミツルは、びい、と横に線を引いた。またもや彼から感嘆の声が上がる。要領を得たのだろう。それから彼は、何やら壮大なものを描き始めた。

「筆よりも、文字や絵を記すという感覚がない。表現の価値が衰えているのだろうか。いや、しかし、それが令和の常識なのかもしれないな」

 ぶつぶつ呟きながら、彼は寺院の絵を完成させた。十円玉の表に描かれている平等院鳳凰堂である。どうやら彼は、平等院を気に入ったらしい。

「令和の時代では、この、ボールペンの文字を消すこともできるのか」

「私の持っているものは、一時的には可能です。熱を当てると消えて、冷やすと出てきます」

 うんうん、と頷きながら、彼はボールペンを筆入れにしまった。一度それをしまった場所を覚えているとは、やはり地頭がよいのだろうか。いや、場所を覚えたから褒められるのは犬だ。彼は人間である。これくらいのことを褒めては失礼だ。

 それより、今日は古典塾を開講する日。私は、倍速再生にした動画のように機敏な動作で支度をする。何を急いでいるのか、とミツルに心配されたが、いつものことだ。もちろん寝坊したわけではない。

 実を言うと、私が塾に到着する頃には、いつも数人の生徒が玄関で待機しているのだ。それを見ると、いつもの時間に来ただけだというのに、なんだか遅刻した気分になってしまう。それに、私も彼らの学習意欲には応えたい。だから、のんびりしていられないのだ。

 スーツを着て、ネクタイを結ぶ。すると、何かを察したのだろう。ミツルが一緒に行きたいと言い立てた。

 もとより、彼を家に放置する気はさらさらなかった。しかし、改めて考えてみる。本場の人間に古典の授業を受けてもらうと、授業内容に間違いがあったら訂正してくれるのではないだろうか。そうすれば、私も生徒も正しい知識を得られる。我ながら面白い発想だ。

 私はミツルを連れて、古典塾に向かうことにした。道中、彼は私のスーツを羨ましそうにしていたが、筒袖と小袴を着たミツルの方が、むしろ古典を教える講師の服装としては適切だと感じる。彼の太ももが膨らんでいるから、律儀に麻袋を持ってきたのだろう、と推察した。そこから教材を出し入れすればロマンがある。いや、そもそも、彼は現代語が分からないので講師にはなれないが。

 むしろ、私の方こそ何度も袴を手に入れたいと思った。だが、財布から何万円も飛んでしまうと、何ヶ月ももやしで暮らさなければならなくなる。そのような切り詰めた生活をする気はない。二日に一回、抹茶アイスが買える贅沢な暮らしを守りたい。

 塾に到着すると、やはり生徒が待機していた。

「あ、おはようございます。成田先生」

 土曜日で学校が休みなこともあり、五人も玄関で待ち構えていた。彼らの手を見る限り、全員が単語帳を読んでいたようだ。熱心な子供たちである。

「隣の人は友達ですか?」

「そうです。ミツルって名前で、私の平安時代の友達です」

 言った途端、生徒たちが腹を抱えて笑った。袴を身に着けている当の本人は、きょとんとしたまま黙っている。私は事実を言ったまでなのだが、信憑性のない話だから虚言だと思われても仕方ないだろう。

 私はドアノブに鍵を差し込んだ。我先に、と生徒が入っていく。扉を開けると、十畳の部屋が一つと、三人用の長机が十個あるだけの小さな塾だが、生徒が気に入っているならばそれでいい。もっとも、古典塾の生徒は全員別の塾にも通っているのだから、この塾で自習する必要性もない。

 ならばなぜ、わざわざ古典塾に通うのか。それは、高校で習う古典を半年で終わらせるからだ。今この場にいる生徒の中で、半年前にいた生徒は一人もいない。

 加えて、学費も他の塾より圧倒的に安い。塾経営は副業であり、私の本業は国文学者だからである。これを生徒に喋ると、必ずどよめきが起こって愉快だ。

 ところで、古典塾は半年ごとに顔ぶれが変わるのだから、私は生徒のことをあまり覚えられない。たった一人、古典塾を開業したての頃に通っていた生徒のことなら記憶にある。だが、生徒が増えていくにつれて、無性にややこしくなってしまった。

 しかし、逆はそうでもないようである。聞くところによると、半年、一年前に古典塾に在籍していた生徒が、後輩に塾のことを言い伝えているらしい。おかげで、私は京都の受験生の中ではとびきり著名なのである。悪い気はしない。

