『僕ら』の他人、『僕』の姉
ばち公
『僕ら』の他人、『僕』の姉
気紛れで死に、人間の赤ん坊に転生してみた。
それぞれが話す三つの頭部はうるさかったので、頭部が一つしかない生物というのは静かでよいだろうと思ったが、すぐ横でわーわー喚く存在がいた。
「おねーちゃんよ!」
ヒトとして産まれた僕のベッドの横、自慢げに小鼻を膨らませたコレは、姉という存在らしい。
声のデカさに合わず小柄で、小食で、母親のつくった大して美味くもない麺料理を、一本一本、数えるように食う。
そのくせ、自分の好物が出れば弟のものでも奪っていく。オモチャでも、なんでもそうだ。
「おねーちゃんだからよ!」
理由は全部それだ。
なんて傲慢な女だと思ったが、世の姉の振る舞いは大体がこんなものだと聞いたとき、その存在を許容できるようになった。
姉は明るく愛想もよかったが、鈍臭く、頭も悪く、なにより傍若無人でやかましかった。
それでも彼女が親の愛情を一身に受けていたのは、彼女が病気だからだった。
弟が冷めきってふやけた粥を黙々と口に運ぶ一方、温かい出来立ての料理をせっせと口に運ばれていた。弟が質素な衣類を着て部屋の片隅に座る一方、贅沢なドレスを寝巻きに天井を見上げていた。
元気なときは一緒に外で遊んだ。
鈍臭い姉が「おねーちゃんだから」と先導になったが、それを傷一つ負わせず帰宅するのはなかなかに骨が折れた。
暗くなるからと言っても、姉はなかなか帰りたがらなかった。宥めても賺しても、子どもの理屈には敵わなかった。
「悪いのが来ても、おねーちゃんがエイヤッてやっつけるのよ!」
「無理に決まっているだろう。頭が悪いな」
三つ年下の弟と変わらぬ背丈で、何を言ってるのか。思わず零すとブン殴られた。
姉は一度外に出ると、なかなか家に戻りたがらなかった。きっとしばらくは――もしかすると二度と――外に出られないと、理解していたからだ。
「なんか喋ってよ」
「なんか」
「ちがう! おねーちゃんの言うこときけないの!?」
姉は何日もベッドに伏せると、よくこんなことを口にした。何か喋れ、話せ、声をきかせろ――。静かであることの、何がいけないというのだろう。
よく分からないまま、僕は『僕』が『僕ら』であったころ、三つの頭部のうちの一つがお喋りだったことを思い出し、その真似をしてあれこれと喋りたてた。痛む頭に響くのだろうか、姉は顔を顰めつつ、面白くなさそうにじっと聞いていた。そして時たま喋り過ぎた僕に「うるさい!」と怒った。それで大人しく黙ってやると、また何か喋れと命令する。僕は一つしかない口でそれに従う。
「アンタは弟のくせに元気でズルいから、おねーちゃんの言うこと、きかないといけないのよ」
「……元気はズルではないだろう」
「そう?」
姉は静かに呟く。
「そんなはずがないわ」
夜半に「死ぬのが怖い」とすすり泣く。父と母はそれを哀れんでもらい泣くから、夜に姉の側にいるのは僕の仕事だった。
病弱なくせに眠ろうとしないのは、闇と死が怖いからだろう。その感覚は分かる。僕も当初、睡眠という意識のなくなる行為に違和感があった。かつて『僕ら』が眠る際には、どれか一つの頭部は必ず起きていたからだ。
「死にたくない。ずるい。あんたは弟なのに、なんで死なないの」
鼻をすすって、憎々しげというには弱い声でそんなことを言う。
しかし死なない、というのは適切ではない。この弟の肉体は母の胎内で一度死に、そこに『僕ら』が入り込んで現在の『僕』になったからだ。
「もう死んだよ。遅かれ早かれ、人間は皆いつか死ぬ」
「遅いほうがよかったって言ってんの!!」
枕で弟の横っ面を張り飛ばして、また毛布にくるまっておいおい泣く。「なんであんたは元気なの」「なんでわたしより頭がいいの」「なんでわたしは死ぬの」「なんであんたより頭がよくないの」「うまく喋れないの」「うまく動けないの」――。
