第11話 ゆうかんな者
日曜日。
ぼくは真っ白な病院の廊下を歩いている。
お父さんと一緒に、お母さんのお見舞いに来たんだ。
「お父さんはこれからお医者さんとお話があるから、お母さんといろいろしゃべっておいで」
二〇四号室の前でそう言い残すと、そそくさと行ってしまった。
お父さんは、昨日のことをとやかく聞くわけでもなく、いつものゆったりとした調子で接してくれている。
それがなによりうれしい。
初めて訪れた大きな病院の中は、じとじととしめっていて、空気が生暖かく、気持ち悪い。見舞いに来ている人が多く、看護師さんは忙しなく廊下を行ったり来たり。……しめった空気と合わさって酔いそうになる。
ぼくは扉を開けて奥まで進むと、お父さんに教えてもらった右奥の部屋のカーテンを、こっそりと開いた。
そこにはスマホを見つめている、変わらない様子のお母さんがいて。
「あ!ひさしぶり―、はじめ元気?」
ぼくの姿を見た途端、お母さんはにっこり笑って首を傾げる。それに合わせて茶色の短い髪がふわりと揺れた。
右腕に刺さったチューブが痛々しくて、つい目を逸らす。
そばにある大きな窓から見える外は、どんよりと曇っているものの、雨は降っていない。ただその灰色の空のせいで、暗い病室がよりくすんだ色をしていた。
ぼくはおはようも言わずに、ベッドの横に置かれた丸イスに座る。
うつむいて、自分の足だけを見て。
「……どうしたの。学校の話とか、たくさん教えて?」
お母さんがぼくの顔を心配そうに覗き込んだ。
さっきまでの明るい声はどっか行って、お母さんらしくないやさしい声で問いかける。
「なにかあったの?」
「……っ」
そのとき、心の叫びを押さえ込んでいたふたが、開いてしまった。
お母さんに聞いてほしい……。
そんな気持ちがふくらんで、破れて、こぼれ出して……。
「昨日……友だちのあゆみちゃんが、階段から落ちちゃったんだ。……腕から血が出てた……その子、明日ピアノのコンクールなのに、受けられないかもしれない……」
最後の言葉を言い終わらないうちに、また、涙があふれ出してきた。
「ぼくのせいなんだ」
唇をわなわなと震わせて、ぽつりと落とした。
「どうして!」
お母さんがおどろいたように声を上げる。
「はじめのせいじゃないでしょう」
「ぼくのせいだよ!」
声を荒げて、お母さんの言葉に被せた。
やっと見たお母さんの顔は、それでもやさしい眼差しで。
ひどい悲しみがおなかの底から込み上げて来て、ベッドのシーツにしがみつくと、顔を押し付けて泣いた。
「雨ですべるかもしれないのに……気をつけてって言わなかったっ……近くにいたのにっ、掴んであげられなかった!なんにもできずに突っ立ってただけだった!」
声を殺すこともできずに泣くぼくの背中を、お母さんはさすってくれる。
「すごく……すごく、大事なコンクールなんだよ、あゆみちゃんにとって……なのに、ぼくが外に連れ出したからっ……」
だからっ……。
「そんなに自分を責めないで」
やさしく、でも力強い声が頭の上から降りかかる。
「なにがあったのか、くわしくお母さんに話してごらん?」
ぼくはしゃくり上げながら、でもぽつりぽつりと時間をかけて話し始めた。
扉のうわさのこと。あゆみちゃんといろんなことに挑戦したこと。昨日、あゆみちゃんがぼくに話してくれたこと。その後に起こったこと。
ぼくが話し終わるまで、お母さんはうんうん、と言って聞いてくれる。
「こんなことになるなんてわからなかったんだから、誰のせいでもないわ」
シーツに突っ伏しているぼくに、顔を近づけて言った。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、お母さんは今もほほえんでいる。
「……ほんとに?」
「ほんとに。あゆみちゃんのお母さんも、はじめを責めなかったでしょう?」
