第3話 感謝、感謝!
パンをちぎり、一口含んで、丁寧に咀嚼する。
「うむ、美味いけど……」
私の帰宅に合わせて焼かれたパンは、暖かくそして香ばしい。この地で取れた小麦の特徴を料理人が丁寧に活かして作り上げている。改めて我が領地には優秀な人間が多く、部下たちに感謝したくなってきた。
「けど、泣くほどか?」
今はなかなかに空腹レベルが高いが、考えてみれば人生で食事を摂って泣いたことなどない。
「わからん。あの女の魂胆がわからぬ!」
王都ではスラム街の人々をあざ笑い、目の前で食べ物を踏みにじったというあの毒美令嬢が泣きながらパンを!? しかも魚の骨まで。
魚の骨は、料理人が上手に火を通しているため、私でも丁寧に咀嚼すれば食べられた。
「ふむ。意外とうまいな」
新しい発見。魚の骨うまし。
けれど、食べようとしたことなどなかった。……私自身が食事に困ったことがないからだ。
食事を終え、使用人たちが片づけをしてくれている間、ずっと腕を組んで考えてしまった。
魔石のことを考えなければならないのに、毒美令嬢に思考が割かれてしまっている。これだから、厄介な存在なのだ。
まあ考えても仕方ないことではある。今の段階では、彼女の狙いなどわからない。厄介な存在だ。
王家への意趣返しは、機を待って行うとしよう。
「風呂に入る」
「準備いたします」
私は風呂は一人で入りたい派だ。
何せ、一日でもっとも思考が休まる時間だからな。そんな場所で使用人に体を洗われては落ち着いてもいられない。
準備してくれるのは、タオルと着替え、手入れ用品の類だけで、私もそれで満足である。
「ふう。頭が痛くなることばかりだな」
今日は早めに就寝しようと思って浴場へと向かっている間、思わぬ人物と出会う。
廊下を歩いてくるのは、魂の抜けた表情をした毒美令嬢、ルルージュ・サーペンティアであった。
「げっ」
あの女、なぜ口を開けたまま歩いている。目が点になっていて、ぼーと天井を見つめているし、髪の毛も渇き切っていない。
てっきり夢遊病の類なのかと心配になって、立ち止まって様子を見た。
こちらに一切気づかず、ルルージュはまっすぐ廊下を歩いてきて、そして立ち止まる私の胸へと顔をぶつけた。
「いだっ! かっかべが!」
「壁ではない。貴様は阿呆か」
「わわわっ喋った! ……あっ、お昼のイケメン使用人さん」
そ、そうだった。そういう設定だったな。使用人がいきなり伯爵家の婚約者様に阿呆などと口にしてしまった。
「ルルージュ様、失礼なことを口にしてしまい申し訳ありません。しかし、使用人もつけずにこうフラフラとされては皆が何かと不安がります」
「ごっごめんなさい。その、お風呂があまりにも素敵で……」
「素敵で?」
風呂は、普通なはずだ。
社交界で赴いた王都の大浴場は我が家の数十倍の広さと意匠のこもった飾りをされた凄い風呂だったはずだ。いや、あれは社交界用に特別凄かったのか?
「はい。素敵すぎて、1時間ほど入ってしまって、それで頭がクラクラふらふら。ああ、また逝きそうです」
逝きそうってどこへ!?
「風呂の湯は温度を高めにしているからな。この地の人間は熱いお湯を好む。次からは使用人と共に入浴することだ」
「そうなのですね。あっ、使用人ですが、私一人で構いません! 体を見られるのは恥ずかしいですし、お風呂は一人でゆっくり出来て最高でした」
……私と同じ考えか。まあそうだよな。風呂で他人の視線を気にするほど無粋なことはない。
「わかった。そう指示しておく」
「イケメンさんは結構お偉いお方?」
ふむ、設定が甘くて質問に咄嗟に返事ができないな。もっと設定を練らねば。いずれ明かされる嘘ではあるが、当面はこの厄介な女相手に役にたつだろうから。
「……まあそんなところだ」
「やはりそうでしたか。そんな雰囲気があります。なんかオーラが、もわもわ。すみません、言い過ぎました。では、私は自室に戻らさせて頂きます。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
……はっ。
毒美令嬢のあまりの毒気の無さに、二人して丁寧にお辞儀して別れてしまった。
いやいやいやいや!
えっ!? なんかただのご機嫌な会話になってしまったのだが? 良き隣人!? 毒美令嬢とはもっとこう殺伐とするはずが!
立ち去ろうとするその背中を見て、急いで手を取った。
「なっなんですか!?」
「すまない!」
咄嗟の行動だったからな、俺も何がしたいのかはわらない。けれど、気付きがまたあった。
やはりその手は骨ばっていて、かなり痩せている。肌も乾燥しており、手入れが行き届いていない。
それはガサツな印象というよりは、やはり……。違和感がまた急激に立ち込める。
「髪はしっかり乾かすように。この地は夏は乾燥していて良いが、癖づけておかないと冬が大変だ」
「わっ。そうなのですね。ありがとうございます」
「それと香油は?」
「こうゆー?」
……やはりこいつは阿呆の類では?
