叫び声の怪異

 私が授業を終えて帰路についた時には、雨が滝のように降っていた。

 ただでさえ夜だというのに、黒い雲が空を覆っている。石畳に降り注ぐ雨が、行き交う人々の足音をかき消す。傘を差せば誰の姿も見えない。雨だけを残して、私は暗闇の中の孤独になった。

 五月下旬。京都に引っ越して、もうじき三年となる。

 古典に関心を持った私は、三年前に京都の地で高校生向けの古典塾を開いた。最初は一人の生徒しか集まらなかったものの、どういう風の吹き回しか、私の授業が話題になったらしい。今では二、三十人ほどの生徒が入塾している。

 私は古典を愛するゆえに塾を開いたが、生徒が大学受験のために塾に通っているということは十分に承知している。できるかぎり生徒の需要に応える授業をしたいのだが、試験に出される古文は平安時代のものが多く、加えて私の専門は平安時代ではない。

 とはいえ授業は分かりやすいという評価を受けており、先生は平安生まれですか、といった冗談を言われたこともある。素直に嬉しいが、もちろん、そんな事実はない。仮にそうであったとしたら、生徒に三十歳だと公表している私は、年齢詐称ということになる。

 しかし、雨が強い。私は傘を後ろに傾けて、お気に入りの白いコートが汚れないようにした。

 瓦屋根と木材で形成された京都。歴史がそのまま保存されているかのようだ。その趣のある街並みは観光客から支持を得ているが、月明かりも頼りにならない今宵の京都は、妖怪や怨霊を連想させるほどに不気味である。この街に三年暮らす私が思うのだから、初めて訪れる観光客は尚更だ。

 ふと、きゃう、という叫び声が聞こえた。女性の声だ。頭がずきずきする。すぐさま周りを見やった。だが、女性どころか誰もいない。更に辺りを見回して、ここが普段の帰り道ではないことにも気付く。おかしい、と私は呟いた。

 まさか、怪異が発生したのか。暗闇に恐怖を助長された私は身震いするも、すぐさま冷静になった。

 女性は外ではなく、家で叫んだのだろう。たとえば虫が現れたとか。空耳の可能性も否めない。ともかく、怪異ではない。そう思い込まないと気が狂う。

 人が見当たらないのは分かる。古典塾は午後十時まで開いているため、講師の私が帰る頃にはとうに日を跨いでいる。そんな時間帯に人は出歩かない。

 だが、なぜ私はいつもと違う道にいるのかは解せない。道を間違えたのだろうか。それならば、曲がり角の目印にしている「京都タワー」を、他の何かと勘違いしたと考えるべきだ。

 私は来た道を走って引き返した。ズボンが水溜まりで汚れるが、帰りたいという欲が勝った。京都の夜は怖いのだ。

 すぐに目印たる京都タワーを見つけた。十階建てのビルの上に、遥か天まで昇る塔がある。先端から少し下には、ドーナツに似た形状の展望室が確認できた。これこそが京都タワーだ。天候が悪くてよく見えないが、先端は雲まで届いているように見える。タワーの入口は見当たらない。いや、そもそも、中に入る必要性もないだろう。

 私は確信した。京都タワーを勘違いすることはない。なぜならば、京都で最も高い建造物は京都タワーだからだ。これよりも雲に近い建物を作るには、京都の条例に違反する必要がある。日本人にきまりを破る勇気などない。一息つくように、私は顔を下ろした。

 ならばどうして、私は道を間違えたのだろうか。いや、考えるのはよそう。私は普段より疲れていたのかもしれない。諦めて本来の帰り道を探そうと、顔を上げる。

 その時、私は本当に疲れている、と実感してしまった。

 少し先の方に、もう一つ京都タワーがあったのだ。

 私は一つの建造物が二つに錯覚されるほど酔ってはいない。かといって、物が二重に見えるような病気も抱えていない。生徒からは変人だと称されるが、それは私の性格の話であって、物の見方とは何の関係もない。

 目を擦っても、京都タワーは二つ。

 そこで私は、先程目印にした方の京都タワーに近付いた。これが私の幻覚ならば、それに触れることはできないと思ったからだ。

 仮に私が妄想性障害であろうと、一向に構わない。それならば医者を頼ろう。説明のつかない怪異より恐ろしいものはないのだから。

 すがる気持ちで、京都タワーに手を伸ばす。

 しかし、期待はガラスのようにひび割れて崩れた。それは確かに質量を持って、京都に存在していたのだ。

 だが、何かが引っ掛かる。違和感の正体は触れた手だ。私が手を当てているのは、京都タワーのビルの部分である。京都タワーのビルは鉄骨鉄筋コンクリートでできている。

 ところが、私の掌に冷たいコンクリートの感覚はない。むしろ、温かみを覚えるような素材。これは、木だ。木でできている。

 つまり、この京都タワーは、京都タワーではない。

 ならばなぜ、と疑問を覚えるよりも早く、私は逃げ出していた。京都タワーだと思っていたものが、実は違った。結論は出たのだ。それでいいだろう。後のことは、私よりも見聞のある人物に任せるべきだ。