「知っていますか。古典塾で教わる古典は、他の塾で教わるよりも、格別に分かりやすいんです」

 早速、ミツルが生徒に話しかけられている。元々着ていた袴をコスプレだと勘違いされているから、親しみやすい存在だと思われているのかもしれない。彼は突然の現代語にしどろもどろになってはいるものの、まんざらでもなさそうだ。私は気にせず、教卓に荷物を置く。

「成田先生はしばしば日本語が下手になります。森本先生は、ただでさえ復習を徹底させる指導方針なのに、自分の授業だけを受けている生徒には、それこそ睡眠時間が取れないほどの宿題を出すんです。二日で問題集一冊と、古文単語を五十個暗記とか。でも、二人ともすごい博識で尊敬します。ミツル先生も、もちろん賢いですよね。袴を着ているのも、おふざけではないですよね」

 親しみやすい存在だ、という言葉を撤回しよう。生徒はみんな受験生であり、ミツルを講師だと誤解しているのだ。ミツルの授業が分かりづらかったら、生徒は容赦しないつもりだろう。「筒袖と小袴を着た方が、古典の講師としては適切だ」と考えた数分前の私に、どう説明すればいいだろうか。

 だが、当のミツルは聞き取れていない。困った様子で私を見つめる。ここで彼を放置するほど私は悪党ではないので、生徒全員にこう伝えた。

「言い忘れたけど、ミツルは講師ではないです。事情があって連れて来ました」

 すると、生徒は興味を失ったのか、ミツルから離れていった。勉強にしか意欲のない子供たちである。いや、悪いことではないのだ。

 生徒から解放された彼だが、今度は私に用があるようだ。教卓に寄るミツル。なにやら先程、生徒に言われたことの内容が気になるらしい。あまり良いことではないので、少し内容を撹乱しようか逡巡したが、私が彼に素直でありたかったから、全て正直に話した。

 ありのままを知ったミツルは、驚愕しながらも調子よく笑う。生意気な方が面白い、と言いながら。彼の前向きな性格は、まだ数日しか関係のない私をも虜にする。

 ミツルには、授業が暇だったら途中で抜けてもいい、とも伝えた。しかし、それでも聞きたいと、教室の一番後ろに立った。平安時代に生まれた彼にとっては退屈な授業だろうが、そもそも、令和の教育に関心があるのかもしれない。

 授業の時間が迫るにつれて、次々と生徒たちが教室へ入ってくる。人間が集まると騒がしくなるものだが、古典塾の生徒はそうでもないらしい。みんな参考書を読んだり、別の塾の宿題をしている。ミツルに話しかける生徒はいない。

 ふと、教室の奥の壁に、なにやら落書きのようなものが書かれているのを発見した。近寄ってみるも、壁の色と同化してよく分からない。上に雨冠のような字が確認できたものの、単純に汚れなのかもしれない。ミツルも見に来ているが、特に何もなさそうだ。放置して教卓に戻る。

 授業開始五分前には、全部の席が埋まった。しかし、だからといって授業を早めてしまってはならない。決められた時間の中で、シナリオ通りに古典を教えるのが私の仕事だ。余計に時間を増やしては、私の授業に甘えが生じる。それに、生徒自身が決めた時間の使い方にひびを入れてしまうのだ。静かな教室で、時間が来るのを待つ。

 時計が、定刻を指した。授業を始める。チョークを手に取る。制限時間は二時間だ。

 教卓から見る教室は、いつもと打って変わって広く見えるものだ。まるで強大なものと対峙している時のような、高揚に似た感覚。三十人ほどの生徒を抱えるということは、それほどまでに私を身震いさせる。

 今日の授業は、源氏物語。試験頻出の長編物語である。光源氏を中心とした、繁栄と滅亡の歴史を、すらすらと書き連ねる。私の専門は平安時代ではないが、源氏物語は幾重も読み返した。大学受験程度の知識なら、生徒に教えることができる。

「成田先生、今、なんと仰ったのですか」

 思いが先走るあまり、古典講師にもかかわらず、現代語すらままらないこともあった。その時は素直に謝罪して、ゆっくりと言い直す。だが、風船のように膨れ上がる後悔。生徒を置いて行った途端に、これは授業ではなく自己満足になってしまうと、あの腫れた目から学んだというのに。少しの自己充足が生徒の夢を壊すのだと、あれほど痛感したというのに。

