第7話 初めまして

 土曜日。

 ほんとはお父さんのお休みだけど、あゆみちゃんと遊ぶって言ったら大喜びでぼくを送り出してくれた。

 肩から下げたピンクの絵の具セットカバンに、片手には緑色のスケッチブック。

 雲も風ひとつない空は、太陽の日差しが突き刺すくらいに強く、ぼくの体はすぐに汗だくになった。

 五分くらい早足で道を行くと、あ、見えてきた!

 カバの大きな滑り台に、どこにでもあるようなブランコに砂場。お城のような形の遊具の中には、滑り台に、垂れ下がった分厚いロープやネットなどなど。

 公園はそれなりに広いけど、こんなに暑い日は外に出ないのか、それとも家族でお出かけするのか……。

 杖をついたおじいちゃんが、入り口近くの木陰になったベンチに腰かけているくらいで、子どもたちの姿はない。

 ただひとりをのぞいては。

 公園の真ん中、パラソルのような形の木でできた日よけの下には、同じく木でできた四角い机があって、それを取り囲むように四つベンチがある。

 ノースリーブのレースのついたベージュのワンピース姿、今日はめずらしく水色のピンを髪につけているその子。

 あゆみちゃんは、ぼくから見て右側のベンチのひとつにシャキンと背すじを伸ばして座り、本を読んでいた。

 その姿はとても大人っぽくて、ぼくをドキッとさせた。

 きっと、ぼくにはわからないような話の本なんだろうなぁ。

 そんなことをうっとりとしながら眺めていると、ぼくの視線に気づいたあゆみちゃんが、こちらを向いて手を振った。

 はっ、いけない。好きな子を待たせて、なに突っ立ってんだぼくは。

 急ぎ足で駆け出すと、それに合わせて肩から下げた絵の具セットカバンが、ジャカジャカと音を立てる。

「はじめくん早いね、まだ一時前だよ」

「あゆみちゃんこそ」

 少し走っただけなのに、もう息が上がってる。

 ゆっくり深呼吸をしながら、心の中では落ち込んでいた。

 なぜなら……この前もそうだったけど、集合時間にはぜったいにあゆみちゃんが先に着いているんだ。

 お父さんが前に言っていた言葉を思い出す。

「はじめ、女の子を待たせちゃいけない」って。

 なのに、あゆみちゃんはいつだって早い。

 お父さん、ぼくはダメな男なのかもしれない……。

 そんなことを勝手にひとりで考えて、しゅんとしていたんだけど、あゆみちゃんがパタンと本を閉じた音で我に返った。

「絵の具セット持って来てって言ったってことは、やっぱり絵を描くの?」

 あゆみちゃんのとなりにちょこんと置かれていた、ぼくのと同じピンクの絵の具セットカバン。それをあゆみちゃんはドン、と机の上に置く。

「そうだよ」

「でもなに描くの?」

 ぼくはきょろきょろとあたりを見回すと……。

「あ、ほら、そこらへんの雑草引っこ抜いて来てさ、ここに持って来て描こうよ」

「遊具じゃないんだ……」

 あからさまにあゆみちゃんは眉をしかめると、すっと立ち上がって一直線に草むらへ。屈んでなにかを掴んだと思ったら、それを持って戻ってくる。

「じゃああたし、タンポポ描くね」

 きれいに根っこごと引っこ抜かれたタンポポについた土を、ポンポンと手ではらってあげると、机の上に大事そうに置いた。

 よし、ぼくも取ってこなきゃ。

 荷物をベンチに置いて、草むらに入る。

 立派なのがいいけど、虫がいっぱいついてるのはなぁ……。

 悩んでも仕方ない。

 目の前にあった猫じゃらしを掴むと、根っこごと取れるように慎重に引き抜く。そしてついてるかついてないかもわからないけど、ブンブンと振って虫を落とすと、ベンチまでダッシュ。