 臆病だの、小心者だの、言えばいい。私はただの国文学者だ。この塔のことは、建築家に委ねるべきである。文化的価値がないならば、私がいる必要なんてない。そのような逃避の正当性を自分に言い聞かせる。それから歯を食いしばって走った。傘が後ろに引っ張られるから、もうびしょ濡れだ。足が滑って何度も転びかけた。どうして私がこんな目に遭うのだろうか。私はただ、文学を究めようとしただけなのに。

 なんとか本物の京都タワーまで辿り着いた。私は肩で息をする。三十歳の体で全力疾走をすると、かなり堪えるようだ。少年のようにはいかないらしい。

 呼吸を整えた後、先程の建物はやはり幻覚だったのだ、と思うために、あの塔の方角を向いた。しかし、依然として佇む塔。私はおでこに手を当てて、今度こそ見て見ぬふりをしようとした。

 それにもかかわらず、運命は私を当事者にしたがるらしい。

 突如として雷が鳴り、京都が照らされる。

 その途端、私は、あの塔の展望室に誰かがいることを知った。

 見てしまったのだ、私は。

 傘を投げ捨てて、一目散に駆け出した。今まで理性によって押さえつけられていた恐怖が、音を立てて破裂した。

 女性の叫び声、京都タワーに似た塔、そこにいる誰か。最後の出来事こそが、第一に「幻覚」だと誤魔化しやすいにもかかわらず、私はそれを真実だと受け止めた。もはや冷静ではいられなかった。喚きながら走った。水溜まりに涙が混ざった。家に帰って、びしょびしょのまま布団に飛び込んだ。背中に張り付いた服が、ひんやりとして気味が悪い。白い服をまとった古典的な幽霊を想像してしまう。

 しかし、本当に私を怯えさせたのは幽霊ではない。投げ捨てた傘を取りに行くために、また塔に戻らねばならないという事実だ。すっかり怖気づいた私だから、今から戻る度胸はなく、明日の朝でもいいだろうと思い立った。

 私は布団にくるまり、冷えた息を吐きながら、ただ日が昇るのを待っていた。


 昨日の雨が嘘のように晴れて、とうとう私は一睡もできなかった。

 布団から出なければならないが、体が動かない。とうに震えは消えたはずのに、なぜだろうか。いや、まだ強い不安感をまとったナイフが、胸を刺しているのだろうか。

 体の異常の答えが、ストレスと睡眠不足が災いした金縛りだと気付く頃には、あらゆる可能性を考えすぎたせいで眠くなってしまった。しかし、今から忘れ物を取りに行かなければならない。

 ぼうぼうと、おぼつかない意識のまま傘を取りに向かうと、やはり塔は二つ建っていた。気付いていないだけで、私は微睡の中にいるのだろうか。

 ただ、昼であることが救いだった。私を包み込んでいた恐怖は風と共に飛ばされたらしい。探し物をする私の足取りは、昨日よりも軽い。

 結局のところ、傘は見つからなかった。恐怖と一緒に飛んでいったのかもしれない。あるいは、善良な誰かが交番に届けたか、幸運な誰かが雨除けに使ったかだ。

 さて、今日は授業がない。傘が見当たらないならば、これ以上外出する理由もないのである。昨日ちらと見た「展望室の誰か」の正体を突き止めたいとは思うが、私が介入する必要もない。帰るために、水溜まりに足を踏み出そうとする。

「あのう、ちょっとよろしいですか」

 突然声をかけられた。向き直ると、二十代後半と思しき、ワイシャツ姿の男性が立っている。

「ぼくは松平といいます。京都市役所の職員です」

 急に自己紹介をされたので、私もつい「成田です」と返してしまった。名刺は持っていないが、そもそも名刺を渡すほど改まった場所ではない。ここは水溜まりの上だ。

「存じ上げていますよ、成田さん」

 どうやら私は有名人らしい。古典だけを扱った塾を開いた人間というのは、良くも悪くも注目を浴びるのだろう。それが京都ならば尚更。

 言葉の調子を崩さぬまま、松平さんが続ける。

「あの建物について訊きたいことがあります。もしお時間がありましたら、どうか来ていただきたい」

 彼の指は、私が記憶のタンスに封じ込めていた「あの塔」を指していた。これ以上、私は不可思議の当事者にはなりたくない。だが、市役所の職員の言葉を断るほど悪漢に育った覚えもない。もはや恐怖はないが、それと同量の億劫が温泉のように湧いてくる。

 どうする、と考えているうちに松平さんは歩き出した。私は日本人だから頼みを断り切れはしないし、ここで立ち尽くすのも私の倫理に背く。結局、私も松平さんに続いた。

 私の足取りが重いのは、ただ単に気が進まないからではない。濡れた石畳のせいだ。油断していると滑ってしまうから、一歩ずつ踏みしめる。昨日はよく転ばなかった、と自分を褒めてあげたいものだ。それとも、歳を取ってしまったからだろうか。いや、それを考えたくはない。

「成田さん、着きました」

 得体の知れない、謎の塔。一度は逃げた場所だ。それにしても、二度もそれを目にしなければならないとは。面倒事ではあるが、運命に似たものを感じる。

「この建物、大部分は鉄でできているのですが、下から五メートルほどは木造。しかも、入口がどこにもないのですよ。不思議なものです」

 かの塔は、昨日も今日も変わらぬ佇まいで私を待ち構えている。昨晩との相違点は、ワイシャツ姿の市役所職員に囲われていること。そして、視界不良だった昨日とは違い、模様に似た「何か」が壁に彫られているのを確認できることだった。「何か」の横には、小さな穴のようなものも見られる。釘跡だろうか。

