京都市の探索

 硬い床の上で目を覚ました。

 かつて私が独占していた布団に、私以外の誰かが眠っている。その時、私は寝ぼけていたのだから、恋人と迎える朝にはいくばくの孤独もないのだろう、と狂ったことを考えた。もちろん私に恋人はいないし、布団で眠っているのは平安時代からの観光客である。正しいことは、孤独ではないことだけ。ただ、それがいっとう素晴らしい。

 顔を洗う。歯を磨く。お湯を沸かして、ココアを入れる。湯気に誘われたのか、私の布団を奪った張本人が起床した。上半身だけを持ち上げて、くうう、と伸びをしている。

「おはようございます。今日から二日かけて、京都全域の怪異を調査しますよ」

「承知した。すぐに支度する」

 急がなくても大丈夫、と声をかけながら、二人分のココアをテーブルに置いた。さて、軽い朝食を作ろう。

 フライパンに油を垂らし、卵を二つ投下する。朝食といえば目玉焼きだろう。ベーコンと一緒に食べたがる人々も存在するが、朝の忙しい時間帯に、そのような手間をかけたくはない。男なら卵だけで勝負するべきだ。

「成田、ずっと気になっていたのだが、どうしてこうも書籍を揃えている。もしや、貴族なのか」

 ミツルに目を向けると、彼は目を輝かせながら本棚を見つめていた。その反応は、考えてみれば当然のものだ。

「私はしがない国文学者です。けれど、令和の時代は誰しもが本を持っていますよ」

 いつ印刷が発明されたかは諸説あるものの、それが世界中に広まったのは十五世紀からだ。もちろん平安時代よりも新しい。ゆえに、古代において本は貴重なものとされてきた。

「読ませてもらうぞ」

 許可すら求めず、彼は一つの本に手を伸ばした。知的好奇心に溢れた人類は、今も昔も必ず存在するのだと思い知らされる。少しだけ胸が躍った。

 目玉焼きが徐々に形を成していく。皿の用意を忘れていたが、一瞬でも目を離すと焦げてしまいそうだ。仕方がないので、一旦、目玉焼きを完成させた。

 本を解読しようと必死なミツルを尻目に、テーブルに二つの皿を置いた。上にはもちろん目玉焼き。天ぷらの反省を踏まえて、今度は最初から醤油も用意してある。これなら、ミツルが遠慮する必要もない。

「私の時代の本はないのか。令和の文字は読めない」

「生憎ですが、全てが昭和、平成、令和のいずれかで出版された本です」

 国文学者じゃないのか、と呆れられてしまった。しかし、ないものはない。私も苦笑いするしかない。彼が適当に本を漁って、歴史上の人物をまとめた図鑑を取り出した。ぱらぱらとページをめくり、文字が比較的少ない家系図のページで手を止めると、それをまじまじと見ている。

「見ろ、成田。人の名前が、平安時代の文字でも書かれている。しかし、妙に力の入った文字であるよ」

 彼が、徳川家康、と呟いている。正確には平安ではなく江戸の文字なのだが、解読できるならばよしとしよう。

 私はぬるくなったココアをすすりながら、予定を再確認していた。

 まずは京都市を出る。道中で奇々怪々が発生していないか探し、それから東側の県境をなぞるように移動。最も北に位置する市、京丹後市まで辿り着いたら、今度は西側の県境沿いに南へ向かう。また京都市へ戻る頃には、日も暮れているだろう。そのまま家に戻るのも手だが、太陽のない京都を歩くほど私には胆力がない。だから電話で宿を予約しておいた。高級旅館である。きっとミツルも喜ぶだろう。

 二日目は京都市よりも南に面する地域を周る。長岡京市から左回りに、最後は宇治市を通って京都市に戻る予定だ。

 私は車の免許を持っていないから、基本はバス移動である。京都には「二日乗車券」という、バスや地下鉄が乗り放題になるチケットがあるため、それを予め二人分購入した。運賃がお得になることに加えて、移動する毎に、硬貨をじゃらじゃらさせなくてもよい。ただでさえミツルには慣れない土地を移動させるのだから、少しでも負担を減らしたいと思ったのだ。このチケットの難点といえば、今年の九月末で販売を停止することである。

 京都全域を回って怪異を調査する、という名目だが、予定を振り返ってみると、旅行のそれと何ら変わらないような気がする。しかし、調査といえど旅行といえど、やることは一つも変わらない。それならば、旅行と題して肩の力を抜くのも、案外悪くない発想のように思えた。

「成田。すれ違う人々が親指で撫でている、あの木簡に似た板はなんだ」

 とうに食事を終えたミツルが、私に尋ねてきた。彼が思い浮かべる「木簡に似た板」とは、スマホのことだろうか。実を言うと、私にもよく分からない。少し前に、いい加減連絡手段が欲しい、と森本先生から提案されなければ、生涯で一度も持たなかったかもしれない。ただ、私にはそぐわない機械だから、買ってからもほとんど使っていない。今は、コートのポケットに眠っているだろう。

 私がスマホに無知であることを悟ると、ミツルは頬杖をついた。

「令和も不思議な時代であるが、時代にそぐわない成田も不思議であるよ」

 面白いものだなあ、と付け足される。皮肉ではないようだ。そうですか、と私は呟きながら、彼の皿に目を落とした。一切黒みを帯びていない、それこそまっさらな状態だ。もしかしたら醤油が嫌いなのかもしれない。今度は塩を用意することにしよう。