 生徒が第一だ。大学受験という人生の大きな壁を乗り越えるべく、彼らは私を選んだ。ならば期待に応えなければならない。

 古典。私が生徒の人生に施せる、ただ一つの方法。臆病で情けない私の、ただ一つの自尊心。

 チョークを置く。

 授業が、終わる。


「お見事。今日も口達者なもので。講師の俺すらついていけないよ」

 十七、十八歳のそれではない声が聞こえる。現代語だからミツルでもない。となると、思い浮かべる人物はただ一人。

「こんにちは、森本先生。あなたの眠くなる授業よりはましです」

 リュックを背負った、古典塾の二人目の講師。それが森本先生だ。古典塾を始めてニ年目、つまり去年新たに雇った講師である。履歴書も学歴も不要とし、最も授業が分かりやすい人材を選んだ結果、五十歳の新任講師が誕生した。もちろん、私よりも年上だ。

 彼の専門は、私が専門外とし、かつ生徒の需要が高い時代。つまり、平安であった。

 森本先生が教室に入ってくると、途端に空気が重くなる。何日も剃っていないように思える無精髭や、毎日着ている圧迫感のある黒いスーツと黒シャツ、スラックスに、私に向ける獣のような敵対心。なにより剃刀のような鋭い眼光が、生徒に威圧感を与えるのだろう。そのせいか、私の授業だけを取る生徒が、授業後にそそくさと退出している。ミツルが硬直する理由も、決して現代語が分からないということだけではないはずだ。

「先生も物好きなお方だ。自分より眠くなる授業をする講師など、とうに解雇すればいいものを。それとも、一人では塾を賄えないとでも」

 この前ようやく気付いたのだが、森本先生が次々と発する皮肉は、全て心の底から生じているらしい。つまり、私が口達者ということも、一人では塾を維持できないと思われていることも、全て本心だということになる。質が悪い。

 このように、彼は腹の底が黒い男である。しかし講師としての腕は確かだ。要所要所が的確に提示された彼の授業は、私も見習うところが沢山ある。

 彼には解雇すればいいと挑発されたものの、生徒のことを慮ると、私情だけで彼を遠ざけるわけにはいかないのだ。

「一と一を足せば二です。下手な講師でも、一であることに変わりはない。そうですよね、森本先生」

 だから最近は、彼と同程度の打撃を返すことにした。私が皮肉を言う時は、誰かに言葉の刃物で切りつけられた時のみに留めている。いわば言葉の正当防衛だ。そうでもしなければ、私が一方的に被害者と成り果てて不愉快になるだけである。講師としてある程度の尊敬はしているが、お世辞にも彼が素晴らしい人間だとは思わない。

 しかし私は小心者だ。森本先生が、いつ反撃の反撃に出るか怯えている。やられたからといって、過剰なカウンターはできない。

「ところで成田先生。そこで固まっている袴姿の男は誰だ。まさか、授業中に寸劇をしようとは思っていないよな」

「あれは友人です。訳があって、平安時代の言葉でしか対話できません」

「ほう。先生も遂に、関係者以外を塾に入れるようになったのか」

 森本先生はミツルを一瞥する。森本先生は平安時代の言葉を使えるため、ミツルとも意思疎通を図ることは可能なはずだ。しかし、特に会話は生まれない。

 それから森本先生は、空いている席に座り、弁当を取り出した。コンビニで買ったと思われる、とんかつ弁当だ。

 そういえば、今はお昼時である。私もミツルと昼食を取ろうと考えたが、いつものくせで、弁当を一人分しか作っていない。これは私の失態なので、作った弁当はミツルに譲った。今日は昼飯抜きである。

「そういえば、成田先生。なんか、変な建物があってね」

 ああ、と相槌を打つ。あの、ミツルが中にいた塔のことだろう。

「数日前のことだ。雷が降ると同時に、その建物は突然現れた。深夜だったけど、気になって様子を見に行ったんだよ。すると、どこにも入口がない。翌日、晴れた時にもう一度見に行って、『アマノミツル』の文字を確認した。ただし、それだけだった。はて不思議なものだな」