「これにする」

 そう言いながら、猫じゃらしを雑に机の上に置いた。

 あゆみちゃんは絵の具を出したりしていた手を止め、ぼくの猫じゃらしを見ると、あぁ、とつぶやいた。

「エノコログサだ」

「え、猫じゃらしじゃないの?」

「猫じゃらしとも言うけど、ほんとの名前はエノコログサ」

「へぇー」

 ぼくは素直に感心した。

 あゆみちゃんが筆洗を持って、砂場の横にある蛇口へ向かった。

 あわててぼくも筆洗を取り出すと後を追う。

「物知りなんだね。ぼく、草の名前なんてぜんぜん知らないからさ」

「……あたしじゃないの。お父さんがね、くわしいんだ」

 水をたっぷりと筆洗に入れて蛇口を閉めると、うつむいていた顔がやっと上がる。

 その顔は、どこか誇らしげにほほえんでいた。

 あゆみちゃんの家族の話、初めて聞いた。……そっか、お父さんが自慢なんだなぁ。

 そうやって少しあゆみちゃんの話が聞けて、ぼくまでほほえましくなった。

 今の話だけで、今日誘ってよかったと思える。

「なに、にやにやして」

「なんでもないよ」


 よし、気を取り直して準備は万全だ。

 お互い向き合うようにしてベンチに座る。

 スケッチブックに、水彩絵の具に、えんぴつ、消しゴム、平筆と中筆、筆洗、あとはエノコログサ。

 あゆみちゃんは雑巾まで持って来ている。さすがだ。

「時間は……三十分くらいかな。あの時計が一時半になったら、とりあえず終わりね」

 あゆみちゃんが指さしているのは、公園の入り口にあるシンプルな時計塔。

「オッケー。終わったら見せ合いっこして、お互いに感想言おっか」

 ぼくはさっそくえんぴつを手に持つと、ざっざっと形を描いていく。

 授業でくらいしか絵は描かないけど、ヘタではないと思う。……でも、最後に描いたのいつだっけ?

 あたりには虫や鳥のさえずりが聞こえてくるだけで、あとは真夏のような熱気がじりじりと渦巻き、まとわりつく。

 最初こそなにも聞こえてこないくらい集中していたのに、だんだんその音が耳について離れなくなってきた。

 これ、色がこすぎかな?あっ、またはみ出しちゃった!

 ぼくの集中が切れていくのと同じスピードで、自分の絵に対する不安が心を埋めつくしていく。

「はじめくん」

 呼ばれて、残りわずかにしがみついていた集中が、完全にどっか行った。

「三十分たったよ。見せ合いっこしよ」

 自分で提案した言葉をここまで責めたことはない。

 うぅ……。

 半ばあきらめぎみで、描いていたスケッチブックをあゆみちゃんに渡した。

「ごめん、めっちゃヘタくそだと思う……」

 渡されたあゆみちゃんの絵は……うっま。

 はみ出してるところなんてないし、えんぴつの線がこくないし、なによりきれいな色合い!

 あゆみちゃん、絵までうまいのか。

 さすがと感心する反面、むなしい……。

「あゆみちゃん、めっちゃうまいね……ぼくのはダメダメでしょ」

 ハハっと中身が空っぽな笑いをこぼす。

 あゆみちゃんはというと、ぼくの絵をじーっと見つめ……。

「ダメダメじゃないと思う」

 だなんて。

 ギョッとして、しんみりと机を見ていた顔を上げる。

「あたしが言うと、えらそうかもしれないけど、本で読んだことがあるの。絵をうまく描くには観察することが大事だって。じっくり見て、形をとらえるって。はじめくんの絵、形がちゃんと描けてると思う」

 そしてぼくを上目遣いで見て言う。

「ちゃんと見て描いたんでしょ。だからダメダメじゃない。でもはじめくん、原色で色ぬってるでしょ。黒は使っちゃダメ」

 あゆみちゃんは、ぼくの絵をヘタだと言わずに、まさかのしっかりとアドバイスまでしてくれた。

 そのやさしさにおどろきつつも、すごくうれしくて……よぉし。

「ぼく、もっと描いて練習するよ!またアドバイスしてくれる?」

「いいよ」

 ためらいなくすぐに答えて、あゆみちゃんはほほえむ。


 それからどれくらいたっただろうか。

 ぼくは一枚一枚描いていって、そのたびにあゆみちゃんがしっかりとしたアドバイスをくれる。そしてまた描く、そのくり返し。

 思わずこの間の鉄棒の時間を思い出すけど、ひとつちがうところがあるとするなら、ときどき見せるあゆみちゃんのほほえみ。

 前はこんなに笑ってくれなかったから。

「できた!」

 けっこう色合いよくなったんじゃない?我ながら自信がある。

「うん、よくなってると思う。……ひと休みしよ」

 そう言って、かたわらに置いていた薄い桃色の水筒をひざに置くと、パコンとフタを開けてぐびっと飲む。

 ぼくも、と思ったのだけど……。

 ぼくの様子に気づいたあゆみちゃんが、水筒から口を離して、きょとんとした顔で言う。

「はじめくん、水筒は?」

 あ――……そういえば、来るときあゆみちゃんより早く着こうってあせってたから……。

「……忘れちゃった」

 てへ、と頭をかきながら作り笑いを浮かべた。

 あゆみちゃんはぼくと水筒を交互に見ると……。

「あたしの飲む?」

「いやいや、大丈夫だよ!」

 思わず勢い込んで言っちゃった。いや、でも無理でしょ!