 ココアを飲み干して、上着を羽織る。今日は暑いから、コートは要らない。

 ふと、ミツルは何日も同じ服を着ていることに気付く。服を貸そうかと申し出ると、彼はとても乗り気になった。私がスーツを着ていた時に、彼の羨望の眼差しを受けたことを思い出した。

 ミツルには、青いジーンズと「令和」と書かれたTシャツを渡した。私が京都に来たての頃に勢いで購入したTシャツだが、平安時代からやってきたミツルが着ると、ちょっと面白い。私の思い上がった諧謔心が、ここで働いてしまったようだ。

 彼には、Tシャツに書かれた「令和」の意味など分からないだろう、と考えていた。だが、そうでもないらしい。

「この漢字、万葉集で見たことがあるぞ。ああ、令和ではないか」

 令和が万葉集から取られた年号であることを、私はすっかり忘却していた。まだまだ知識が足りない、と反省する。いや、反省するのは知識ではなく、悪質な冗談の方だと分かっているのだが。

「私もこれで令和人だ。さあ、行こうぞ、成田」

 ただ、当の本人はご満悦そうである。ミツルが上機嫌なら、これ以上私が気に病む必要もないのだろう。それでも、泥のように心にへばりつく、得体の知れないしこりに対する不快感を、どうにも隠せずにいた。何が不愉快なのか、自分にも分からない。分かるのは、古典塾で彼に向けた、焦げつきに似た嫉妬の感情が渦巻いているということ。

 いい加減切り替えろ、と自分自身を諭す。玄関を開けて、吹き抜ける風に清々しさを感じ取れ。ほら見ろ、今日は晴天ではないか。なんの憂い事があろうか。これから二日限りの旅が始まるのだ。

 私のちっぽけな前向きさを総動員して、表面上は、どうにか平静を保つことができた。

 ミツルが外に出る。私は戸締まりを忘れない。カチャリと音を立てたら、さて、太陽に向かって歩こう。

 石畳。下駄履かずとも、足音響く、きょうの道。

 令和の京都を草わらじで歩かせるのは酷であるから、ミツルには私の靴を貸した。サイズがぴったりだったのは幸運である。草わらじよりも履き心地がいいのか、彼の足取りも前より軽い。

 和風な瓦屋根の街並みを抜けると、まるで二つの異なる世界が繋がったかのように、突然のアスファルトが私たちを迎える。目的のバス停も、そこで佇んでいた。

 私とミツルは、バス停付近にあるベンチに座る。ふと彼の下半身が目に入った。太ももは膨れていない。ジーパンが硬いから麻袋が目立っていないのだろうか。

「しかし、古典塾でのミツルの慌てっぷりは、見事なものでした。麻袋、それほど大事なのですね」

 言ってから、しまった、と思った。彼の足の膨らみばかり気にしていたからか、さらりと、皮肉が口から漏れてしまったのだ。私が皮肉を言う時は、誰かに言葉の刃物で切りつけられた時だけだ、と定めていたにもかかわらず。

 私に友人を囃し立てる趣味はないが、沈黙を打破するような話題が、他にどうしても思いつかなかったのだ。森本先生の逆鱗に触れてしまった時もそうだった。言葉を口にしてから後悔するのは、私の常なる癖である。やめたいと何度も考えても、音として吐き出すまで、それが悪いことなのだと分からない。

「麻袋が大事というか、中の切符が重要なのだよ。いや、しかし、あれには反省した。今日は成田の家に置いてきたから安心だ」

 ミツルは苦笑いを浮かべる。場を取り繕おうとしてくれたのだろうが、その不快感の鱗片が表情に表れているように思えた。ああ、いけない。きっと私は今、何もかも後ろ向きに考えてしまっているのかもしれない。今から彼と旅に出るというのに。

「成田、どうした。具合でも悪いか」

「ああ、いえ。ミツルは何も言ってないのに、私が皮肉を言ってしまった、と」

 皮肉を、の部分から、私の声に自嘲が混じる。音よりも息の比重が大きくなって、ささやき声のようになってしまった。つくづく自分が嫌になる。

「皮肉……ああ、慌てっぷりは見事、のことか」

 私の中のミツルが好印象なのは、強い嫌味を言う人間にも堂々と立ち向かう胆力と、常に太陽に向かって走っているような前向きさがあるからだ。狐の声にも怯え、些細な行動で誰かを不快にさせないか憂慮する、月の影に隠れているような私が持っていないものを、彼は全て持ち合わせている。

「成田は気にしすぎであるぞ。その程度のことでくよくよするな。はて、まさか、言霊を信じているのか。いや、有り得るかもな。怪異に怯えるお前のことだから」

 その言葉を聞いた時に、怒りも悲しみも湧かなかった。感情が薄いわけではない。なぜならば、私はほんの少し愉快になっていたからだ。

「私は今、成田を貶した。だが、不快に思ったか? そうでないならば、安心しろ。私と成田は、冗談を言い合えるほどの関係ということだ」

 彼が、私と目を合わせながら続けた。

「お前は、私の友人なのだよ」

 かっかっか、とミツルは笑う。つられて、私もそうした。その瞬間から、私の中の皮肉は、誰かの悪意から身を守るための防具ではなく、友人と時間を共有するための道具へと変貌した。