「髪や肌を手入れするのに、香油が必要だろう」
「……そっそうなのですね。ああ、しょうゆーね。はいはい。しょうゆーしょうゆー」
「……まさか持っていないのか?」
「……持っているのが、当たり前だったりします?」
「この地ではな。王都では香油は使わないのか?」
「えーと……たぶん?」
な訳あるか。
社交界で王都に行った時、男で使わない人たちは見たことがあるが、女性で使わない人など見たことがない。特に貴族はほとんど全員が使うだろう。
王都では香油に代わる新しい手入れ用品などあってもおかしくはないが、それにしても彼女は無だ。手入れゼロ。代替品すら持っていないだろうことは明白だ。
「この地では香油を使う。若様の婚約者ともあれば、荒れた肌や髪でいられては困る」
「ごっごめんなさい」
謝られることなのか?
「使用人に伝えて香油を運ばせる。……使い方はわかるよな」
「さっさすがにねー」
知らないな、これは。
「いや待て。私のをやろう。上等な代物の貯えがないかもしれないからな。ほら」
私の為に用意された香油の瓶をルルージュに手渡す。
本当に初めて見たのか、瓶の中の黄金色の液体を振って珍しそうに眺めていた。瓶の揺らし方的に、ドロッとした感じが珍しいみたいだ。
「後で使用人を向かわせる。ゆっくりしたいかもしれないが、使用人に一通り肌や髪の手入れを習え。いいな?」
「はい! ありがとうございます……使用人王さん」
使用人王って誰のこと?
「……なんとお呼びしたらいいでしょうか」
「……騎士様と呼べ」
「はい! 何から何までありがとうございます、騎士様。では」
また呼び止められないように小走りで逃げて行った。私との会話は気まずいみたいだ。
その後ろ姿がなんだかおもしろくてついつい見てしまう。
そして廊下の端で止まった。
「あっ! あの、食事とても美味しかったです! 誰にお礼を伝えたら良いかわからないため、騎士様に伝言をお願いしてもよろしいでしょうか」
「別に礼などいらんと思うぞ」
「それでも! 本当に美味しかったです。私幸せです。ありがとうございます!」
深々と頭を下げて、ルルージュはまた走り去った。今度は完全に視界から消える。
「お礼か……」
私もいつからか、美味しいご飯を食べることが当たり前になっていたな。
明日起きたら、料理長にでも感謝しておくか。子供の頃、サプライズでケーキを作って以来、彼に礼を述べていない気がする。
「ふんっ」
なんか笑ってしまった。
なんだ、この心地よい気持ちは。
魔石の件も、毒美令嬢の件も、何も解決していないというのに、なんだか不安が消えてしまった。
「……あいつは一体なんなのだ。本当に」
最高の湯を楽しみ、今日は気持ちよくベッドに入れた。
やべっ。私の香油がない。……まあいいか。
最高に熟睡できた翌朝、朝食の席に料理長を呼んでおいた。
彼は慌てて私の前に顔を見せる。
表情は焦燥感に包まれていて、勘違いさせていたことに気づく。
「顔を見るのは数年ぶりだな」
「若様! 不手際がございましたか。どうか、どうかご容赦を!」
「違う、違う。立ち上がってくれ」
慌てて、跪いて謝罪する彼を立ち上がらせた。
私が子供の頃はふっくらとした容姿だったが、今は年を重ねてずいぶんと痩せていた。こんなにも顔を見ていなかったことを少し後悔した。
「あなたの顔を見て懐かしんでいたところだ。そして、礼を伝えたくて呼んだだけだ」
「礼を? そんな、滅相も御座いません。感謝しないといけないのはこちらなのに」
「毎日当たり前に美味しい料理が届いていたが、それは当たり前ではなかったんだなと昨日気づかされた。毒美令嬢も大いに感謝を伝えて欲しいと言っていた」
「婚約者様まで……」
「ああ、今日も腕によりをかけて作ってくれるか?」
「当たり前です。この屋敷では大変良くされております。坊ちゃんと婚約者様のためならばいくらでも」
急に呼び出して脅かした挙句、言われたのは日ごろの感謝。そのギャップがぐっと来たのか、料理長はワンワンと泣き出してしまった。申し訳ないことをしてしまった。
それにしても、たまには感謝を伝えるのは大事だな。料理長だけでなく、長年勤めてくれている皆にも後程礼を言っておこう。爺や父上にも。
「こればかりは毒美令嬢に感謝かな」
食事を終えて執務室内に移動して、私はそうボソッと呟いたのだった。
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