そう、

西野ゆう

そう。

「なんだ、元気そうじゃないか」

 人は食べなければ死ぬ。じわじわと、死ぬ。そのような死に方を望んでいない私は食料品を買いに、篭もりっぱなしだった家から出てきていた。人に飲み込まれぬよう、心に蓑を被せながら、アスファルト色のコートを纏いながら。

「二ヶ月も休んでいるからみんな心配してたけど、元気そうだったって伝えとくよ」

 なぜこの人は私が離さぬようキツく握りしめている蓑を剥ぎ取るのか。

 元気そう。

 確かにそうなのだろう。

 今日は朝日を見た時から「買い物に行こう」という気分になれたのだから。

 この数日の中でいえば「元気」なほうだ。

「課長もお変わりなさそうですね」

 冷凍食品が並んだ売り場でするべき行動ではなかった。

「見てみなよ。これが嘘つきの顔だよ。外側を全て嘘で固めた人間の顔だよ」

 真っ白い霜が張り付く冷凍ケースに映る私の顔が、青白い蛍光灯の光に照らされて、冷酷に私自身を凍らせる。

「変わりなさそうに見えるかい?」

 この人は、私を地獄にでも突き落としたいのだろうか。自分が私の芯まで突き刺した言葉の槍に気付かぬフリで。

「課長こそ私が元気に見えますか?」と、吹き出しに無数の棘を生やして左右対称のもう一人の私が叫ぶ。

 同時にけたたましく警報アラームを鳴らし始めた私の細胞たち。

 脳に酸素が足りない。息が苦しい。冷や汗が滲む。声帯が、張り付く。

 四肢がいうことを聞くうちに逃げなきゃダメだ。

 しかし、無言で逃げる私の手首を課長が掴んだ。まだ空の買い物かごを握りしめている右手を。

「君のおかげでね、来年度から離島行きさ。噂にも尾ヒレが付いている。単身赴任になるだろうし、多分そのまま離婚だな」

 耳に入った言葉が、勝手に変換される。より汚く、罵る言葉に。

 手首が折れそうだ。そう思った。あまりにも脆い私という人間。利き手である右手でも、男の力としては軽く掴んでいるだけであろう、このぬるりとした感触の手さえ振りほどけない。

 右手。

 左右対称の私が、その自由な方の利き手を夢中で振り回した。

 課長が持つ何かにぶつかっている。店内の何かにぶつかっている。利き手が自由な私は、それでも全く痛そうじゃない。

 私は、痛くて堪らないというのに。流れ出た血を撒き散らしながら、泣いているというのに。

「やめて!」

 分かっている。

 血が流れたから。

 私の中の毒が薄くなったから。

 だから声も出せたし、嘘もつけた。

 卑怯な言葉を口にできた。

 毒に犯されていても、健全な状態でも、私はクズだ。

「普通に生きること」を諦めさせられた日から、ゴミ処理場へと向かうだけの人生を歩いている。

 人々が、そんなゴミ屑を遠巻きに眺めている。売り場にしゃがみこんだゴミを。

 いつの間にかポイ捨てした奴は姿を消していた。

「乱暴されたんですか?」

 店員と警備員が並んで私に尋ねた。

「そう」

「相手は知っている方?」

 私は言葉と共にカラカラの喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。「知っている方」とはどういうことだろうか。あんな奴に「方」などと丁寧な言葉を使う必要があるのだろうか。

「いいえ」

「知らない方ですね?」

「いいえ」

 明らかに二人は怪訝な顔をした。そして顔に書いてある。

「これはアタマのおかしな人間だ。面倒だぞ」と。

 私が平然と立ち上がると、店員は明らかにホッとした顔でこう続けた。

「大丈夫そうですね」

「そう、見えますか?」

 そう言ったのは私か、左右対称の私か。或いはまた別の私か。

 人は食べていても死ぬ。じわじわと、死ぬ。生きている限り、じわじわと死んでゆく。

 また今日も一日、死に近づいた。

 元気そうで、大丈夫そうなわたしも。

 私の目の前で愛想笑いする二人も。

 冷凍食品が透けて見える半透明の私も。


 二十分後、私は防犯カメラに映っていた、独りで暴れる自分自身の姿を見せられた。

「なるほど、嘘は吐いていなかったわけですね」

 知っている方も知らない方もいない。誰もいない。

 いつも私は独りだ。

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そう、 西野ゆう @ukizm

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