 京都に引っ越して、もうじき三年となる。こんなに気持ちよく笑えたのは、故郷以来だろう。知り合いのいない異郷の地で、毒の多い同僚と、学習に燃える生徒ばかりと接していたから、本当は、私は最初から孤独で、心は無人駅みたいに錆びれてしまったのかもしれない。

 ずっと友人が欲しかったのだろうな、私は。

「話を戻そうか。ええと、なんだったかな。ああ、切符だ。思い出したよ」 

 彼は手を打ち、声を高くした。

「なあ、なあ。切符って色々な種類があるのだぞ。知りたいだろう、成田」

 ミツルは尻尾を振る犬のように興奮している。それに、まだバスは来ない。ミツルが話したいのならば、素直に聞こうと思う。私は頷いて、次の言葉を待った。

「切符には、青色、黄色、白色があってな。その切符を使うと、使用者と共に、元いた時代の建物、そして中にいる生物も時間を飛ぶのだよ。時間を飛ぶ際に建物が傷付く可能性があるから、いくら傷だらけの建物を運んだとしても、到着した時代では、新築同様になっている。いわば、保険というものだな」

 建物も時間を旅行する。つまり、私が最初にミツルと出会ったあの塔は、タイムマシンそのものではなく、切符の影響で令和に飛んできた建物、ということになる。

「青色と黄色の切符は、一つしか建物を移動できない。しかし、私の持っている白色の切符は二つも運ぶことができる。その分、割高だったのだがな」

 ここで疑問が生じる。ミツルが持ってきた建物は、あの大きな塔だけだ。それならば別の色の切符を買えばよかったのではないか。そう問うてみる。

「令和に飛べる切符が、高価な白色のものしか残っていなかったのだよ。どうにも、同じ時代に、同色の切符が二枚以上存在できないようでな。都合の悪いものだ」

 彼は弱々しく笑った。私が思っている以上に、彼は膨大なタスクを抱えていたのかもしれない。切符のルールから令和の言葉まで、平安時代に生きていたら絶対に得ることができない知識である。彼の詰め込みすぎた脳みそが、いずれ破裂しないか不安になった。

「私にできることがあったら、なんでも言ってくださいよ」

 そう咄嗟に言った。この私の言葉だって、彼にとってはその場限りの慰めに過ぎないと分かっている。ただ、見知らぬ時代に投げ込まれた彼が、ほんの数秒でも孤独になってほしくなかっただけだ。それに、一人にはさせないと誓ったのだ。狐の鳴く夜に。

 間もなくして、バスが到着した。ミツルに二日乗車券を一枚渡し、そのまま二人でバスに乗る。中はがらんとしていた。座席のこだわりなどないが、ミツルには外の景色を見せてあげたい。入口から一番近い二人用の座席を見つけたので、彼を窓側に座らせる。私が隣に腰掛けた途端に扉が閉まり、バスが走り出した。

「一応確認するのだが、この乗り物は、私が乗ってもいいんだな」

 大丈夫ですよ、と答える。それを聞いて安心したのか、彼は露骨に胸をなでおろした。

 ミツルが暮らす平安時代の乗り物。私は真っ先に「牛車」という牛を動力とした乗り物を思い浮かべる。しかし、牛車は移動手段というよりかは、貴族が自らの威光を示すために使われたものだ。ミツルが考える乗り物とは、すなわち貴族の権威であろう。だから彼は、乗り物の中に座ってもいいのか不安になったのだ。

 仮に平安ではダメだったとしても、ここは令和の時代。郷に入っては郷に従え。そう彼に告げようとすると、突然、彼が声を上げた。

「おい、見ろ、成田。あれを見るんだ」

 きっと、窓越しに見える山を指さそうとしたのだろう。ミツルは左手の人差し指を勢いよくガラスに突き立てて、なんとも痛ましい声を上げた。本当は突き指を杞憂すべき事態なのだろうが、なんだか一部始終がコントのように思えたようで、心配よりも滑稽が上回った。

「笑うでない。そもそも、この透明な壁はなんだ。怪異でないなら説明してくれ」

 ミツルの声が細い。今にも泣き出してしまいそうだ。流石に可哀想に思えてきたので、どれくらい痛むのか尋ねた。すると、段々痛みがなくなってきた、などと強がりを見せてくる。アドレナリンで一時的に興奮しているだけだろう。どちらにせよ、怪我をした友人を放っておきたくはない。まだ京都市からは出ていないが、一旦下車して薬局に寄り、応急処置をしよう。

 ミツルにガラスの説明を終えた直後に、バスが停車する。そこで降りることにした。アスファルトは広がるものの、馬や羊を放牧できそうなほどに、緑が豊かな土地である。薬局と緑の土地は無縁そうだという偏見こそあるものの、意外とそういった場所で見つかったりするものだ。いや、根拠などないのだが。

「まったく、指など大したことないというのに。処置など要らぬ」

「誰がミツルの心配などするものですか。私が酔ったのです。そのついでですよ」

 もちろん、彼のことはとても心配している。ただ、それ以上に、遠回しな言い方がしたくなったのだ。友人と呼んでくれたのだから。

 私の予想だと、今から三十分もすれば、アドレナリンが切れて猛烈な叫び声を上げるだろう。それまでに処置を済ませなければ、友人のいたたまれない姿を見なければならない。そんな趣味はないため、若干慌てながら薬局を探す。