 そう話しながら、とんかつに醤油をかける森本先生。付属のものでは足りないのか、リュックから追加の醤油を取り出している。高血圧にならないか心配だ。

 ところで、森本先生も「アマノミツル」を解読できたらしい。自分以外にも、その文字が解読できた人がいたのは感激である。思わず、その事実をミツルにも話した。

「あれは、何かしらの超常現象に違いない。今日も見に行ってしまったよ」

「森本先生って、案外オカルト的思考なんですね。意外です」

「どういう意味だ」

 彼にぎろりと睨まれる。つららのように冷たい視線。地雷を踏んでしまったのだろうか。あたふたしながら言葉をまとめる。すると、一人の生徒が私の名前を呼んだ。なにやら質問があるらしい。私はそそくさと立ち上がり、その生徒の席に向かうことにする。思わぬ助け舟だ。森本先生には、ちょっと失礼します、と申し訳なさそうにしたが、仮面の中の私は安堵に包まれていた。

 ただ、私を呼んだ生徒は、事態を察しているようだ。生徒が浮かべる、同情するような表情。

「最近、お気に入りの扇子を失くしたようで、腹の虫の居所が悪いようです。あれです。あの紫の扇子。そのせいで授業にも支障が出るかもしれません。成田先生にも注意してほしいです」

 私にそんな肝っ玉があれば、とうに森本先生は大人しくなっている。だが、私が臆病なせいで生徒に我慢を強いるのは心苦しい。私の羊に鞭を打ち、かの狼に立ち向かうべきか。

 すると、森本先生の方からこちらに向かってきた。願ってもない好機だ。たとえ私の毛が刈り取られて丸裸になろうと、生徒のためならば、天敵にも抗ってやる。その覚悟だ。

「そろそろ授業の時間だから、成田先生にも着席願おう。せっかくだから、友人にも授業を受けるよう言ってくれ」

 あの眼光には逆らえない。私の決意は、砂糖菓子のように溶けた。小さな声で、はい、と呟く。態度を改めてください、なんて言葉は喉に詰まってしまった。とぼとぼと席に戻ることにする。生徒よ、どうか私を哀れな目で見ないでほしい。

 森本先生の授業は上手だが、やはり性格に難があるようで、空席はざらにある。教卓から見て右後ろの席が空いていたので、そこにミツルと座ることにした。

「言葉はさっぱりだが、雰囲気が悪い男だと見受けた。令和とは、人間関係が億劫な時代であるよ」

 ミツルですら不満を露わにするのだから、同僚たる私なら尚更だ。彼にも、あの先生は機嫌が悪い、という情報を共有しておいた。

 どういう基準で奴を採用したのか、と問われたので、古典塾の方式を教える。ただ、彼は大して驚く様子も見せず、むしろ無表情だ。

「人に教える立場なら、それが普通であろうな」

 そういえば、平安には履歴書はないのだから、実力主義が常識なのか。ミツルに本来の求職方法を教えると、今度こそ、大げさに驚愕した。

 授業はピカイチな森本先生だが、彼の容姿も、態度も、性格も、実は怪異と同じほどに怖い。京都人は嫌味が多いと思われているが、今まで出会った京都の人々にも、森本先生に並ぶ皮肉屋はいない。彼の肉を買うならば、油を売った方がまだましである。

 授業が始まる。チョークが手に取られる。条件は、私と同じだ。

 彼の授業は、対話方式。授業内容は、私と同じ、源氏物語。私は教育に対して一定の誇りを持っているが、平安時代、特に源氏物語の授業で、彼に適うとは到底思えない。

 ただでさえ森本先生は宿題を大量に出す。それに加えて、授業では次々に生徒を当てて解答と説明を求めるのである。怠惰が確認され次第、大人の私すら怯む嫌味。だから生徒は自ずから予習する。

 私の教育理論とはねじれの位置にあるが、それでも森本先生を支持する生徒が一定数いるのだから、私は彼らに最適な環境を提供する他ない。事実、森本先生の功績によって志望校合格を果たした生徒は、指だけでは数えきれないほどいた。

 ただ、最近は不振らしい。本人曰く、授業中に眠る生徒が大量に発生しているとか。最初は彼も、声をかけて起こそうとしたものの、一向に起きる気配がないという。授業が止まるのを恐れ、やむなく別の生徒に当て直したらしい。

 古典塾にテストは存在せず、授業による学力向上だけを目標に運営されている。ゆえに、授業を聞いていない生徒を振るい落とす術はない。臆病な私と威圧的な森本先生だが、教育には人一倍力を入れているので、二人でどうしたものかと考えていた。しかし答えは出ない。