 今のぼくは顔がりんごくらい真っ赤にちがいない。

「ぼくは飲まなくて平気だよ」

 両手を顔の前で振って、必死に抵抗する。でもあゆみちゃんはそのかわいい顔をむっとさせて。

「平気なわけないじゃん。今日の気温見た?熱中症になるってお母さんも言ってたよ」

「でも……」

「でもじゃないよ!」

 ピシャリと言い放った。

 散々鳴いてた虫たちも、ぼくみたいにしゅんとだまる。

「ぜったいダメ。……そうだね、この間の駄菓子屋はここからじゃ遠いし……」

 あごに手を当てて考え込むと、横目でぼくを見た。

「あたしん家で休憩しよ」

「あえっ⁉︎」

「大丈夫だよ、ここから一番近いから」

 いや、そういう問題では……。

「ちょうど家に《うまく絵をぬるコツ》っていう本もあるんだよね。貸してあげるよ。さ、ほら早く」

 えぇっ……。

 そして僕は引っ張られるまま、ずるずるとあゆみちゃんに連れて行かれるのだった。

    *

「ここだよ」

 そう言って玄関を開けると、先にどうぞと目で合図する。

「おじゃましまぁす……」

 初めての女の子の、それも好きな子の家に来ちゃった……そわそわと心が落ち着かない。

 玄関の白い壁には、ドライフラワーやあゆみちゃんの写真がたくさん飾られていて、中にはお父さんとお母さんと三人で写っている写真もある。どれも仲睦まじそうに笑っていて、見たことのないあゆみちゃんの表情だった。

「あら、あゆみのお友達?男の子を連れて来るのは初めてね」

 ガチャリと扉を開けて顔を覗かせたのは、あゆみちゃんのお母さん。ものすっごい美人……。

「はじめくんだよ。お茶がないって言うから連れて来た」

「そう、あなたがはじめくんなのね、最近あゆみとよく遊んでくれてるっていう」

「は、初めまして」

 長い髪をひとつにくくりながら、あゆみちゃんの面影があるその顔でにこり。

「さ、どうぞ、上がって。すぐ用意するから待ってて」

 通されたリビングは、とにかくきれいだった。

 ほこりひとつ落ちていないピカピカの床に、壁から吊るされたり、床に置かれた観葉植物たち。ぼくん家よりもはるかに大きなテレビ。

 大きな窓から差し込む日差しが、一面の白い壁も相まって部屋を明るくしている。

 外は暑いけど、ここはちょうどいいくらいの温度だった。

「はじめくん」

 見ると、あゆみちゃんがリビングに続く和室の、奥の書棚の前に立ってぼくを手招きしている。

「ほら、これ」

 そばまで来ると、あの《うまく絵をぬるコツ》と書かれた本を差し出している。

「ありがとう。うわぁ、楽譜もいっぱい!」

 本棚にはたくさんの児童書と一緒に、楽譜も並べられていた。

「あゆみちゃん、ピアノが得意だって作文発表会のときに言ってたもんね」

「それ去年のやつじゃん、なんで覚えてるのよ」

 頬を少し赤らめると、そっぽを向いちゃった。

 照れてる、かわいい。

 あゆみちゃん、するとちょっぴりあひる口っぽくなった口で、ボソボソと言う。

「……七月十五日、海の日で休みでしょ。その日ピアノのコンクールだから、今練習中なの」

 え……それ大事なやつじゃん。ぼくに時間使って大丈夫なの?

「はじめくん」

 ぼくが心の中でつぶやいたとほとんど同時に、後ろから名前を呼ばれた。あゆみちゃんのお母さんだ。

「麦茶でいいかな?ここに置いとくからね」

 そう言いながら、リビングのテーブルにコトリとガラスのコップを置いた。

「あ、ありがとうございます」

 振り向いてギクシャクとお礼を言うと、またお母さんはにこりと笑う。

「やさしそうなお母さんだね」

 ボソッとあゆみちゃんにだけ聞こえるように、耳元でささやく。

 すると、僕のみまちがいかな、さっきまでの赤らめた頬はすっと消え去った気がした。

「うん……」

 あゆみちゃんは少しうつろに目を伏せて、なんだかかすれたような、小さな声を出して頷いた。

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