第2話 もうひとつのうわさ

 次の日も、その次の日も、ぼくはこりもしないで、放課後になったら商店街まで足を運んだ。夕方の、帰りのチャイムが鳴るそのときまで。

 今日もそうやって、商店街で扉を探している。

 ぼくみたいに扉を探しているらしい子たちをちらほら見かけるたび、あせりが波のように押し寄せて来る。

 早く見つけなきゃ!

 

 しばらくして、三十分以上はたったかな。

 時計がないから確認しようがないけど、もうすぐチャイムが鳴るころだと思う。

 またダメだった……。

 ぼくは大げさに肩をすぼめると、帰ろうと歩み始めた。

「扉を探してるの?」

 ふいに後ろから声をかけられて、ぼくはドキッと立ち止まった。それは聞いたことのある、凛とした声だったから。

 ……まちがえるわけない。

 振り返ると、ぼくよりも少し背の高い女の子が立っていた。

「あゆみちゃん」

 赤いランドセルの肩にかかった部分を両手で握って、薄い暗闇の中、ぼくの前まで歩いて来る。

 空色のワンピースが、風に吹かれてふわりと揺れた。

「はじめくん、扉探してるんでしょ」

 急な好きな子の登場と、名前を覚えてくれていたうれしさと、扉という言葉にドギマギして、心臓が落ち着かない。

「あ、えっと、そうだよ!見つかったらいいなぁと思って、ふらふら歩きながらね」

 おとといから張りついて扉を探してるなんて、なんだか小っ恥ずかしくなったぼくはとっさに見栄を張った。だけど……。

「月曜も火曜も、ずっといたよね」

 瞬きする間もなくズバッと当てられた。

 ふわふわと周りを眺めていたぼくは、思いもよらず言い当てられて、うっと情けない声を出す。

「やっぱりそうなんだ……あたしもだよ」

「え?」

「扉だよ。あたしも探してる」

 なんでもない、というようにあっさりと言う。

 意外なその言葉に、ぼくは心底おどろいた。だってあゆみちゃんは、こういううわさにあまり興味を持ってるようには見えなかったから。

「あゆみちゃんも探してるんだ」

「そうだよ、なにか変?」

「ぜんぜん」

 即答してぶんぶんと首を大きく左右に振る。

 あゆみちゃんはふぅんとつぶやくと、ぼくの目を真っ直ぐに見つめた。

「探すだけじゃダメだよ。……扉はね、『どんなことにも挑戦できる、ゆうかんな者』の前にしか現れないんだって」

 長いまつ毛の間から覗く目は、わずかな日の光を浴びて茶色く揺らめく。

 その目がぼくをしっかりととらえていて、あゆみちゃんが真剣なことを物語っている。

 その迫力と、あゆみちゃんのかわいい顔の破壊力にじりじりと押されつつも、必死に言葉を探す。

「で、でも、そんなうわさ聞いたことないよ」

 あゆみちゃんは髪をいじりながら、大事な話を打ち明けるように声をひそめた。

「……お母さんから前に聞いたことがあるの」

「え!お母さんもこのうわさ、知ってるの?」

 その言葉に、さっきまで圧倒されていたのはすっとんで、気持ちは好奇心でいっぱいになった。

 あゆみちゃんは、思わず前のめりになったぼくを見ても顔色ひとつ変えないで、淡々と話し続ける。

「うん。お母さんのときからあったんだと思うよ。でも、たぶんこの町限定だろうって」

「そうなんだ……」

 お母さんのころからあるかもしれないうわさで、扉を見たって言う子もいるんだったら、ぜったいにあるはずだよね。

 ぼくの胸は、わくわくする気持ちにどんどんふくれ上がっていく。

「じゃああたし、帰るね」

 言い終わらないうちに、あゆみちゃんはくるりときびすを返してそそくさと歩き始めた。

 あ、とぼくはとっさにあゆみちゃんに手を伸ばす。

 どうしてもひとつ、聞きたいことがあったんだ。

「あのっ、な、なんでそんなこと、ぼくに教えてくれたの?」

 差し込む光の中を進む、その小さな背中に、ぼくは投げかけた。

 細い足がぴたりと歩みを止める。

 期待してしまった心臓が、ドキドキとうるさくなるのがわかった。

 あゆみちゃんは肩ごしに首だけをこちらに向けると、うーんと目を伏せる。

「他の子はだいたい、あったらいいなぁ、くらいで探してるのに、はじめくんはすごくまじめそうに探してたから。よっぽど叶えたい願いなんだなって」

 それだけ、と言うと、また前を向いて歩き出す。

 期待してしまった分、ぼくはガックリと肩を落とした。

    *

 玄関を開けると、カレーのおいしそうなにおいがぼくの鼻まで漂ってきた。

「おかえり―」

 もたもたとくつを脱いでいると、キッチンの方からおっとりとしたお父さんの声が届く。

「ただいま!」

 ぼくはいつものように元気よく返事をすると、リビングへと続く扉を開いた。

 床には脱ぎ捨てられた片っぽだけのくつ下。机の上はあいかわらずよくわからない書類でいっぱいで、ソファには溜まった洗濯物があふれかえって座れない。

 当たり前になってしまった風景。

 そんなリビングの奥にある小さなキッチンで、お父さんは右手に握ったおたまで鍋をかき混ぜていた。……でも視線は左手で持ったタブレットに釘付け。

 また料理しながら仕事してる……。

 お父さんはデザイナーで、ほとんど家で仕事をしている。

 仕事は結構忙しいみたいで、ときどき部屋からうなり声が聞こえて来るんだ。

 最初は、なにかヤバいことがあったのかなと扉を開いてみた。すると、あーでもないこーでもないと、パソコンにかじりついている、真っ黒な雰囲気をまとったお父さんの背中があるんだ。

