第12話 決意を
病院に来る前みたいに頭は重たくないし、体は軽い。なにより、胸の中をわだかまったような黒い渦はない。
病院の長い廊下を、出口に向かい進む。
歩きながら、お母さんが言った言葉を思い返していた。
ぼくは結果を出すことばかり考えてきたけど、結果だけがすべてじゃないのかな……。
扉が現れないことに、イライラしていた。ぼくの特徴が、自信の持てる唯一のものが、なくなってしまうんじゃないかって。でも、きっと、その考えはまちがってるんだ。
ぼくの、今の願いは――……。
水彩画がたくさん飾られた、広い待合室に出た。
多くの人がソファに座ってスマホをいじったり、本を読んだりしている中、あの子の姿が目に入る。
最前列のすみのソファに腰かけた、女の人と女の子。
女の人は長い髪をひとつに束ねたきれいな人で、女の子は青色のワンピースを着た、肩までの髪のかわいい子。
気づいたらぼくはその二人の前まで駆けていた。
「こんにちは……あゆみちゃんと、お母さん」
「はじめくん……」
おどろいた声で、あゆみちゃんがぼくを見上げる。
「どうして病院にいるの?」
「ぼくのお母さんが入院してて、今日はお見舞いに来てたんだ」
いや、今はそんなことよりも……。
あゆみちゃんの右腕には、包帯が分厚く巻かれていた。あまりにも痛々しくて、眉をひそめる。
「……ごめんね」
「なんで!はじめくんが気にすることない」
あゆみちゃんが丸くしていた目を、よりいっそう丸くして言った。となりでお母さんも「そうだよ」と言う。
「……先生に診てもらって、どうでした?」
「骨にも異常はなかったわ。傷も浅くて、ちょっと切れただけ」
お母さんは少しほほえんで、落ち着いた声で言う。
でも……と、ぼくは再びあゆみちゃんの腕に巻かれた包帯を見つめる。
「あ、これ、ちょっと大げさに巻かれてるだけだから」
視線に気づいたあゆみちゃんが、あわてて付け足した。
「だって、落ちたのも階段の一、二段よ。大したことない、ただのかすり傷」
その腕を軽く振って見せながら、にっこり笑った。
それでもまだ、気になることが胸に残っている。
「ピアノは……コンクールはどうなったの?」
ほんの一瞬、あゆみちゃんの顔に暗い影が差したのを、ぼくは見逃さなかった。でもすぐにまた、やわらかくほほえんで……。
「仕方ないよ」
その言葉だけで十分だった。
ピリッと稲妻が落ちたような衝撃が全身を駆けめぐり、ぼくはいつの間にか胸を抑えていた。
ひどい罪悪感に体が押しつぶされそうになる。さっきまでの黒い渦が、また広がり始める。
あゆみちゃんのお母さんは、そんなぼくの様子に気づいたんだと思う。
立ち上がってその場に屈むと、ぼくの肩にやさしく手を触れた。
「ショックだったと思うわ。心配かけてしまったよね。でも、はじめくんが責任を感じることはないの」
お母さんにぼくの気持ちはつつぬけだったんだ……。
「本当に、気にしないで大丈夫だから」
仕方のないこと、雨によってすべった、ただの事故。そのせいで、受けられなくなったピアノのコンクール。
ぼくのせいじゃない。お母さんも、あゆみちゃんのお母さんも、あゆみちゃん自身も、そう言った。
みんなぼくを思って言ってくれているのに、信じずに、まだうじうじするの?