 どこかに看板がないか、と辺りを見回していると、視界の大半を占める大きな山が目に入った。ミツルが指さそうとしていた山だろう。どこからでも見えるものを興奮気味に指さすなど、よほど張り切っているに違いない。

「にしても、大きな山です。指を痛めてまで人に勧めたいほどの価値はありますね」

 自分でも感じるが、私は少々浮かれすぎている。ミツルから、冗談を言い合えるほどの関係、と認めてもらったからか、さっきから高頻度で皮肉を言ってしまう。出身は京都じゃないとはいえ、数年も暮らせば、嫌味が得意になってしまうのだろうか。

「いや、山を指したわけじゃないぞ」

 ただ、何気ない一言が齟齬を埋めることもあるらしい。ミツルが右手の人差し指で、山の一点を指し出す。しかし、木が生い茂ってよく見えない。風で枝が揺れた時、ほんの少しだけ、木材が何らかの住居を築いているのだと知った。山小屋だろうか。

 ミツルは、その建物を指さしながら、静かに続ける。

「あの家、平安の都で見たのだよ」

 平安の都で見た。私は、そのまましばらく視線を逸らせずにいた。

 平安時代の和風な木造建築と、西洋の文化と技術が入り混じった令和の山小屋は、似ても似つかない。つまり、ミツルが止めようとしている人物が、切符を利用した際に持ってきた建物だと考えられる。

「違う角度から見に行きましょう」

 何か怪異のヒントが得られるかもしれない。私はミツルの手を握り、歩き出そうとする。

「よせ」

 声が聞こえて、振り返ると、顔をしかめるミツル。

 しまった、とすぐに手を離した。握ったのは左手だったのだ。怪異の手がかりに意識を奪われていて、最も大事なことを忘れてしまっていた。

「実は、ちょっとだけ痛かったのだよ。強がってすまなかったな」

 私の方こそ、ごめんなさい。深々と頭を下げた。私の視界に、腫れ上がった人差し指が映った。

 今日だけで、心の底からの笑いと謝罪の二つを経験した。しかも、まだ午前であるし、どこの市役所にも訪れていない。この旅は前途多難だ。そう予感させてくる。

「顔を上げろ。お互いに謝ったから、もう仲直りだ」

 ミツルは前向きな性格だから、そのようなことが言えるのだ。私は違う。いくら表面上で取り繕っても、よせ、という語勢の強さや、ミツルの険しい表情が、まるで狂ったレコードのように何度も頭で流れ出すのだ。私が怪異に苦手意識があるのも、一度味わった恐怖を、頭の中で繰り返されるからである。

 ただ、ミツルの語勢や表情が流れ出す現象こそ、私が浮かれすぎた報いなのだろう。ミツルの「仲直り」に同意する意思を見せるため、ただ一度、はい、と呟いた。

 また山小屋に向かう気分ではない。ならば、当初の予定通りに行こう。ひとまず、私はバスから降りた場所に戻った。

 時刻表を見るに、次のバスは三十分後である。これなら、待つよりも歩いた方が早い。それに、道中に薬局がある可能性だってある。ミツルもそれに賛成したので、今後の行動は決まった。

 私は歩き始める。あの山小屋には、目もくれない。ミツルとの嫌な思い出が蘇ってしまうからだ。それに、平安の都で見た山小屋といえど、誰かが令和で再現しようとしたのかもしれない。もちろん、暴論だということは承知だ。それでも、私が記憶から目を逸らす動機が欲しかった。

 痛覚を持った過去を顧みることができないほどに、私は臆病な人間なのだ。

 

 私とミツルは、「北野天満宮前」のバス停に立っていた。屋根のような通路シェルターが私たちを覆い、心理的に二人きりにさせてくる。ミツルと話したいことは沢山あるのだが、どうにも饒舌になれず、微妙な空気を誤魔化すために、バス停に書かれた北野天満宮の文字をなぞっている。

 北野天満宮は、学問の神様たる菅原道真を祀る縁起のいい神社だ。正月を迎えると、毎年地元の高校生が押し寄せるらしい。京都に移り住んでから、一度も参拝していないため、いつかは訪れたいと思っていた。

「令和とは、呪術以外の医療が発達している時代であるな」

 ミツルの声が聞こえた。振り向くと、彼は人差し指のテープを見つめている。これは、私が巻いたものではない。

 二人で北野天満宮に向かう道中、整形外科を通りかかった。ふいに、私が素人知識でミツルの応急処置をするよりも、人間の損傷に精通した専門家に診てもらうべきだと思った。幸運なことに、診察するためのお金も持ち合わせていた。

 診察結果は、軽度の突き指。氷で冷やし、テーピングで固定。何をするのだ、とミツルが騒いだが、子供をなだめるようにして静まらせた。

 完治には数日から一週間程度かかるらしい。財布から三枚の偉人が消えたものの、彼の無事の保障に比べれば大したことじゃない。その一方で、今もなお脳裏に焼き付く、ミツルのしかめた顔。もしも私が好奇心に惑わされなかったら、彼の左手を握らなかったかもしれない。もっと早く治っていたかもしれない。あの山小屋に行けたかもしれない。それをさせなかったのは、軽はずみな好奇心と、あまりに脆弱な心。フラッシュバックが、私を後ろ向きにさせる。

