第10話 ぼくは
帰りぎわ、ぼくらの間に会話はなかった。なにを話せばいいのか、わからなかったんだ。
雨足はだんだん早くなって、ぼくの青い折たたみ傘をバチバチとたたく。……どうやら天気予報は外れたみたい。
あゆみちゃんはぼくの前を歩いていた。ぼくが歩くのが遅いんだ。いつも無理にあゆみちゃんに合わせて歩いていたから……。
あゆみちゃんは強かった。自分なりの正解を見つけていた。ぼくなんかよりも大きな悩みだっただろうに、真っ直ぐ前だけを向いている。
ぼくの口を挟む隙間もないほどに。
あゆみちゃんの差す真っ赤な傘が、まぶしくて見てられない。
息をすると、外を埋めつくす灰色の空気が、ぼくの体全体に染み込んでしまうような気がする。
……そしてぼくまで真っ黒になるんだ。
「人の心を、別の誰かが勝手に変えちゃいけない」
じゃあぼくは、ぼくの願いは、どうなるの……?
木が両側に立ち並ぶ道を抜け、坂道を下り、車通りの少ない道を進む。
手すりを掴んで、階段を下り始めた。
さっきのあゆみちゃんの言葉が、表情が、鮮明によみがえってきては、ぼくの胸がズキンと痛む。
傘をたたく雨が、なまりのように重たい。
いっぱいいっぱいの感情が、これ以上あふれ出してしまわないよう、強く目をつむった。
瞬間。
「きゃっ」
あゆみちゃんが悲鳴を上げた。
おどろいて目を開けると、バランスを大きく崩したあゆみちゃんの姿が。
すべてがまるでスローモーションのようだった。
真っ赤な傘が宙を舞う。階段の残りわずかで落ちていく。あゆみちゃんの行き場のない手が空気を掴む。
「あゆみちゃん!」
ぼくは傘を投げ出して、手を伸ばした。雨にぬれるのもかまわずに、あゆみちゃんの腕を――……。
……でも、届かなかった。
ゴンッと地面に体を打ちつける音が響いて、あゆみちゃんがうめき声を出した。
「あゆみちゃん!あゆみちゃん、大丈夫?」
急いで駆け寄り、立ちあがろうとするあゆみちゃんを支えようと腕をとった。すると、ヌルッとすべる感触があって……。
ぼくはショックで頭が真っ白になった。
つややかで真っ赤な血が、手にべったりとついていたんだ。
「大丈夫⁉︎」
近くで見ていたらしく、おばさんがぼくらの前に駆け寄る。
すぐさまカバンから真っ白なハンカチを取り出し、あゆみちゃんの腕に当てる。
「救急車呼ぼうか?」
「大丈夫です……」
歯を食いしばりながら、泥だらけのあゆみちゃんが、しぼり出すように声を出した。
「お母さんに……電話を」
あゆみちゃんがおばさんに電話番号を伝える。
その間、ぼくはただただなんにもできずに固まっているだけ。
「あゆみ!」
しばらくしてあゆみちゃんのお母さんが、傘を持って小走りで向かって来るのが見えた。
お母さんの顔はひどくひきつっていて、動揺しているのがわかる。
あゆみちゃんは、手すりを持ってゆっくりと立ち上がった。
ぼくはいまだに立ち上がれずに、ぬかるんだ地面を見つめている。
お母さんは通りすがりのおばさんにお礼を言って、ぼくを見た。
「はじめくん」
びくりと体が震える。
お母さんの顔は見れない。
怒っているのかな、泣いているのかな、それとも呆れているのかな……。
お母さんのぬれて冷たい手が、ぼくの頬に触れた。
「はじめくんは、ケガはない?」
「……っ」
胸が締めつけられるように苦しくなった。
「ぼくは……大丈夫です」
うつむいたまま、雨にかき消されそうな声をしぼり出す。
「そっか、よかった。今からあゆみと病院に行くから、はじめくんは気をつけて帰るのよ。……付き添ってくれてありがとう」
そう言い残すと、あゆみちゃんを連れて近くに停めてあった車に乗り込んだ。
ぼくはその遠ざかっていく白い車を、ぼう然と見つめていた。
最後まで、お母さんの顔は見れなかった。でも声は前に聞いたのと同じおだやかな声で、まるでぼくを落ち着かせようとしているみたいだった。
「きみは家近いの?」
おばさんがぼくの放り出した傘を拾って、頭上に差し出す。
「はい……大丈夫です」
傘を受け取って、ひとり歩き出した。でも差す気にはなれなくて、広げた傘を地面に向けたまま。
顔を打つ雨粒たちを拭う気力も、なにもかも、ぼくにはなかったんだ。
*
「……ただいま」
玄関の扉が閉まると、すぐさま廊下は真っ暗になった。すると、リビングに続く扉がガチャリと開いて、お父さんがひょっこり顔を出す。
「あ、はじめおかえり……って、ずぶぬれじゃないか!傘は持ってたんだろ?」
おどろいたように目をまん丸にして、急いで脱衣所からタオルを取って持ってくる。
「すぐお風呂ためるから入りなさい」
屈んでぼくの頭をタオルで拭きながら、心配そうに言う。
「お父さん……」
小さくつぶやいた声に、お父さんは拭いていた手をぴたっと止めると、ぼくを見つめた。
「……はじめ、どうしたんだ?なにかあったのか?」
泣きそうになるのをぐっとこらえる。
「あゆみちゃんが、ケガして……それで……っ」
言おうとしたけどダメだった。
くつを脱ぐと、ほとんど逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。
「はじめ!」
扉を勢いよく閉めると、全身から力が抜けて、扉を背にペタンと座り込んだ。
お父さんをはねのけるようなことしちゃった……。
ぼくは右の手のひらを見る。あの真っ赤に染まっていた血は、もう雨に流されて跡形もない。
それでも忘れられないあの色を、感触を、見つめ続けた。
ぼくが後ろなんか歩かずに、いつもみたいにとなりを歩いていたら……ぼくがあのとき、目をつむらなければ……そもそも、ボランティアになんて誘わなければ……あゆみちゃんの手を、掴めていたのかな?
そんな考えが頭を埋めつくし、ぼくを責め……。
いつの間にか、涙があふれ出していた。止まらない涙がぼくの顔をぐしゃぐしゃにする。
「うぅっ……」
暗く冷たい、明かりひとつ灯っていない部屋の中。
顔を覆って、声に出して泣きじゃくりながら、ぼくはひどく後悔していた。
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