「……あの、あゆみちゃんのお母さん」
「なぁに?」
きっちりしなきゃ、自分の気持ちに。
「あゆみちゃんと、ちょっと話して来てもいいですか。ほんとに、数十分でいいから……」
「え?」
「すぐそこの、外のベンチで話すだけだから」
あゆみちゃんも被せるように早口で言った。
お母さんは少しおどろいたように目を丸くしたけど、すぐにやわらかい笑みを浮かべて、ふっと目をつむった。すると、イスにゆっくり座り直しながら言う。
「……そうね、わかった。まだ二十分くらいかかるだろうし、お薬受け取ったら迎えに行くから」
「うん。……じゃあ行こ、はじめくん」
あゆみちゃんはイスから立ち上がると、ぼくの腕を掴んでぐいぐい歩き始める。
「え、あ、ありがとうございます」
あわてて振り返りながらお礼を言うと、お母さんはほほえんで、手を振っていた。
*
あゆみちゃんが扉を開けると、そこはこじんまりとした中庭だった。あじさいやもみじなどの植物も植えてあって、ベンチがちらほら置かれているのが見える。
空はまだ曇っているけど、さっきみたいな暗さはなく、雲と雲の間から、光が差し込んでいて。
入院している人たちかな、おじいちゃんやおばあちゃんが、ベンチに座っておしゃべりしていたり、散歩していたり……。
あゆみちゃんはぼくの腕を掴んだまま、右奥の木の下の、空いている石のベンチまで進んだ。
二人そろって腰を下ろす。
前には殺風景な汚れた病院の壁があるだけ。
話してもいいかな……。
ちらりとあゆみちゃんを見ると、目が合った。そして、いいよと言うように頷く。
……安心した。
「あのね……あゆみちゃんがあのとき……見晴らし公園の前のベンチに座って言ってた言葉。「人の心を、別の誰かが勝手に変えちゃいけないと思う」ってやつ。ぼくの願いもね、なにかは……今は言えないけど、人の心を変えちゃう願いだと思うんだ」
そう、「あゆみちゃんと両想いになりたい」
ずっと叶えたかった、ぼくの願い。
「あゆみちゃんのその言葉、ほんとにその通りだと思った。あれからずっと考えてたんだ、自分の願いのこと、これでいいのかって」
自分の太ももの上で握られた、両手のこぶしを見つめながら、ゆっくりゆっくり言葉をつなげる。
今のあゆみちゃんとぼくは、見晴らし公園の前のベンチで話したときとは、まるで逆だった。
「ぼくもこの願いは、魔法みたいな力で叶えるべきじゃないと思う。がんばりもしないで、叶えたくない」
あゆみちゃんの……好きな子の、心を無理やり変えたって、うれしくない。
「あゆみちゃんが教えてくれたんだよ。ぼくだけだったら、きっとこのまま突っ走ってた。だから、お礼が言いたくて」
そしてぼくは背すじをシャキンと伸ばすと、体ごとあゆみちゃんの方に向けた。
「ありがとう!」
照れくさくて、今のぼくの顔は赤くなってると思うけど、そんなの気にしない。
これが一番、言いたかったことなんだ。
すると真剣な顔で聞いてくれていたあゆみちゃん、ぷすっと吹き出したかと思えば……。
「あははっ」
手を口に当てて、声に出して笑った。
あのあゆみちゃんが……今までほほえむくらいしかしなかったのに!
ポカンと口を開けて固まっていると、やっと笑い収まったのか、涙を拭って言った。
「ふーっ……ごめん、ばかにしたんじゃないよ、うれしかったの。あたしは、大したことしてないと思ってたのにさ、大まじめにありがとうって言ってくれて」
あゆみちゃんの瞳が、わずかに差し込む光に揺らいで茶色くなる。
「ありがとうなんてこちらこそ。わざわざお礼を言ってくれてありがとう。ケガを心配してくれてありがとう。努力することの大切さを教えてくれて、ありがとう」
「あゆみちゃん……」
ふふっと目をつむって笑うと、またぼくを見て……。
「じゃあお互い、お願いはなくなっちゃったんだね」
「……ううん、ひとつだけ、あるよ」
あゆみちゃんはおどろきもせず、そっか、とつぶやいた。
「前にも言ったけど、あたし、はじめくんのがんばってきた姿を知ってるから、はじめくんのお願いが叶ってほしい。だから、これからも応援するよ」
目を細めて、やさしく笑いかけてくれる。
「ありがとう」
それからは扉とは関係ない話をした。
今一番欲しいもの、好きなアニメ、クラスメイトの話、もうすぐ始まる夏休みの話――。
話題はつきなかった。
そういえば、あんなに一緒にいたのに、友だちらしい話なんて、ぼくらはしたことがなかったんだ。
……そして、二十分はあっという間にたった。
「もうすぐお母さんが迎えに来るね」
右側の壁にかけられた、汚れた時計を確認しながら言う。
なんだかちょっとさみしいな……。
「……」
ぼくの言葉にあゆみちゃんはなにも言わない。
あれ?とあゆみちゃんの方を向いた。
あゆみちゃんはというと、瞬きもせずに、真っ直ぐに前を見つめている。
え、どうしたんだろ、腕が痛いのかな。
「はじめくん……あれ……」
その上げられたケガをしていない方の腕の、人差し指の先を目で追う。
ぼくらの目の前、その先に……。
真っ白な、扉が。
「あれって……」
同時に言って、きょとんと二人目を合わせた。
うそ、まさか――。
途端、勢いよく飛び出し、走り出していた。
なにも言わずに二人、扉の前に立つ。
汚れた病院の壁にはまるで合っていない、きれいな扉。よく見たら木でできているらしいその扉のノブは金色で、ぼくらの顔が映り込む。
まちがいなく、さっきまでこの壁にはなんにもなかった。
「はじめくん」
「うん」
ぼくはその金色のノブを握ると、内側に、ゆっくりと開いていた――……。
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