 松平さんは、その穴には目もくれず、「何か」を指さしながら呟いた。

「成田さん、この壁の文字って……」

 彼の意図は分かる。これは古代の文字であり、古典に精通した私が読み解くことに期待しているのだろう。もちろん、私には理解できた。

 これは変体仮名。いわば、平安時代の文字である。そう彼に告げた。

 松平さんは嬉々として解読を求める。知識をひけらかす絶好の機会だから、私も得意げに要求に応じようとした。しかし、それよりも大きい疑問が私を包み込む。

 彼は、どうして壁の「何か」を文字として認識できたのか。また、文字を解き明かすために、私の技能が必要なのだと分かったのか。

 けれども、その問いに示された解答は、あまりにも膨大だった。

「実はぼく、大学院で歴史学を専攻していましてね。解読まではできないものの、これが昔の言葉だということは承知していたのです。ぼくが通っていた大学でも、昔の話し言葉という講義があったのでね。そして、昔の言葉となれば、成田さんの右に出る人物は京都にいないと判断しました」

 彼は次々と捲し立てる。まるで止まらないドリンクバーのようだ。

「余談ですが、成田さんの古典塾は、京都の歴史マニアなら知らない人はいません。ぼくに子供がいれば通わせたでしょうし、ぼくが受験生なら通っていました。まさか、こんな形で知識が垣間見えるとは。職権乱用にならなければいいのですが。ああ、失礼。少々口が過ぎたようです」

 自嘲するように肩をすくめて、それから彼は静かになった。

 私と彼が、同じ学問に興味があると判明したからだろうか。市役所の職員という堅苦しい肩書きを持つ松平さんが、途端に気さくな人物だと感じられた。酒を飲ませれば更に喋るだろう。たとえ彼が口が過ぎたとしても、私は大変愉快だ。

「話を戻します。ええと、この文字は、何と書かれているのですか」

 だが、彼は冷静らしい。私の意識はまた変体仮名に移された。いつの間にか、松平さんの周りに他の市役所職員が集まっている。私の解読が気になるらしい。とはいえ、期待されているのだ。悪い心地はしない。先程の眠気だって、とっくに消え去っている。

 私は大きな咳ばらいをして、ゆっくりと呟く。

「アマノミツル」

 塔に異変が起こったのは、その直後だった。

 突如、木造の壁の一部が、どんどんと物音を立てる。まるで誰かが壁を蹴っているかのような鈍い音。私を含め、その場にいた全員が釘付けになった。奇々怪々は時間と共に激しさを増し、壁がみしみしと呻き声をあげる。

 昨日の私なら逃げ出していただろう。だが、塔に変体仮名が記されているとなれば、そうもいかない。知的好奇心は本能すら上回る。ここから先は国文学者たる私の仕事だ。

 木が割れる。壁が壊される。そうして、塔の中から、男が現れる。

 まるで靴の底だけで歩いているような草わらじ。裾が絞られ、右の太ももの辺りが膨らんでいる白い小袴と、浴衣に似た黒い筒袖。ふっくらとした顔立ちと、鋭利なあごひげのコントラスト。その男性の服装は、まさに時代を遡行したようである。年齢は五十歳前後だろうか。

「今、その言葉を呟いた者は、誰であるか」

 職員たちは、訝しげに眉をひそめている。彼です、と私を指さす者はいない。わざわざ隠す必要性もないので、自分から名乗り出た。

「私です。成田茂三と申します」

 言い終えると、その男性が振り向いた。しかし返答はない。壁に彫られた「アマノミツル」は名前だと思ったのだが、違っただろうか。ただ、そうなると文字の存在理由が解せない。男性はミツルさんで間違いないだろう。

 ふと、自分でも信じがたい発想だが、彼は現代語が喋れない可能性があると考えた。彼の服装は、平安時代の庶民のそれだ。もしかすると、平安時代の言葉を使えば、意思疎通ができるかもしれない。国文学者たる私には呼吸よりも簡単なことだ。

 この魂胆を実行に移す。ミツルさんと目を合わせて、私がアマノミツルと呟いた成田茂三です、と平安時代の言葉で言い表した。途端、彼が驚いたかのように眉を上げる。

「あなたを、ミツルさんと呼べばいいでしょうか」

 彼は、当惑する素振りを見せながらも、段々と落ち着きを取り戻す。それどころか、今度は鷹揚な態度で私に返答するのだ。

「好きに呼ぶといい。しかし、その『さん』はもどかしい。外せ」

 とはいえ、彼から敵意は感じない。私だって、彼のことを知りたいと思う。友好的に振る舞うべきだ。

「分かりました、ミツル」

 ミツルが口角を上げた。年上らしき人を呼び捨てしたのは初めてだったから、背中を撫でられているかのような、こそばゆい感情が消えない。

 彼と交友関係ができたのはいいものの、未だに職員たちは何も喋らない。この時、彼らはミツルを怪しんでいるのではなく、そもそも言葉が分からないのだと知った。

「ぼくは松平です。平安時代の話し言葉は、どうも慣れないものですね」

 歴史専攻の松平さんは、どうにか言語の正体が掴めたらしい。やたら癖のある発音だが、それを恥ずかしがることもなく、堂々としている。思うに、平安時代の方言のようなものなのだろう。