「ところで、成田。バスが来るまで、あと二十分程度ある。何をするべきか」

 私の意識は、北野天満宮に戻された。ただ、予期せぬ間に人が喋ると、やはり驚きを隠せないものだ。私は心拍数が上がるのを感じながら、彼の言葉に答える。

「せっかく北野天満宮の近くにいるのです。全部周る時間はないでしょうけど、寄りましょうか」

 彼に寄り添うような口調で話すものの、実際は自分が行ってみたかっただけだ。それを察したのか、はたまた彼も興味があったのかは知らないが、彼は二つ返事で承諾した。

 神社の前にあるバス停ということもあり、大して距離は歩かなかった。約十一メートルほどある、一の鳥居をくぐる。常々思うが、大きな建造物を目にすると、自分がちっぽけに見える。肉体的にも、精神的にもだ。長方形の太い柱を持つ楼門を通り抜けた際にも、同様のことを感じるのである。右手側のトイレの高さを見て、ああ、私は正常なのだなと思い込んだ。見慣れない建物があるものの、人混みでよく見えない。ただ、トイレを観察する趣味もないのだから、通り過ぎたって構わないだろう。

 雅を感じさせる建造物の数々。だが、いちいち物思いにふけってはバスに乗り遅れてしまうだろう。名残惜しさをぐっと堪えて、私たちは三光門と対峙した。その股をくぐれば、北野天満宮の本殿に到達できるのである。

 不運なことに、参拝客が長蛇の列。並んでいては、バスに間に合わない。

 ふと思う。バスの時刻に翻弄されながら神社を周っていたら、神様に怒られてしまうのではないか。見えない何かに急かされていたら、楽しむものも楽しめない。ミツルの突き指から始まった、私の後ろ向き思考が加速する。私から神社に寄ってみよう、と提案したにもかかわらず、どうにも早足になって、頭にはほとんど何も残らなかった。

「戻りましょう」

 私はそう提案した時も、バスが来るまで、まだ半分ほど時間があった。しかし、彼は笑顔で従った。

 もしかしたら、私はミツルに気を遣わせているのではないか。突如の疑心暗鬼に襲われて、人知れず苦しくなる。顔色の悪さを悟られないように、下を向いて歩く。行き交う人を避けつつ、それでも肩がぶつかってしまったら、私の真っ青な顔を上げて、それからまた頭を下げなければならない。それが日本人だからだ。

 私が三人目とぶつかった瞬間だった。私は視線を上げた。謝る人を探すためだ。案の定、すぐに見つかった。黒髪に白髪がぽつぽつと生えた壮年の男性。舌打ちが聞こえて、そのまま私の世界から消えてしまった。

 ダメだ。私は人に嫌なことをしたのだ。謝らないと。

 私が楼門の辺りで、左を見渡した時だった。

 神社の世界観に沿ったトイレ。見慣れない建物。

 その中には、先程見た、あの山小屋。

 それが、そっくりそのまま建てられていた。

 ミツルの表情。ミツルの語勢。同じ建物が出現した、怪異。あれは、元々建てられたものなんかじゃない。

 それ以上、この場所にいたくなかった。

 私は足に力を入れた。走った。走った。人混みが勝手に避けてくれた。だから走れた。

 本当は、ミツルと一緒に逃げるべきだった。でも、私は冷静じゃないから、左手を掴んでしまうかもしれない。傷付けたくなくて逃げているのに、それで傷付けてしまっては仕方ないだろう。

 待て、という声が聞こえたって、私は手を取ることができない。あなたの手を握るのが怖いのだ。ごめんなさい。どうか私を許してほしい。

 鳥居を抜けて、バス停に戻って、ぐちょぐちょの顔をどうしようか悩んだ。心なしか、頭がずきずきと痛む。これは怪異じゃない。私が泣いているだけだ。

 私は生まれつきの臆病であったから、子供の頃、よく母に泣きついたものだ。母の腹に顔をうずめて、気が済むまでしゃくりあげた。なんでも話して、と耳障りのよい声が聞こえたら、堰を切ったように己の恐怖を吐いた。私は、どこまでも不甲斐ない息子だっただろう。全ての毒を吐き終えると、途端にすっきりする。母から、怖かったねえ、と頭を撫でられる頃には、私は泣き止んでいたのだった。

「成田。私にできることがあったら、なんでも言え」

 横から私を呼ぶ声が聞こえた。当然ながら、私の母ではない。母はとっくに亡くなっている。

「お前が朝、私に向けた言葉であるぞ。それをそのまま、今の成田に届けようじゃないか」

 声の主はミツルであった。余裕そうな言い回しであるが、息がたいそう切れている。ジーンズという、いつもと勝手が違うズボンを履いているにもかかわらず、全力疾走を惜しまないほど私を心配してくれたのだ。

「なんでも話すがよい」

 やれやれ、といった表情で、彼は言った。その一瞬だけ、母が蘇ったような気がした。

 しかし、それだけだ。母はもういない。私は歳を取り、母は骨だけになって、私の両手に収まるほど小さくなった。臆病の檻に囚われた私を置いて、母は空の向こうへ旅立ってしまった。

