源氏物語物語

阿部狐

プロローグ

 激しい雷雨の中、私は令和に向かおうとしていた。

「待って、待ってくれよ」

 拝殿の前に立つ私に、誰かが声をかける。振り向くと私の友人がいた。彼はびしょ濡れで、息も切れている。

「本当に、行ってしまうのかい」

「ああ。私が行かずとも、いずれ誰かが行かねばならぬ。ならば私が行く」

 私の言葉を聞くと、友人は諦めたように笑い、それ以上私を引き留めはしなかった。

 彼は雨に濡れることも厭わずに、私の送別に来てくれたらしい。思うに、私は友人に恵まれた人間だ。彼のいない私を想像することはできない。

「雨は激しい。風邪を引く前に、早く帰りなさい」

「雷神様の説教が終わったら帰るさ」

 友人が、私の行く末を見届けるまで帰らないことは私にも分かる。にもかかわらず「帰りなさい」と私が諭したのは、友人が帰るのを拒否することで、私に向ける親密さを再認識したかったからだ。

「それより、早く帰るのは君の方だ。君がいないと、ぼくは退屈で仕方がない」

 今から私は千年の旅をして、令和の時代に降り立つ。しかし、いつ元の時代に帰れるか分からない。だから私は、これから大切な友人を待たせ続けることになる。

 限りある人生の中で、かけがえのない友人と過ごせないこと。それだけが心残りだ。

「ぼくも同行したかったものだ。『予言書』さえなければな」

「ああ、あの怪文書か」

 友人が私と共に旅立てない理由は、彼の先祖が代々受け継いできた『予言書』の存在があるからだ。ただでさえ水滴の跡があるのに、家系図の裏に悪戯するとは、罰当たりなご先祖様だ。そう彼は語る。

 そんなものによって、私たちの関係が引き裂かれるのは理不尽ではなかろうか。

「すまない、菅原。友人を置いて旅立つ私を、どうか許してくれ」

「気にするな。神様と先祖様に、ありったけの怨言を浴びせてやるさ」

 ざあざあと雨が激しく打ちつける。石畳に生成された水の鏡が、友人の表情を映し出す。彼の頬が湿っているのは、決して雨の悪戯のせいではないだろう。

 私は拝殿と向き合った。友人を視界から消すためだ。そうでもしなければ、彼との離別に区切りをつけられなかった。

 空が光る。雷が鳴る。三次元を超越した存在が、確かに私を急かしている。

「帰ってきたら、楽しい話を聞かせてくれたまえ」

 友人が言った。しかし、何らかの言葉を返してしまうと、私の内側で音を立てる未練に足を縛られそうな気がした。だが、それではいけない。私は行かねばならない。

 空が光った。

 私は右手の硬貨を賽銭箱に入れる。コトリ、と音がしたら、おもむろに目を瞑る。

 雷が鳴った。

 私は深く息を吸い、左手の時間旅行切符を強く握りしめる。

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