 そして、案の定とは言いたくはないが、今日も生徒の居眠りが多発したのである。

「大多数が寝ているではないか。これは、授業と呼べるものではないよ」

 ミツルが呟く。森本先生も、授業が成立しないことに苛立ちを覚えたのだろう。まだ起きている生徒に休憩を提案し、私の元へ寄ってきた。

「まただ。どうして俺の授業だけ……」

 いつもは斜に構えるがために疎んでいる森本先生だが、真剣に物事に取り組もうとする姿を見ると、同じ教育者としては手助けしたいと感じる。好きか嫌いかを通り越して、同僚として力を貸さなければならないと思うのだ。

 私と森本先生は、眠っている生徒の名前を呼ぶ。近付いて肩を叩く。それでも誰一人目覚めないのだから、私は机に伏せている生徒の顔を確認した。

 次の瞬間、私は冷や汗をかいた。その生徒は、目を開けていたのだ。しかし体は動いていない。まるで、授業を受けている体勢のまま、氷漬けにされたかのようである。

「森本先生、生徒たちの顔を確認してください。目が開いているかもしれません」

 寝ているのに目が開くのか、と怪訝そうにする森本先生だ。だが、私の指示に従って生徒の一人と視線を合わせた途端、血相を変えて騒ぎ出した。

「本当だ。本当に目が開いている。まさか、怪異が起こったとでもいうのか」

 怪異が古典塾に。私は、燃費の悪い感情に支配される。生徒が何をしたというのか。ただ純粋に学問を究めに来た子供に災厄が降りかかるのならば、私とて容赦しない。

 私は荒い息をする。それは私に限った話ではなく、同様に振る舞う男がいた。ミツルだ。現代語はほとんど分からない彼であったが、何度も現代語の「怪異」という発音を聞いたからか、森本先生の「怪異」という言葉だけで何が発生したか理解できたらしい。

 彼はすぐさま席から立ち上がる。

「怪異だと。私にも見せろ」

 彼が小走りで寄ってきた。床の構造が脆いからか、タッ、タッ、ポスン、タッという音が大きく響く。しかし、その騒々しい足音でも生徒は目を覚まさない。

「ふむ。目を開いたまま動かないとな。だが死んではいない」

 ミツルはあごを触り、しばらくして、前触れもなく口を開けた。

「これは怪異ではない。だが、解決しよう。怪異ではないなら、怪異ではないという論理が必要だ」

 彼の発言を聞いた途端、ぴんと張られた緊張の糸が、ほんのわずかに緩んだ。思うに、狐の鳴き声以降、とりわけ彼を信頼しているのかもしれない。

「成田。寝ている生徒の共通点を教えてくれ」

「ええと。ああ、寝ている全員が森本先生の授業だけを取っています」

 ふと森本先生の方を見た。先程私たちが座っていた場所の周辺で、動かない生徒の肩を叩いている。私が最前列で眠る生徒を気に掛けているから、逆側から調べようとしてくれたのだろうか。もしそうであるなら、なんと頼もしいことか。普段の様子からは到底予想できない行動。

「森本先生は、何か知っていることはありますか」

 そう訊いてみる。彼は動作こそ止めないものの、私の問いに答えてくれた。

「何もない。受講する生徒に怪しい薬を飲ませた覚えもないし、古典塾の生徒をカモにした悪い噂も聞かないな」

 なるほど、と頷きながら横を見ると、ミツルが気抜けしている。森本先生が現代語で話して、何も聞き取れなかったからだろう。私が平安時代の言葉で説明すると、ああ、と一度頷く。それを耳にしたのか、森本先生はミツルに、すまないね、と平安の言葉で返した。

 私の授業では、生徒が硬直することなど一度もない。森本先生の時だけだ。しかも、私と森本先生の両方を取っている生徒は、今も困惑したまま背もたれに寄りかかっている。なんとも不思議なものだ。

 授業を中断してしまって不甲斐ないが、そもそも大多数の生徒が眠っているのだから、もはや授業は成立しない。塾の安寧を得るためにも、ここで問題を放置するわけにはいかない。