「いえ、失礼。北野天満宮に来られて、感動のあまり、はしゃぎまわってしまっただけです」

 自分のことはなんとかする。いくら過去の私が、成田を孤独にさせまいと思っていたとしても、私自身の憂慮など別にいい。右も左も分からない平安時代からの観光客に、何年も京都で暮らしてきた自分の相談をするほど、自尊心が欠如しているわけではないのだ。

 その時、ああ、と思った。私は、ミツルが、たいそう羨ましいのだろうな。前向きで、聡明で、人思いな彼のことが羨ましいのだろうな。

 だからきっと、心のどこかで嫉妬している。自分を心配してくれる友人すら無下にする、私はそういう人間だ。そうだ、私に差し伸べられた手すら、掴むことがままならないのだから。

「さて、バスが来るぞ。感動は一旦置いて行くがよい」

 ミツルは、私の言葉をそのまま受け取ったようだ。いや、むしろ言葉の裏を見透かした上で、親切にしてくれたのかもしれない。どちらにせよ、彼の前向きさには敵わないと思った。

 予定より大幅に遅れたものの、私たちは、やっと京都市から出た。


 まずは南丹市に到着。手当たり次第で探しても効率は悪いのだが、たとえば市役所の窓口に押しかけて、最近不思議なことが起こりませんでしたか、と尋ねる度胸はない。そもそも「はい、いいえ」で回答がもらえるかすら分からない。軽くあしらわれる可能性すらある。

 何を隠そう、今から私が探すのは怪異である。親からもらった足を使って、地道に聞き込みをするしかないだろう。

 できるだけ機嫌が良さそうな人を探し、怪異について尋ねた。丁寧に答えてくれたり、気味悪がって逃げてしまったり、反応は多種多様である。しかし、あまり人を呼び止め続けると、私とミツルが「この辺りで謎の質問を繰り返す不審者」として、怪異認定されてしまうかもしれない。いや、私が気にしすぎなのかもしれないが。

 ある程度の聞き込みが終わったので、移動するべくバス停に戻った。怪異の情報は得られなかったが、情報がないという情報が得られた。決して無駄な時間ではない。

 次に綾部市へ向かう。南丹市と要領こそ変わらないものの、景観がそれぞれ異なるので、聞き込みが退屈だとは思わない。少しして、また次の市へ移動した。

 それから、昼食も挟みつつ、三、四の市を通る。途中、バスが海沿いを走り出すと、ミツルが感嘆の声を上げた。うおお、という彼の声が、小さな車内に大きく響く。

「成田、あれが海なのか。左様か、海であるか」

 彼がまたガラスに指をぶつけないか不安だったが、身をもって経験したことは忘れないらしい。彼の手はしっかりと膝の上であった。手を動かせない分、足を異様に揺らしてはいるが。

 それにしても、人間の祖先が魚だからなのだろうか。ミツルはとりわけ海を気に入っているらしい。まさか海にも山小屋が現れたりなどしないだろう。仮にそうでなければ、彼を海に連れて行ってあげたいと思った。

 今日だけで数十人を呼び止め、更にはおかしな質問をしているのだから、その質問に「近くに海はありますか」という言葉を混ぜることなど、今の私には容易いことであった。

 京丹後市の海は美しい、という親切な回答者の意見を取り入れて、次の目的地を決めた。バスの窓越しから海を見つめるミツルに、今からそこに行くのですよ、と声をかける。その途端、ただでさえ目を輝かせていた彼だから、更に興奮して、小躍りまで始めてしまった。

 ミツルに座るよう諭しながら、彼は元の時代ではさぞ人気者だっただろう、と考える。当然、彼の周りにいた人々も、彼の前向きさを肯定する良き友人だったに違いない。

 ミツルが一人で未来へ旅立つと聞いた時に、取り残される友人は、どのような感情を抱いたのだろうか。検討もつかない。ただ、哀愁だけは感じないはずだ。なぜなら、ミツルが励ましてくれるだろうから。

 ふと思う。ミツルは平安から来たのだから、いずれ平安に帰る。その瞬間に、もしも私が立ち会えたとするならば、笑って見送ることができるのだろうか。心のどこかにある嫉妬や、顔をしかめた彼のフラッシュバックを除いたとしても、私は、彼と別れる準備が永遠にできない気がするのだ。

 それならば、私のような臆病者は、彼の友人としてふさわしくないかもしれない。

 突然、ミツルが立ち上がる。走行中だから危険だ、と注意する前に、バスが停止したことを知った。目的地に着いたらしい。

「成田、どちらが先に海へ着くか競争しよう」

 言い終わらないうちに、ミツルは通路側に座る私を強引に押しのけて、とっととバスを降りてしまった。乗車して降車する、という何度も踏んだ手順だ。彼が令和の交通機関を利用するのに、もはや私の介護など要らないだろう。