「うん……」
むしろ、大丈夫かって心配してくれた……。
「はじめのせいじゃない。大丈夫、大丈夫」
やさしく言い聞かせるような声で、ぼくの背中をさする。
その手の温かさに、声に、言葉に、ぼくの心はずっと安心した。
「ありがとう、お母さん……落ち着いた」
涙は止まったけど、まだ鼻水はズルズルと止まらない。
お母さんはそばに置かれたティッシュの箱に腕を伸ばして取ると、ぼくの前に持ってきて言った。
「それにしても、そっかぁ。はじめ、知らない間にそんなにがんばってたのね」
お母さんはすっかりいつものにこにこ顔だ。
「でも、扉は現れてくれなかった……」
また思い出してしゅんとなる。どんなにがんばっても扉は――……。
でも、その理由もなんとなくわかる。
「たぶん、ぼくがダメダメだからだと思う。テストは五点しか上がらないし、逆上がりは板があってやっと成功して、人助けも絵もうまくいかなくて……虫はあゆみちゃんがつかまえたナナホシテントウを、ちょこっと触れたくらいだし……ボランティアだって……」
言ってて悲しくなってきた……そうだよ、結局どれも望んだ形になってないじゃないか。
これじゃあたしかに、『ゆうかんな者』とは言えない。
「へぇ!えらいじゃない」
お母さんの能天気な言葉に耳を疑った。
ズズッと鼻をかんでいた手を止めて、お母さんを見上げる。
え?えらい?
「どこがだよ」
ぼくはいらだって言う。
扉は現れなかったじゃないか!
鼻をかんだティッシュをくしゃくしゃに丸めて、力任せにゴミ箱に投げ捨てる。
それでもお母さんは、そんなぼくの様子とは関係なしに、さっきと変わらず笑顔を浮かべている。
その顔にぼくはまたいらだった。
「結局、どれも完ぺきにはできなかったんだよ?がんばっても扉が現れないってことは、それはがんばれてないんだ」
「それでも少しずつよくなってるじゃない」
明るい声で、お母さんはぼくの頭をなでた。
「なっ……」
お母さんのあまりにも落ち着いた声に、ぼくは言葉につまった。
「はじめは目標が高すぎるのよ。物事につまづくのはよくあることなのに、完ぺきを求めてしまうから、一度転んだだけで、届かないものなんだと思ってしまう」
するとお母さんはふふっと笑って、なでていた手で頭をポンポンと軽くたたいた。
「それにね、お母さんは結果をほめたんじゃなくて、がんばってるはじめをほめたの。成功に向けて、自分なりにいろいろ考えて、突き進もうとする背中って、『ゆうかんな者』とは言えないの?わたしはそう思わないわ」
そこでゆっくり目をつむると、急にぼくの頭をぐしゃぐしゃとする。
思いもよらずなで回されて、意味がわからない。
「わわっ、ちょっ、なにすんの!」
「心配しなくても、はじめは立派な『ゆうかんな者』よ」
お母さんの瞳は、真っ直ぐぼくを見ていた。
からかってるんじゃないとわかった。
イライラしていた熱は冷め、また涙が込み上げて来るのを必死に我慢する。
「そうかな……」
「そうよ」
お母さんの温かい手は、またぼくの頭をやさしくなでた。
そんなお母さんをじっと見ていると、おだやかだった顔がにかっと笑ったかと思えば、急にコロリとわざとらしく眉をキリッと寄せて、うーむとうなりはじめる。
「それにしても……思ったんだけど、となりのクラスの山田くんは扉を見たって言うんでしょ?ならまずは、山田くんにどんな扉だったか聞くのが先だったんじゃない?」
「あっ……!」
言われてみればそうだ。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだ……完全に、ゆうかんな者のうわさに気を取られていた。
くぅっ、ぼくのバカさが恨めしい……。
まぁ、それでも扉らしいものは見つけられなかったんだけど。
唇をかんで頭をかきむしるけど、お母さんは安心した顔でぼくの頬を両手で包み込んだ。