 今度こそ生徒を守るのだ。私が、今度こそ勇敢な羊になりかけた時だ。

「心得た」

 ミツルが、そう呟いた。

 私が振り向く。森本先生が続く。講師二人が向きを変えるのだから、休憩中の生徒も同様の方向を見る。視線が集まる先は、平安時代からの来訪者。

「結論から言うと、気疲れであるよ。ここに通う生徒は、全員が心の発達を迎える年齢であるから、さぞ疲れたのであろう。決して怪異に憑かれたわけではない」

 気疲れ。ストレスのことだろうか。授業中に嫌味を言われたら、確かに良い気持ちにはならない。だが、それならば森本先生の授業だけを受けている生徒が眠るのはおかしい。彼の授業に加えて、私のも受けている生徒だっている。彼らは現に、ミツルの方を向いて、分からない平安の言葉に耳を傾けようとしているではないか。

 しかし、その訴えは間違っていると反論するように、彼は続ける。

「その、成田の仕事仲間。名前は何と言うか」

「森本だ」

「そう、森本。成田から聞いたぞ。自分の授業を受けている生徒には、二日で問題集一冊と古文単語の宿題、だったか。成田が言うには、高校という場所があるらしい。その勉強と平行するなど、私には無謀としか思えないな」

 私から聞いた。それは語弊だ。正確には、生徒が話していた内容を私が翻訳しただけである。しかし、それを指摘する空気ではない。

 それよりも、ミツルが講師に対して、無謀、と言えるほど、現代の教育に価値観を持っていることが不思議だった。しかし、それを指摘する空気ではない。

「そりゃあ、森本。知っていることは何もない、と断言できるわけであるよ。宿題の量が多いか少ないかなど、当人には知る由もない。誰かが教えてくれない限り」

「なぜ誰も言わなかった。生徒に嫌われたとしても、教育だけは力を抜かないつもりだった。それなのに、その教育で重大な欠陥を生み出すなんて。どうして教えてくれなかったのだ。成田先生、俺を教育から遠ざけたいのか」

 私に詰め寄る森本先生を、ミツルが両手を広げて庇う。

「お気に入りの扇子を失くして機嫌が悪いと聞いた。しかし、本当の問題とは、機嫌の悪さではなく、機嫌を窺われることである。そのような講師には、肝っ玉が強くない限り、宿題の多さを指摘するなどできない。逆鱗に触れるか不安でたまらんだろう。生徒すら森本が怖いのだから、臆病な成田は尚更無理であるよ」

 臆病な、に関しては思わず苦笑いしてしまう。その一方で、森本に物怖じしないほどに強い心臓を羨ましく思った。嫉妬すら覚える。

「ところで、その気疲れが大量睡眠を引き起こした理由は分かったのですか」

 とはいえ、このまま森本先生が責め立てられるのは、なんだか憂鬱で胸が痛い。日常生活では不満こそあるものの、教育者としての彼を問い詰めたくはない。私は「どうして生徒が眠ったか」ではなく「どうやって生徒が眠ったか」に話題の転換を試みた。

「成田。これは睡眠ではない。硬直であるよ」

 ミツルは、重大な事実をさらりと言ってのける。硬直、と私が繰り返す前に、彼は喋り出す。止まるつもりはないようだ。

「眠気と気疲れが同時に発生すると、体に異常が起こる。もっとも、平安時代では、それこそが怪異だと多くの人々が呼んでいたのだがね」

 眠気と気疲れが誘発する、体の異常反応。途端、数日前の私自身が回想された。

 布団から出なければならないが、体が動かない。その異常は、ストレスと睡眠不足が災いしたもの。

 私は、その正体を、現代語で呟いた。

「金縛りだ」

 その一言に、森本先生も、起きている生徒も、ただ呆然とするばかりであった。

 私は臆病ゆえにストレスと隣り合わせで生きている人間だから、しばしば金縛りに襲われる。金縛り、という言葉が存在しなかった平安時代で育ったミツルは、気疲れ、といった面倒な言い回しで説明するしかなかったのだろう。代わりに、令和の見聞を持つ私が補足する。私の体は、最も現象の正体を知りたがっているであろう森本先生に向く。彼の表情は、黄身の抜けた卵のように虚しい。

「脳は起きているけど、体が寝ている。それが金縛りの正体です。詳細はミツルの説明した通り、睡眠不足とストレスが主な原因だと思われます」

 その睡眠不足とストレスを引き起こした人物は、言うまでもないだろう。彼の顔に張り付いた殻が、ビシビシと音を立ててひび割れる。

「俺は、生徒になんてことを……」

 生徒の学力を重んじるばかり、肝心な生徒の意欲まで奪ってしまったのだと、打ちひしがれる森本先生。もはやアイロニーを吐き捨てる気力もないように思われる。彼なりの完璧を謳った教育方針が、ガムの要領で隘路に吐き捨てられたのだ。