 それでも、私は彼に同行したかった。力になりたかった。嫌われたくなかった。たった一度だけでも、友人と呼んでくれたのが、無性に嬉しかった。

 私が友人としてふさわしくない、という悲観的な見方は、山小屋のフラッシュバックと同じように、記憶の中の霧にかき消してもらおう。逃避だと揶揄されたって構わない。

 なんだか、わがままが言いたい気分だ。

 席を立つ。バスを降りて、走り出す。前にはミツル。彼は前向きだが、私より若くはない。すぐに追いついて、並走する。

「やっと並んで走ってくれたじゃないか」

 かっかっか、と、友人は笑った。


 おかしい。海なのに、焼き肉の香りがする。

 どうやら、私が勧められた海は、砂浜でバーベキューができるらしい。見ると、どこもかしこも家族ばかり。父らしき男性が焼き、少年が食べる。きっと地元の人だろう。

 私は焼き肉が嫌いなわけではない。むしろ好物である。お腹が空いていれば、きっと砂浜の家族連れと同じことをしていただろう。とはいえ、潮風とか、波の音とか、そういった海ならではの現象を味わえないのは不満がある。

「令和の海は、なんとも美味しそうな匂いであるよ。どれ、飲んでみよう」

 ミツルの指す匂いは、十中八九焼き肉であろう。指摘しようとは思ったが、それ以上に、彼が海水を飲むのを止めるのに精一杯であった。指に付着した海水をなめるならまだしも、両手を柄杓にして水を汲んでいたのだから、洒落にならない。私の思い上がった諧謔心も、友人の危険性と天秤にかけたら、前者の方へ傾いたりはしない。彼に対する嫉妬こそ自覚しているものの、友人を危険に晒すようなことは絶対にしたくないのだ。

「しかし、海は騒々しい。予想とかけ離れていたよ」

 その騒々しさも、きっとバーベキューをする人々の話し声が要因だろう。彼はきっと、静かな海を渇望していたに違いない。なんだか申し訳ないと思う。

「すみません。海は結構騒がしいものなのです」

「なぜ謝る。予想とは違えど、祭りのようだ。これも一興ではないか」

 なんとも前向きな男だ。眩しくて目を細めてしまいそうになった。

 にしても、今日が雨ではなく、晴れていたのは幸運だった。雨が降っていると、外出する際に傘が必要というだけで、億劫だということもある。ただ、晴れてよかった一番の理由は、最も調子のいい状態の海を、友人に見せることができたからだろうが。

 おもむろに、その場を見渡してみた。澄み渡る空、青い海。鉄板と肉は、飢えた人々によって囲まれている。どれもこれも、太陽様のおかげだろう。もしも太陽という名の友人がいたら、縁起がいいから大事にする気がする。

 ふと、一人でバーベキューコンロと向き合う男性が目に入った。彼は特別浮いているわけでもないし、最高級の牛肉を焼いているわけでもない。なぜ注目したかといえば、その男性に見覚えがあり、かつ深刻そうな表情だったからである。

 砂浜を駆ける。靴に砂が入って気持ち悪い。それでも、急かす思いには抗えない。私の砂を踏む足音が聞こえたのだろう。鉄板と向き合う彼は振り向く。そして、私を見るや否や、驚いたような顔をした。

「森本先生じゃありませんか」

「成田先生。どうして京丹後市にいらっしゃる。まさか傷心旅行か」

 普段は黒いスーツ姿しか見ていないからか、白いポロシャツと黒ズボンをまとう今日の森本先生は、塾で会うよりも威圧感がない。

「同僚のオフに干渉するとは、あなたも中々強引な人だな。学校で道徳を学んだ人とは思えない」

 仕事仲間にプライベートを見られると、なんだかこそばゆい感覚になるらしい。私はそうは思わないのだが、森本先生が強引だと感じるのならば、悪いことをしたと反省しよう。しかし、もう声をかけてしまったので、なかったことにはできない。とはいえ、これ以上干渉しないことはできる。私がその場を離れればいい。

 ただ、その直後に、私は謝られていた。

「すまないね、成田先生。今、とあることをしていたのだが、結構心に来てしまったから、ついあなたにも強い口調になってしまった」

「ああ、いえ。私のことは気にしないでください」

 ミツルとの一件以降、森本先生は丸くなったようだ。前ほど強い皮肉は言わなくなったし、度を過ぎた宿題もなくなったように思える。本来ならば、同僚の私が注意して直すべきだったことだが、ほとんどミツルが彼を諭したようなものだから、なんだか他人事だ。しかし、森本先生にとって、それが良い結果をもたらしたのならば、私が蚊帳の外だって構わない。

「おや、森本ではないか。お前も、誰かと肉を焼いていたのか」

 ミツルも寄ってくる。いつしか、コンロの周りには三人の男。傍から見れば、仕事が休みになった社員が、仲睦まじく焼き肉をしている絵面なのだろう。

 森本先生は、ミツルにも会話が分かるよう、平安時代の言葉に切り替えた。

「俺一人だよ。それに、肉も焼いていない」

「なら何をしに来たのだ。海が見たいならば、その肉焼き機は不要だろう」

 もっともらしい質問だが、なんだか辛辣なようにも感じられる。というのも、本人の口から「心に来てしまった」と耳にしていたので、聞いてはいけないような気がしたのだ。

 ただ、森本先生は、何かを隠す様子もない。

「ミツル、『源氏物語』という物語を知っているか」

「いいや。文学には疎いものだからな」

 一拍置いて、森本先生が語る。

「源氏物語の第四十一帖。『幻』と呼ばれる巻がある」

 第四十一帖と聞いた途端、私は、彼が何をしていたのかを理解する。だからといって、彼の言葉を遮ってまで知識をひけらかしたいとは思わない。黙って耳を傾ける。

「その『幻』は、主人公の光源氏が、最愛の妻である紫の上に先立たれた後の話だ。光源氏は、紫の上を亡くしたことから心を病み、ずっと引きこもってしまう。月日が経っても、心の傷は癒えない。それほど愛していたのだ」