「早速本題に入りましょう」

 彼は一枚の紙を取り出して、ミツルに見せた。

「この建造物は、京都市が定める『市街地景観整備条例』に違反しています。即刻取り壊しをお願いしたい」

 私は声を出して驚いた。松平さんの持つ紙には、塔の撤去を実行するという趣旨の内容が書かれている。正気だろうか。この建物は、歴史的観点から見て有意義な情報が残されている可能性がある。彼は本当に歴史を研究したのだろうか。

 私の憂慮も知らずに、松平さんが続ける。

「市役所で調べたのですが、こちらの建物の高さは二百メートルでした。立派な条例違反です」

「なぜ具体的な数値を出せる」

「三平方の定理ですよ。ご存じありませんか」

「三平方。令和は不思議な言葉を使う時代だな。しかし撤去とは納得がいかぬ」

 とぼけているようには見えない。彼は本当に三平方の定理も条例も、そして現在の言葉も知らないのだ。弱い者の味方、というわけではないが、私はミツルを庇ってやりたい。

 一人にはさせない。それに、この塔は新たなる歴史の発見かもしれないのだ。

「待ってください。この塔には、文化的価値があるかもしれません」

 論理を組み立てるより早く、私の口が動き出す。

「なぜです。この男性はともかく、建物に価値があるとは思えない」

「壁に平安時代の変体仮名があったのを見たでしょう。塔の中にも、同様のものが見つかる可能性があります」

「見つけてどうするつもりですか。景観が壊される、というクレームが、朝の時点で既に入っているのです。第一、こんな塔が建てられたという記録は、どの歴史書にも載っていない。それとも、我々市役所職員に、もう一度『日本書紀』を読み直せと仰りますか」

「あなたは、歴史が好きなのでしょう。歴史を学んできたのでしょう。この塔が、いつ、なぜ、どうやって現れたのか、気になりはしないのですか」

 感情でしか反論できない私に対して、松平さんは大きな溜息をついた。

「ぼくは歴史が好きです。だからこそ歴史を穢すものは許せない。この建物が作られた経緯とか、方法とか、そういったものは考えません。ぼくの知る歴史は、先祖が残した資料を、一文字も間違えずに後世に伝えることです」

 彼にとっては、これまでの人生で得た知識と見聞こそが歴史なのだ。たとえば、鏡に手を伸ばしたら違う世界に連れて行かれる童話や、こんこんと鳴く狐と対話ができる御伽話を読んだ途端に、それが突拍子もない妄想だったとしても、不変の常識として組み込まれていたのだろう。

 私の考える歴史哲学とは違う。だが、それを根拠として反論することは叶わない。

「変体仮名を見つけて喜んだのは事実です。しかし、歴史か悪戯か判断し難いものを放置して、ぼくの大好きな京都の景観を壊すほど無邪気ではない。ぼくは大人だから、京都を守らなければいけないのです」

 私が言葉を考えあぐねるうちに、松平さんが職員の一人に呼ばれて、議論は中断されてしまった。周りを見ると、既に「立入禁止」のテープが貼られている。どうやら、市役所はこれ以上聞く耳を持たないらしい。

 私は、ミツルの塔が封鎖されるのを、ただ眺めることしかできなかった。昨日はあれほど畏怖した塔であるのに、どうして物寂しさを覚えるのか。思うに、学術性の有無が私の価値観を創造しているのだろう。いや、それだけではないかもしれない。

 立ち尽くすミツルの表情を一瞥する度に、私の内側から湧き上がる、難渋ゆえの黒い感情に締め付けられた。

「ただ、成田さん」

 いつの間にか、松平さんが戻っている。しかし、議論が再開されるわけではなさそうだ。

「今回のように、突然、景観を破壊する建物が出現したケースは初めてなのです。だから撤去しようにも、前例がないから、多少の時間はかかるでしょう」

 突然現れた、という塔の異常性を自覚した上で、事務的に状況説明している松平さん。大人も立場も通り越して、一種の自尊心に似たものが彼を縛っているようにも思えた。

 松平さんは現代語で説明した後、平安の言葉に切り替える。

「勝手な話ではありますが、こちらの場所を封鎖する以上、この建物に住むことはできません。ええと、失礼。名前を伺っても」

「ミツルです。ミツル」私が補足する。

「そう、ミツルさん。本来ならば、新住居が決まるまで市役所がホテル代を負担します。ですが、英語に対応したホテルはあろうと、平安の言葉に対応したホテルは、京都ですら、とんと見かけない」

 勘の鈍い私だが、彼が次に言うであろう提案を察することはできた。つまり選択である。国文学者か、市役所の職員か。

「平安の言葉が喋れる人間は、ぼくの知る限り、ぼくと成田さんだけです。成田さんさえよければ、どちらの家に泊まるかミツルさんに選んでいただきたい」

「成田だ」

 私が許可を出す前に、ミツルに選ばれてしまった。断るつもりはなく、むしろ生きた標本を手元に置けることへの幸福に包まれたが、それでも、即決で私を選んだ理由は気になる。もちろん、松平さんに対する優越感を得たいわけではない。