 今じゃもうすっかり慣れてしまったけどね。

 それでもタブレットをひとときも離さなければ、仕事の文句のひとつも言わないから、ほんとに仕事が大好きなんだと思う。

 熱心なお父さんは大きな自慢だ。

「もうご飯できるから、手を洗って、ランドセルを置いて来なさい」

 お父さんはちらりとぼくを見ると、にこやかな笑みを浮かべてうながす。

 ぼくは頷き、ドタドタと廊下を出て手を洗いに行った。

 お父さんのカレーは特別おいしいから、ご飯は逃げないとわかっていても、早く食べたい気持ちが先を行くんだ。

 ぼくは自分の部屋に入って、ランドセルを無造作にほっぽり出し、リビングに戻る。

 机の上に広がった書類をテキトーにまとめて、床にドスンと置いた。

 まったく、なくしてもぼくは知らないからね。

 さて、次はご飯の手伝いだ。

 お父さんが皿によそったカレーライスを、ぼくがテーブルに並べていく。

 そして二人座って手を合わせ、「いただきます」をする。

 ぼくはあの扉探しですっかり歩き疲れたために、おなかがぺこぺこだった。だから、勢いよく皿に盛られたカレーライスをかき込んでいく。

 そんなぼくの様子を、ときには心配そうな顔で見つめながら、お父さんが口を開いた。

「はじめ、最近なんだか帰りが遅いけど、なにをやってるんだ?」

 やんわりした声音で問いかける。

 ぼくはカレーライスを食べる手を一時中断して、水を一気に流し込んだ。

「ふぅ……えっとね、願いを叶えてくれる扉を探してるんだ。今学校中で話題になってて、商店街に出たって聞いたからぼくも探してるの。しかも、あゆみちゃんが言うには『どんなことにもチャレンジする、ゆうかんな者』の前にしか現れない扉なんだって」

 話しながら、あゆみちゃんが言っていた、「うわさがあたしのお母さんのときからあった」という言葉を思い出したぼくははっとした。

「お父さんも知ってる?このうわさ。あゆみちゃんはお母さんのときからあったうわさなんじゃないかって言ってたんだ」

 ぼくは前のめりになって、ほとんど早口に問いかけた。しかし、お父さんは申し訳なさそうに首をふるふると横に振る。

「この街はお母さんの生まれ故郷だからね。お父さんは最近になってここに来たようなものなんだよ」

「そっか……お母さんに聞けばわかるかな」

 そう自分で言ってしまってから、さっきまでの熱が一気に冷めた。

 ぼくはテーブルの右側、イスだけが置かれた主人のいない空間を、さみしげに見る。

 お母さんは今、病院で入院している。

 重たい病気らしくて、名前を聞いてもぼくにはよくわからなかったけど、今度手術を受けるとお父さんは言った。

 よく頭をなでてくれるお母さんの顔を思い出して、ぼくは少し悲しくなった。

「そうだね。お母さんならなにか知ってるかもね。今はまだ会いに行けないけど、あとちょっと待って、そうしたら会いに行こう」

「うん」

 しんみりした気持ちになったけど、お母さんは今もがんばっているから、ぼくがさみしんでたらいけないんだ。

 お母さんも、気にしないでと笑っていた。

 ぼくは再びスプーンを強く握りしめると、カレーライスをかき込んだ。

 悲しいなんて気持ちは、今はいらないとかき消すように。

 お父さんは、そんなぼくの様子を温かな眼差しで見ると、ゆったりとカレーライスを何口か口に運ぶ。

「……あゆみちゃんの話によると、ゆうかんなチャレンジャーの前に扉が現れるんだろ?なにか考えてるのか」

「ふふふ……」

 待ってましたと言わんばかりに、ぼくは人差し指をピンと立てると、ニヤリと笑ってみせた。

「来週の算数のテストで、百点とる。勉強きらいだけど、百点とったらチャレンジするゆうかんな者でしょ」

 ふふん、と息を吐くと、ぼくは最後のひと口をゆっくりかみしめた。

 お父さんはというと……目をまん丸にして、数秒固まると、ずれた黒ぶちメガネをくい、と上げる。

「はじめの口から勉強するなんて言うとは思わなかったな……だがはじめ、一番手っ取り早いのは、あゆみちゃんに告白することじゃないのか?そしたらチャレンジャーだろ」

 その瞬間、ぼくの顔がみるみる赤くなっていくのが、鏡を見なくてもわかった。

「はぁ⁉︎フ、フラれちゃったらどうするんだよ!ぜったい無理!」

 そう吐き捨てると同時に、ぼくは空になった皿を持ち上げ、食器がいっぱいのシンクに入れる。

「ごちそうさまでした!」

 そのままお父さんの顔も見ずに、ドスドスと音を立てながら自分の部屋まで歩くと、扉を勢いよく閉めた。

 お父さんったら、なんでもないように言うんだから!

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