 まるで授業をするように、森本先生は淡々と喋る。ミツルは神妙な面持ちだ。

「そんなある日、光源氏は、紫の上が生前に遺した手紙を見つける。光源氏は、その手紙を読んだ後に、それを破って燃やしてしまった」

 真剣な顔をしていたミツルは、最後の言葉を聞くなり、たいそう目を見張った。なぜ燃やしたのか、とも呟いている。森本先生は、一度溜息をついてから、私の目を見つめた。

「成田先生。俺が何を言いたいか分かるか」

「ええ、もちろん」

 国文学者たるもの、読解は基礎である。肉が置かれていないコンロ、一人だけの海。光源氏と紫の上の関係、破って燃やした手紙。これらの因果関係を踏まえると、彼の主張は明白だ。

「森本先生。あなたは、亡くなった奥さんの手紙を燃やしていたのですね」

 森本先生は、海の果ての水平線を眺めながら、ただ一度、奥さんか、と言った。

「源氏物語を持ち出したことで、誤解を生んでしまった。確かに俺は手紙を燃やした。だが、燃やしたのは想い人の手紙だ。彼女とは、決して夫婦と呼べる関係ではなかった」

 スマホやネットが普及している令和の時代に、手紙という媒体を使って意思疎通を図るのは稀だ。私のような情報弱者がいることを考えても、その想い人が森本先生に向ける感情は、少なくとも零以下ではないだろう。不謹慎かもしれないが、話を聞くほど、彼女のことを知りたくなってしまう。

「最近、亡くなったのですか」

「とうの昔だよ。未練をたらたら引きずって、気付けば令和というわけだ」

「亡くなっても尚、森本先生の未練になるほど心に残る女性だったのですか。その想い人も、とりわけ幸せだったのでしょう」

「さあな。俺は皮肉屋だから。鬱陶しく思われているかもしれない」

 そんなことないですよ、と庇おうとするものの、ミツルに遮られる。

「森本、お前は鬱陶しい皮肉屋であるよ」

 あろうことか、ミツルが遠慮なく森本先生の自虐に同意してしまった。

 不安を抑えきれないまま彼の顔色を窺うと、予想外の同調に驚いたのか、忍び笑いをしていた。ひとまず、空気が悪くならずに済んでほっとする。

 それから森本先生は、ズボンのポケットから、綺麗に折り畳まれた紙を取り出した。ちらと文字を見るに、筆者は達筆な人物だと断定できるほど美しかった。

「この手紙だけは、やはり、燃やせないな。俺は光源氏になれない」

「他の手紙とは違う、特別なことが書かれているのですね」

 だが彼は、小さく首を振る。

「むしろ、一番くだらないものだ。ただ、このくだらない文章が、俺を変えた」

 私の視線では、手紙の内容を確認することはできない。しかし、他人の手紙を覗き見るほど、尊厳を知らないわけでもない。

「彼女、そして、この一枚の手紙があったからこそ、俺は国語を勉強したのだ。これは、俺に目的を与えてくれた手紙だ。そんな思い出を、どうしても灰色にしたくなかった」

 皮肉屋には、皮肉屋なりの人生がある。彼はそう続けて、また紙を折り畳んだ。

「話はおしまいだ。肉などないから、早く帰るといい。次は古典塾で会おう」

 これ以上話すつもりはないらしい。ではまた、と告げて、私とミツルはその場から離れた。

 ただ、場所を移したからといって、心境が変わるわけでもない。偶然遭遇した同僚が、亡くなった想い人との未練を断つために、手紙を燃やしていたということ。様々な出来事が詰め込まれた今日の中でも、頭一つ抜けて重苦しかったように感じられた。

 森本先生の話が、波のように寄せては返す。一旦忘れようとしても、すぐさま頭に浮かぶ。しばらく余韻は消えないだろう。

「さて、海を見たのですから、また怪異探しに戻りましょうか」

 だから私は、努めて明るい声を出した。

「バス停まで競争しましょう。人差し指が負傷しているとはいえ、足は万全ですよね。ならば手加減はしません」

 旅はまだ終わっていない。たとえ森本先生の話が脳裏に焼き付いて離れなくなったとしても、私たちの予定は変わらないのだ。旅館に着いて、どうしても考えすぎて眠れなくなった時に、初めて焦燥感が募ればいい。

 とはいえ、それが虚勢であることは分かっている。海を見たことよりも、森本先生の話を聞いたことの方が印象深いのだって、心の一番深い部分で理解している。

「手加減はしない、とな。それは私の台詞だ」

「どうでしょうね。それは事実か虚勢か。今、この瞬間から試してみましょうか」

 それでも、私という小心者が明るい声を出したこと。それ自体が、ミツルを支える柱になってほしいと思った。平安時代にいる彼の友人は、きっと明るい性格なのだ。ならば私だって、ミツルに紹介してもらいたい。千年以上の時を越えて巡り合った友人が大好きだった、と。

「さあ、勝負開始です」

 私が、本当の意味で彼の友人となれるように。

 いつか必ず訪れる別れの日、彼に大きく手を振れるように。

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