舌っ足らずに泣く横で、僕は静かにそれを聞く。彼女の、寝巻き越しにも骨の浮き出た背を撫でて、呼吸が落ち着くまで見守る。僕らは二人でじっとしている。死から見逃してもらうため、息も殺してじっとしている。
やがて姉は顔をあげた。布の下から覗く顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「…………あんたもしんだの?」
「死んだ」
「どうだった?」
「分からない。僕という自我は、君の思う死を経験したことがない」
「ふざけないでーっ!!!」
わーっと姉が癇癪を起こす。両親がすっ飛んできて、僕は父親にぶん殴られる。
起き上がるのが面倒で、僕は床に転がったままでいた。両親に心配されあやされる、ベッドに寝たままの姉と目が合う。こういう時の姉の顔はよく知っている。
彼女の目は、罪悪感と優越感と羨望、それらを凝り固めた愛憎でできている。おそらく姉の小さな体も、それがたくさん詰まって出来ている。いつか破裂して死ぬのではないかと思うが、人間は感情で身体が膨らまないらしい。
僕は鼻血を拭い、床に飛び散った分の血も拭いてから、一人その部屋を後にする。
翌日も姉は僕を呼ぶ。昨夜の叫びすぎで声が枯れていた。
「あんたってフツウじゃないわ」
僕が、「普通の子どもだったらこの家庭環境でとうにグレている」と言ったら、彼女はきょとんとしてから「たしかに」と笑った。
彼女は僕の異常性を恐れず、怯えも避けもしない唯一の生命体だった。
それから僕達は、いつものように二人で遊んだ。姉が病気で弱っていた訳でもないのに、遊んでいて初めて、二人で喧嘩をしなかった。
そして僕はその時初めて、『姉』という存在を個として見た気がした。「お姉ちゃん」でも死にかけの病人でもない、それら全てを含めた、『彼女』という存在を。
そしてそのバランスの奇跡のような儚さに、脆さに、恐怖した。自我を得て初めての恐怖だった。
その夜、彼女の枕元で訪ねた。
「お姉ちゃんは死ぬの?」
「あんたホントにイカれてんじゃないの」
姉は吐き捨てたが、ヒステリックに喚き散らすことも、暴力を振るうこともなく、ただ黙って僕の手を握りしめた。どちらも小さな手だった。人間の子どもの手の平だった。
「よう、『俺』」
町中で馴れ馴れしく声をかけてきた、見知らぬ男。僕の前世の、三つの頭のうちの一つだった。
僕が、「『僕ら』は頭は三つで、自我は一つだと思っていたが」と言うと、男も「俺もそう思ってたが、どうやら違ったらしい」と、何故か訳知り顔でうんうん頷いた。
「もしくは『俺ら』に、人間が思うような自我なんてなかったのかもしれない。『俺ら』はもっと動物的――違うか、無機物的な生物だった、かもしれない」
「無機物的な生物とは?」
「分からない。今、人間になった俺には、分からないような生物だったのかもしれない」
「そう。……相変わらずよく喋るな」
「いや、俺はあのよく喋っていた頭じゃないぜ。あいつ、生まれてすぐからあの調子でベラベラ喋ったもんだから、親に喉を潰されてさ。馬鹿だったって笑ってたぜ。今は確か、向こうの方で靴磨きをやってたな。見に行くか?」
のこのこ付いていくと、首にぐるぐる赤い布を巻いた男が、路端に座り込んでいた。靴磨きの道具は揃えていたが、ほとんど物乞いのような格好だった。
彼は確かに喉は潰されていたが、僕らには不思議と何を思っているのかが分かった。彼は僕らの顔を見て、挨拶することもなく言った。
「そろそろ戻らないか」
わざわざ「どこに?」と尋ねなくとも分かる。『僕ら』に、だ。
「『私』をするのも悪くないが、思ったより頭が一つの生活は静かじゃないし、そろそろ飽きてきた」
「賛成だ。どうせすることもないしさ」
「僕は、……一つ聞きたいんだが、嘘は、ズルいことか?」
「世間一般でみれば、そうなんじゃないか?」
「そうか」