「誤解を招かぬように説明するが、私は松平を嫌悪するのではない。むしろ安らぎすらある。だからこそ成田にするのだよ」

 今度は私が劣等感を覚えそうな物言いだ。いや、平安時代の気遣いとはそういうものなのかもしれない。松平さんが傷付かないならよしとしよう。そう自分に言い聞かせる。

「先走ってしまったが、さて。泊まってよいか、成田」

 私はただ一度頷いた。心の底から溢れるこの高揚は、お泊まり会のそれに限りなく似ている。大人に成り果てた私に訪れる、子供らしい出来事。

 空は水溜まりのように澄んでいる。仮に濁っていたって、今の私には観測できない。

 

 当初、私はすぐさまミツルを連れて帰れるのだと思っていた。しかし、それは浅はかな考えであったと、今では強く感じている。

 ミツルが私の家に泊まると決まった後、私たちは市役所に向かった。突然建てられた条例違反の塔、という異例の事態を対処するのには、最も妥当だと思われる慣習を適応すべく、書類を沢山書かねばならなかったのだ。既存の書類に加えて、新たな書類を作る必要もあるらしい。書いて、待って、書いて。ようやく手続きを終えて市役所を出る時には、京都に夜が訪れていた。

 私は、昨夜と同じ道のりを歩いていた。隣にいる異邦人らしき男を除けば、至って平凡で不穏な夜。もしも孤独の帰り道だったならば、また京都の夜に怯えていたに違いない。幸い、今日は晴れだ。石畳が見えるほどには明るい。少し遠くの方には、二つセットの光が見える。狐がいるのだろう。珍しいことではない。これも平凡の一部である。

「いやあ、腹が減った。昼飯を食べなかったのは人生で初めてであるよ」

 実を言うと、能天気に空腹を嘆くミツルの存在が、とりわけ私には頼もしかった。得体の知れない男ではあるが、同時に夜の気味悪さも知らないようだ。

「今日はごちそうだ。松平から銭をもらったのだから、たんと旨いものを食おう」

 ミツルは、じゃらじゃらと音を鳴らしながら、何枚かの小銭を片手から片手に移している。市役所からミツルへ、一円単位で生活費が支給された時に、彼は一万円札には目もくれず、代わりに小銭にとんと食いついていた。平安時代に札束の通貨は存在しなかったからだ。

「にしても不思議な銭だ。特に、この十円玉とやらは……」

 彼が片目を瞑りながら、十円玉を睨みつけた、その時だった。

 耳をつんざくような、女性の叫び声。

 頭にずきずきと響く。私の脳が回想を始める。確か、昨日も同じような声が。同じような頭痛が。

 二度目が訪れた。ならば、怪異だ。

 キン、という金属音。ミツルが十円玉を落とした。キリ、キリ、ポタリ。水溜まりに消えた十円玉。彼が、それを取りに行くために、私の元から離れてしまう。

 行かないでくれ。私の隣から消えないでくれ。怖い。私は怖い。

「そんなはした金、いくらでもあります!」

 気付けば、ミツルの手を取って走り出していた。彼がまだ十円玉を回収できていないのは、百も承知。それよりも、かの女の叫びが頭を揺らしてくるのだ。ミツルが私の名前を呼んだって、まともになんかなれないだろう。怪異に汚染された私を清浄するなど無理だ。もはや正常にはなれない。

 走れ、走れ。あんな叫び声を上げる怪異と、国文学は一切関係ない。

 走れ、走れ。ミツルの時と違って、私が介入する理由もない。

 恥ずかしい話だ。恐怖から逃げ惑っていたら、いつの間にか家に到着してしまっていた。京都とはいえ、私のねぐらはアパートの一階である。扉を照らす微かな電球を見て、ようやく冷静な自分を取り戻せた気がした。

 私はミツルの手を離し、取り乱したことを謝罪しつつ、京都の夜の恐ろしさを訴える。とはいえ、謎の塔も、そこから現れたミツルも似たような存在だ。要するに、怪異に怪異を訴えているのである。無意味なのは分かっていた。それでも誰かと感情を共有したかったのかもしれない。腹の底にある感情で語り合える、故郷の家族や友人と何年も話していないからだろうか。

「成田は臆病であるな。いつだって夜は平等だろうに。お前だけに牙を向くことなどあるはずなかろう」

 かっかっか、とミツルが笑う。それから私の家の扉を、引き戸の要領で何度も横に開けようとしていた。鍵はかかっているし、なによりドアノブは横に引くものではない。しかし、それが外と中を隔てる境界線であることは理解したらしい。彼は令和における知識が不足しているだけで、本来は聡明である気がしてならない。