「安心しろ、森本。生徒はじきに治る。それに、森本の教育が間違っていたのではない。相手は受験を控える生徒だから、どちらも少々気張りすぎたのかもしれぬ」

 ミツルの励ましが、抜け殻のようになった森本先生に届いているかは分からない。しかし、誰かに励まされた、という事実自体に、何らかの前向きさを感じ取ってほしい。そう願う。

 やがて、生徒は硬直から解放されていく。森本先生は黒板の前に立ち、私とミツルは、元いた席に座る。

 そうだ、何も起こっていないのだ。怪異も、金縛りも、何もなかった。古典塾の、いつも通りの授業だ。

 私だけでも、そう錯覚しなければならない。そうでないと、森本先生は、授業どころではない。今すぐにでも、自分の教育が生徒に悪影響だった、という事実と向き合うことになってしまう。今はいけない。講師が膝をついていいのは、授業が終わってからだ。

 たとえ生徒が、今後の森本先生の授業に物足りなさを感じたのならば、同僚たる講師の私が支えよう。

 たとえ彼が、首の皮一枚だけになったのならば、同僚の私が肉を分け与えよう。

 チョークが置かれる。

 授業が、終わる。


 全ての授業が終了した古典塾は、まず生徒の喧騒から始まり、次に質問や助言、自習を終えた生徒が退出すると、最後に講師が残される。茜色の光が差し込んだら、戸締まりの時間がやってくる。

 帰ろうとすると、なにやらミツルが汚れを落としたいと要求してきた。私が授業前に見た、あの汚れだろうか。彼は綺麗好きなのだろう。塾に置いてあるウエットティッシュを貸してあげた。

 壁をごしごしと磨く彼を横目に、私は挨拶をする。

「では、お疲れ様です。森本先生」

「うん。また俺がよくない教育をしていたら、是非とも教えてほしい。成田先生」

「あ、ええ、もちろんです」

 なるべく私は、金縛りの件については触れぬように努めた。私が何を言わずとも、教育者たる彼ならとうに反省しているだろう。事実、今日は森本先生が古典塾に来てから、初めて宿題のない日だった。

 森本先生に会釈して、玄関へと向かう。すると、あたふたしながらミツルが近付いてきた。落ち着きのない男である。

「成田、私の麻袋を知らないか」

「知りませんよ。袴に入れていたでしょう」

 どうすればよいか、と正気ではないミツル。私は今しがた、知りません、と言ってしまった。しかし、金縛りの原因を探っていた時に、タッ、タッ、ポスン、タッという音を聞いたのを思い出す。このポスンとは、麻袋の落下音ではなかっただろうか。

「麻袋。ああ、ちょっと待て。見覚えがある」

 森本先生は、小走りで教卓へ向かう。なにをしているのだろうか、と考えているうちに、教卓の中から麻袋が出てきた。なんでも、ついさっき教室の掃除をしていた際に、生徒の落とし物かと勘違いして保管していたらしい。

 彼は麻袋を持って、そのままミツルに渡した。ありがとう、というミツルの声が返ってくる。

「失くしたら慌てふためくほど大事なものって、どうして失くすまで気付かないのだろうな。俺もまだまだみたいだ」

 ひげを触り、それから森本先生は大きく息を吐いた。また、一つの教育の正解に辿り着いたのだろうか。私も教育者であるから、知りたいとは思う。

 しかし、彼の正解と私の正解は違う。宿題の量とか、嫌味とか優しさとか、人の性質という不確定要素だけで変わっていくものを知って、自分が教育の中の何者かになれるとは思っていない。

「では、今度こそ。お疲れ様です」

 好奇心に蓋をして、彼に別れを告げた。案ずることはない。私も森本先生も、心の中にある生徒を想う気持ちだけは、絶対に揺れることがないのだ。きっとそうだ。

 扉を開けようとドアノブに触れると、びり、という感覚に陥る。静電気だ。つくづく、締まらないものだと思う。

 すると、硬直した私を押しのけて、ミツルが扉を開けた。

「今日もごちぞうにするぞ、成田。先に天ぷら屋に行った方が勝ちだ」

 財布をダイエットする予定はない。草わらじを履いて、子供のように外へ駆け出すミツル。一刻も早く彼を止めるべく、靴のかかとを潰しながら走った。

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