僕がそれ以上何も言わないでいると、二人はひょいと肩を竦めた。
「じゃ、先に逝ってるぞ」
「じゃあな」
男二人は、そのまま連れ立って何処かに行ってしまった。後日、パン屋の息子と、靴磨きの少年が揃って死んでいた、という噂を耳にしたが、それが彼らだったのかは定かではない。
姉はそれを聞いて、「世も末ねぇ」と気取った風に呟いていた。
「……お姉ちゃん」
「なに? 今、しゃべりたくない気分なんだけど」
「僕は以前、死んだことがあると話したが、もしかしたらそれは間違いだったかもしれない」
「は?」
「あれは人間の思う、
坦々と語る僕に、姉はひたすら、何言ってんだコイツというような視線を投げかけてくる。慣れているので、僕は気にしない。
「そして、僕は嘘を吐いたズルい弟みたいだから、お姉ちゃんの言うことをきこうと思う」
「はあ? 別にそんなの関係なく、弟はおねーちゃんの言うことをきかないといけないのよ」
僕の白けた視線も物ともせず、姉ははー、とやけに演技がかった大きな溜息を吐いた。
「それにあんたはもっと他に、おねーちゃんに謝るべきことがたくさんあると思うわ」
「そうかなあ」
「なんでみんな、長生きなの。ずるい。あんたも、どいつもこいつも、なんで死なないの。なんで、あたしだけ早く死ぬの……」
また寝床で、すすり泣きながら恨み言を囁く姉に、僕は、まるで内緒話でもするみたいに声を潜めた。
「周りが生きるのがズルいというのなら、お姉ちゃんが死ぬときに、他の人間もたくさん殺してやろうか?」
「…………いらない」
「なぜ?」
「あたしが、あたしの苦しみで、憎しみで、殺せないと、意味ないからよ」
「弟はそれになれない?」
「なれない!! これはあたしの、あたしだけのものよ! 誰にも、誰にだって、これだけはあげない! 絶対に、渡さない!!」
姉は興奮して渾身の力で叫んだので、過呼吸になった。それを親に伝えにいった僕は、またしたたかに殴られた。本棚に頭をぶつけ、目の前に星が散ったので、今度こそ死んだかと思ったが、生きていた。
『僕ら』であったあの二人が亡くなってから、僕は非常に調子が良かった。かつての、三つの頭部であった頃の力を感じていた。僕はどのような傷でさえ自力で治せたし、一睨みで獣を退けることもできた。
僕はこの世界で最も強い、無敵の生き物となったのだ。
なのに姉は死んだ。
外に出た彼女を僕が守れなかったとか、劇的な何かがあったとか、そういうことでなく、ただ朝起きたら死んでいた。彼女はただ一人眠り、意識を取り戻すことなくそのまま死んだ。僕を呼ぶこともなく死んだ。小さくて傲慢な人間が一人死んだ。
葬式というものに初めて出た。
「お姉ちゃん」
眠る彼女に呼びかける。返事はない。
姉の遺骸は小さな棺に収まって、ちっとも似合わない白い花に埋もれていた。その花が音を吸い込んでいるかのように静かだった。『僕ら』の三つの頭部でさえも、この静寂を覆すことはできない。姉の肉体は停止し、硬くなり、それそのものが死を意味していた。やがて土に返り、分解され、どこかへと逝く。『僕』も『僕ら』も知らないどこかへ。
僕はもう命じられるまま、眠れぬ彼女の手を握る必要もなければ、くだらないことを喋り立てる必要もない。小さな身体で前行く彼女を、怪我せぬようにと守る必要もない。
夜半に二人で、いずれ訪れる死を誤魔化して過ごす必要もない。
「お姉ちゃん」
いずれ僕が死に『僕ら』になったとしても、彼女は永遠に僕の姉だ。
『僕ら』の頭の一つでもなければ、他人でもない。双子でもなければ、親子でもない。近くもなければ、遠くもなかった、『僕ら』の他人。傲慢の子。死とともに生きた少女。
この世で唯一『僕』を愛せた、僕の小さなお姉ちゃん。
『僕ら』の他人、『僕』の姉 ばち公 @bachiko
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