 悪戦苦闘するミツルに下がるよう指示し、ドアノブに鍵を差し込む。

「今日は様々な不可思議を目にしたが、まさか、住居に入るのにも手間がかかるとな。そうなると、令和の常識をちょいと勉強しなくてはならぬ」

 私はとうに扉を開けて、ミツルが入るのを待っていた。彼は何やらぶつぶつ独り言を呟いている。自分の世界に入り浸っているようだったから、名前を呼ぶことはしなかった。

 独り言をやめて、ふと我に返ったミツルは、草わらじを履いたまま玄関に立ち入った。今まで学んだ知識を引用すれば、ある程度予想できていたことだった。すぐさまわらじを脱ぐようにと念押しする。その一方で、今まで蓄えてきた知識が正しかったと思えて、妙に心地良かった。私が国文学者になったのは、この快感を味わうことが所以だったのかもしれない。

 今日はごちそうだ、とミツルは張り切っていたが、あの暗闇にもう一度飛び出して外食をする勇気は、私には残っていなかった。残っていたのは冷蔵庫の野菜だけである。それだけで作れるごちそうとなれば、天ぷらだ。真っ先に天ぷらを思い浮かべた。

 ミツルに洋室で待機するよう命じて、フライパンに油を注ぐ。キッチンは廊下にあり、廊下は洋室に繋がっているから、横を向けば彼の姿を確認することができた。それにしても、家に人を招くのは何年ぶりだろうか。

 私は料理上手な人間ではないから、小麦粉が舞ってくしゃみが止まらなくなったり、油が頬にはねて声を出してしまったりで、ミツルには散々心配させてしまった。すぐさま私に駆け寄って「怪我はないか」と眉をひそめる彼は、きっと水晶のように澄んだ心を持っている。

 彼に不安な感情を抱かせるくらいなら、いくら私が惨めな振る舞いをしようと外食に行くべきだった、とは少しだけ考えた。けれど、右も左も分からなそうな彼を飲食店に連れて行くのは、結構リスクのあることだ。今ではそう思い直している。もしくは自分の正当化。

 それに、私にとっては、誰かと食卓を囲むことが格段美しいことに感じられたのだ。気付いていなかっただけで、私が過ごした京都の日々というのは、常に孤独と肩を寄せ合うものだったのだろう。とはいえ、孤独から脱却した瞬間に、暗闇の正体を知ることになるとは思わなかった。

 天ぷらが盛りだくさんの皿を、そっとテーブルに置く。すると、ミツルは少年みたいに目を輝かせた。

「ああ、旨そうだ。これはごちそうだ。成田、これを私が食べてもいいのか」

 もちろんです。私は頷いた。彼は嬉々として箸を取り、早速さつまいもを口に運ぶ。もきゅもきゅ、と唇が動いている。食べ物が喉を通る音が聞こえたと思ったら、彼はすぐに次の天ぷらへと箸を伸ばした。

 ミツルは、旨いとも不味いとも発しなかった。だからといって、私が不安になることもない。平安時代には「食事の際に言葉を発すると、妖怪に憑かれる」とされていることを知っているからだ。思うに、文学を研究していると、後天的に他人に寛容になれる。

 ふと、ミツルが何にもつけずに天ぷらを食べていることを見て取った。もっと気を利かせるべきだった。慌てて醤油を持ってきたが、彼はとうとう一度も醤油をかけずに完食してしまった。

「そのような贅沢品は要らぬ。手間をかけてすまない」

 このような気休めまで言われるのだから。いやいや、と私まで恐れ多くなった。せっかく作った料理なのだから、美味しい方法で食べてほしいと願うのは普通のことだ。しかし、旨かった、とミツルの口から聞いた瞬間に、背中がむずむずするような感情に襲われて、思考が熱暴走した機械のように止まった。

 しどろもどろな自分を誤魔化すために、私は缶ビールを一本開けた。酩酊に身を委ねれば、私の頬が赤い理由を、料理を褒められたこと以外であると紛らわせることができる。

 自分だけ飲むのも気が引けるので、ミツルにも缶ビールを勧めてみた。最初は乗り気だったが、それの正体が酒だということを知ると、途端に断られてしまった。贅沢品だからだという。

 謙虚か遠慮かは分からないとはいえ、嫌だと主張する人に無理強いする趣味はない。そもそも、彼の年齢も知らずに酒を勧めるのもよくない。いや、彼が二十歳未満には到底見えないけれども。

 結局、マグカップにココアを入れて差し出した。ココアを説明するのに時間はかかったが、夜遅くまで誰かと対話できるのが新鮮だから、常識を常識だと説明することの億劫は微塵も感じなかった。

「あの塔、もうすぐ市役所に壊されちゃいますよ。どうするんですか」

 そう彼に訊いたのも、ただ疑問に思っていたからだけではない。とにかく会話を途切れさせたくなかったのだ。

 彼は、ああ、と声を漏らす。それから宙を見つめた。

「壊される前に、持って帰ればよいのだよ」

 持って帰ればよい。念のためもう一度繰り返してもらったが、どうやら聞き間違えでも、私が酔い過ぎているわけでもなさそうだ。

 その時、私に雷のような閃きが落ちてきた。この痺れる感覚。今だけなら天才物理学者になれるかもしれない。そう調子の良いことを考えられるのは、酒のおかげだろうか。

「はっきりとは言ってなかったな、成田」

 ミツルの服装、言動、そして知識。令和の時代にはそぐわない。演技だと判断すべきか。いや、理由がないから違う。火のない所に煙は立たないように。

 それならば、残された考えは一つ。突拍子もないと現実主義者は笑うだろう。根拠がないと哲学者は一蹴するだろう。だが、いくら現実を語ったって、私の仮説は仮説で終わるはずがない。