「よかった、だいぶ顔色がよくなったね。ここに入って来たときの顔知ってる?真っ青だったわよ」
「えぇ?」
そんなにひどかったんだ……。
お母さんが手を離すと、ぼくも思わず両手で自分の頬を触る。
「ふふっ。そっかぁ、はじめもねぇ……」
「え、なにその笑い」
「いやぁ……」
そしたらお母さん、まるで昔の記憶を思い出すように目をつむった。
あれ?どこかで似たような顔をする人を見た気が……。
そうだ、と頭の中で光が瞬いた。
木村のおじいちゃんだ。
「希望の扉……なつかしいね」
その表情を見てなんとなく、お母さんも知ってるんじゃないかって気はした。だから、ものすごくおどろくことはなかった。
「お母さん……知ってるの?希望の扉を、見たの?」
そろりと聞くと、お母さんは窓の外を見た。ぼくも視線を追って、外を見る。
外の景色はいまだに曇った薄暗い街だけど、見ているのはそれではない気がする。
「あの扉はね、数十年に一度現れて、願いをひとつ叶えるの。それも、偶然では見つけられない……」
ひとつひとつていねいに掘り起こしていくように、ゆっくりと話しだした。
「もう都市伝説みたいなものね。わたしのお母さんのときからあったらしくて、話には聞いてた。はじめが思ったみたいに、わたしの前にも現れてくれないかなって、それこそ本気で探したよ。お母さんが中学生のころね……うわぁ、何年前よ」
「それで……?」
早くその先を聞きたくて仕方なかった。
いつの間にか、腰まで浮かして。
「それで……ほとんどあきらめかけていたときに、扉が現れたの。中はとてもきれいで――……」
「えっ、じゃあお母さん、願いを叶えてもらったの?」
「そうよ」
ぼくはこんなに戸惑っているのに、お母さんはあっけらかんと答えた。
まさか、こんなにも近くに願いを叶えてもらった人がいたなんて!
うれしい気持ちと、なんだかあっけない気持ちと、フクザツだ……いやいや、それよりも!
「お母さんは、なにを叶えてもらったの?」
「それは……」
それは……?
ごくりとなまつばを飲み込む。
お母さんは目をつむってほほえんだ。
「ヒミツ」
ずこっ、思わずイスから落っこちそうになる。
「えぇーっ」
そこまで話すんなら最後まで言ってよ!このままじゃもやもやしたままだよ……。
「あははっ、そんな顔しないで。今思えばしょうもないお願いよ。でもそのときは必死だった、そんなものよ」
でもっ……と言いかけたとき、シャッとカーテンを開けられた。
振り向くと、そこにはお父さんと看護師さんの姿が。
「検査みたいね。行かなきゃ」
えっ、まだ聞きたいことがいっぱいあるんだけど……。
魚みたいに口をぱくぱくとさせていると、お母さんがくわしい話はまた今度ね、と笑って見せた。
ぼくにはわかる、ぜったいそう言ってる。
「はじめ。お父さん、お母さんに付き添うからまだ病院に残るけど、はじめはどうする?」
お父さんがぼくの肩に手を置いてたずねる。
「あ、ぼくは……歩いて帰るよ。家までそんなに遠くないし」
「そうか。じゃあ、はい鍵。気をつけて帰るんだぞ」
「うん。ありがとう」
受け取った鍵を手提げカバンに入れると、ひょいとイスから下りた。
「お母さんも、あ、ありがとう」
なんだかちょっと照れくさい。
お母さんはというと、いつもみたいににっこり。すると急に手招きし出して。
え、なに?
寄って行って顔を近づけると、お母さんがぼくの耳にこそりと。
「あゆみちゃんって、はじめが二年生のころから片想いしてる子でしょ?お母さんが帰ったら、その子の話もくわしく教えてよね」
「えっ⁉︎」
おどろいて後ろに飛びはねると、お母さんは無邪気に歯を見せて笑う。
うわっ、ぜったいからかうつもりだ!
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