「私は、来たのだよ」

 ミツルがいた塔はタイムマシンのようなもの。そして、彼自身は。

「平安の都から、令和の時代に飛んだのだよ」

 想像通りだ。自分でも驚くほど、彼の奇怪な告白を容易く受け止めることができた。京都の夜よりも、時空を超越した出来事の方が、私にとっては都合が良いのかもしれない。もしくは、酒が回っているとか。

「だと思いました」

 どうやら私は、臆病であると同時に順応性の高い性格であるらしい。むしろミツルの方が戸惑っている。信じられないとか、証拠を見せろとか、そういった否定的な言動はないのかと問われるが、せっかく時間旅行という面白そうな話題になったのだから、現実的な論理を適応するのはもったいない。

 彼は力なく笑い、小袴の中から麻袋を取り出した。なるほど、右の太ももが膨らんでいるように見えたのは、これのせいだったのか。

「ちゃんと証拠があるというのに、見せる機会がなければつまらぬものだよ」

 麻袋の中には、「時間旅行切符」と墨で書かれた白い札が入っていた。左端には、小さく「西暦一〇二三年→西暦二〇二三年、千年先」と記されている。きっと彼は、この札を握りしめながら、あの塔を媒介として時間を飛んだのだろう。

 ところで、切符はおろか、鉄道が誕生したのは一九世紀のイギリスである。平安時代から来たミツルが「切符」を所有しているのはおかしな話だ。そこで当人に訊いてみたところ、仲間と大量の米をかき集め、それを神社に奉納することで手に入れたという。「時間」と「旅行」は分かったものの、「時間旅行」という熟語と、謎の文字「切符」が理解できずに、平安の仲間と苦悶していたらしい。

 だが、なぜ意味が分からないものを手に入れようとしたのか。意味が分からないのに、手に入れる方法は知っているのか。私が問うと、ミツルはココアをぐいと飲み干し、一度深呼吸してから答えた。

「私の前にも、時間旅行切符を手に入れた者がいたのだよ」

 彼が言うには、その人物は巨万な富を築く貴族であり、切符を手にするために奉納した食べ物も、たった一人で用意したのだという。面識があるわけではないが、現代よりも情報の伝達が疎い平安でも、とびきり有名であったらしい。

 ミツルは空になったマグカップを見つめながら続ける。おかわりを要求しているわけではないだろう。

「私はすぐさま気付いた。奴は令和の時代に飛び、怪異を起こそうとしていたのだと」

 怪異と聞いて背筋が寒くなるものの、しかし、平安時代の怪異なら論理で解決できるものもあると思い直した。たとえば、怪異の定番ともいえる心霊写真は、合成か現像ミスが原因である。技術が未発達な平安なら尚更だ。

 それでも、私の内側にある恐怖は拭えないし、なにより先程聞いた女性の叫び声を、私自身が説明できない。取り戻したはずの冷静が、酒に溺れて溶けていく。

「安心しろ、成田」

 私の不安を払いのけるように、彼は明るい口調で言った。

「その怪異を止めるべく、私が来たのだよ」

「なら、止めてくださいよ。お願いだから」

 どういうわけか、ミツルの口調が向こう見ずに思えて、腹立たしさを覚えた。少しばかり飲み過ぎたのかもしれない。

「帰る途中に、女性が叫んでいましたよね。あなたも十円玉を落として驚いていたから、聞こえなかったとは言わせない。あれこそ、紛れもなく怪異でしょう」

「女性の叫び声? 何のことを言っておる」

 ミツルは表情を変えない。それが釈然としない。

「とぼけないでください。あなたも一緒にいたはずだ。なんなら、今から聞きに行きましょうか」

「構わないが、ふうむ。なんのことやら」

 本当は、今から聞きに行こうだなんて虚勢でしかなかった。自ら夜に外出するなど、札束を積まれても断固拒否する。ただ、一度発した言葉を取り消すことなど叶わない。言葉の勢いそのままに、夜の京都へ繰り出した。


 水溜まりはとうに消えて、深夜は月のなすがままにされる。住宅に照明はなく、代わりに起床する星の数々。夜の帳は、独りよがり。酔いで顔が火照ったって、宵は覚めやしない。

「ここですよ。間違いない」

 私は、女性の叫び声を聞いた石畳の上に戻ってきた。二度と怪異に遭遇したくはないが、それ以上に、ミツルの平然とした表情を崩したかったのだ。だが、それでも彼は一切動揺するような素振りを見せない。見せるのは、石畳に目を凝らす仕草だけだ。

 本当に叫び声が聞こえたならば、意識は地面ではなく周囲に移るはずだ。しかし、彼の視線は石畳。それでも、私にだけ叫び声が聞こえたというのは、まず有り得ない気がするのだが。いや、それ自体が怪異なのだろうか。

 私がうんうん唸っていると、都合の良いことに、あの女性の叫び声が響いた。きゃう、という声。間違いない。さっき聞いたものと同じだ。二度や三度も耳にすれば、恐怖こそは拭いきれないものの、逃げ出すまではしない。

「これです。姿が見えないのに、叫び声だけが聞こえる女性。これこそ怪異でしょう」

 興奮しながら主張する。ところが、ミツルは微動だにしない。やはり石畳を見つめるだけである。私はとうとう激昂した。たった今、彼が追い求める怪異が、目の前で起こったのだ。それを見逃してまで、石畳に固執する理由はどこにあるというのか。

「まさか聞こえないのですか」

 平安から令和につれて、耳の構造が変わったとは主張しないだろう。とうとう我慢の限界を迎えて、ミツルの肩をぐいと引いた時だった。

「それは怪異ではないぞ、成田」

 あまりに素っ頓狂な言動に聞こえたものだから、頭が真っ白になった。

「いや、ああ、そうか。お前は勘違いしているのだな」」

 ミツルは今、姿が見えない女性の叫び声を、怪異ではないと主張した。理解に苦しむ。この場にいる人間は、私と彼だけで、どちらも男性だ。その二人が叫んでいないのなら、他に誰が叫ぶというのか。そう私は捲し立てる。

「心得た」

 熱のこもった私とは対照的に、彼は穏やかな口調で続けた。

「女性の叫び声といったな。それは、狐のことであるよ」

 ミツルが指さした方向を見ると、そこには二つセットの光があった。確かに、先程叫び声を聞いた時にも、狐がいた気がする。

 だが、私は抗議した。狐はこんこんと鳴くはずだ。

「こんこん、か。生憎だが、狐はこんこんと鳴かぬ。御伽話の見すぎであるよ」

 御伽話、という単語を聞いた途端に、今朝の松平さんとの会話を思い出した。彼が歴史を不変のものとするように、私も「こんこんと鳴く狐」という固定概念を常識として受け入れていたのだろうか。ただ、こんこんと鳴かずに、女性のような叫び声を出すとは、いささか都合が良すぎる。私は困惑するものの、証拠が目の前にいることを思い出した。ミツルの仮説が真か偽か、この場で確かめればいい。

「どれ、一緒に見届けようではないか。怪異が怪異でなくなる瞬間を」

 私の視線は狐にある。石畳の上では、瞳しか見ることができない。道を外れて、そろりそろりと、近付く。何度も怯えた怪異の正体を、今ここで暴くために。

 狐が、あくびをするように、大きく口を開く。

 その瞬間、響いた。先程の何倍も大きい。しかしもう恐れる理由はない。

 あの叫び声が聞こえたからだ。


「ああ。私は、一体何に怯えていたのだろう」

 石畳の上で、へなへなと、まるで枯れた向日葵のように下を向いた。なんと情けないことか。妖怪でも怨霊でもなく、狐に怯えていたとは。まさに化かされていたのだ、私は。

「怪異の正体とは、ほとんどが針小棒大。だからこそ本物を見つけるのは難しいのだよ。気を落とすでない」

 ミツルは励ましてくれているが、一度でも彼を向こう見ずだと思ったことや、勢いと自尊心のために遠回りをさせてしまったことを踏まえると、むしろ責め立ててもらった方が楽である。私は顔を上げはしたが、気分は上がらない。帰ったら飲み直すべきだろうか。

「お、やっと見つけたぞ」

 ミツルは、石畳から煌めくものを摘み上げた。十円玉である。狐の声を聞いたミツルが、水溜まりに落としてしまったものだ。濡れている上に、泥も付着している。それでも、彼が探し求めていた十円玉であることに変わりはない。

「成田、私は思うのだよ」

 彼が、私の顔を覗き込む。純真無垢な瞳に、まるで思考を読まれているかのような心地になる。

「いくら十円がはした金と呼ばれようと、他の硬貨と比べて価値が少なくとも、金であることに変わりはない。小さなものは無視してもよいのか。それは違う。国にたとえるなら国民である。身分や価値といったものが、命を決めてはならぬ。それに、この国民一人が、国家を揺るがす転換点だったりするのだよ」

 平安時代は身分制度が徹底された時代だ。だからこそ、彼がそう考えるのは理解できる。数時間前の私に聞かせてあげたいものだ。

「さて、ここからが本題だ」

 ミツルは十円玉を麻袋に入れる。それから、背筋を伸ばして私と向き合った。

「これから私が立ち向かう敵は、それこそ千も万も超えた巨万の富を持つ人間である。対する私の身分など、奴の足元にも及ばない。その上で、この弱き私のことを、どうか助けてほしい」

 彼は、そのまま深々と頭を下げた。

 私には、まだミツルのことも、敵対する人物のことも、そして怪異のことも全然知り得ない。しかし、見知らぬ時代に飛んで、怪異を止めるべく奮闘する彼の意思を、ことごとく無下にする方法も言葉も、そして感情すらも分からない。

 水溜まりはもうないのだから、彼がいかに私をあてにしているか、表情を見て知ることはできない。それでも、彼の使命と苦悩がどれほど強大なものかは、分かってしまった。彼は震えていたのだから。

 だから、一人にはさせない、と言った。

 彼が顔を上げる。何度も感謝の言葉を告げる。その表情がどれだけ嬉々としているか、近付かなければ分からなかった。

 月明かりは頼りにならないな。

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