最終話 カラッポ?

 帰り道、少し大きな水たまりを踏んでズボンが濡れ、気持ち悪かったので、帰ってくるなり少し早かったがお風呂に入った。

『あの水たまりくらい避けられただろ』

 ふん、うるさいな。

 お風呂上がりにそう真人に返しながらも、真人に対し違和感を感じていた。

 その瞬間、もしかしてと思い浮かんだことを確かめるべく、すぐさま自室へと向かい、普段小説を書いているパソコンを立ち上げる。

 そうして昨日書いていた原稿を開いて、真人のセリフを探した。

『一緒に登ろうよ?』

 まずこれが序盤の真人のセリフ。

『幽霊が信じられないのだとしても、死んだところで償いにはならない。一度してしまったことは取り返せないからこそ、これからの人生でじっくり償っていくしかない』

 そしてこれが終盤の真人のセリフ。

 見てすぐに、口調の変化が感じられる。そうして、さっき思いついたことを確信した。

 間違いない。小説の中の真人の口調の変化に合わせて、現実の真人の口調も変わったんだ。

 最初は現実の真人の口調に準拠して書いていたが、それが、後から口調が変わっている。というか、書いている時に自分で変えた。

 現実の真人を投影して最初は書いていた。それに、真人は僕の中にしかいない存在だ。だったら、小説の中の真人が変化したことで、僕の中の心の奥で真人の印象が変われば、こっちの真人も変化するというのは、十分あり得る話じゃないか。

 同時に、強い不安に襲われた。

 目の前のこの真人が、この前、つい最近まで僕が知っていた真人ではないかも知れない、と気づいたからだろう。

 次に考えたのは、どうすれば真人は前の真人に戻るだろうか、ということだった。しかしその答えはすぐに出た。

 小説の中の真人の口調を戻せばいい。もちろんそれでうまくいかない可能性もあったが、それでもやってみるしかない。

 画面の中を注視して、帰るべき場所を探し始める。

 待てよ、真人の口調を変えると、絵凪の説得の場面で不自然な場所が出てこないだろうか。しかし、そんなことには構う必要はない。どうしてもという場合になれば、結末を変えてしまえば――


『ちょっと待てよ』

 夢中で小説を流し読みする僕を真人が止める。

 何?

『ちょうどいい機会だろう、僕から離れる』

 は、何言って⋯⋯。

『ずっと、僕がいたら駄目だとは、頭の片隅で常に思っていたんじゃないか? いつかは離れようとは思っていたけど、決心がつかずに先延ばしにしていた』

 真人はせきを切ったようにまくし立てた。

『保育園ではまだいい。しかし、小学校に入る前にはもうとっくにおかしなものが見えていると自覚していた。だから恐れて僕を消そうとした。けど、僕が、他に友達を作れば僕はいなくなると教えて、実行したところ僕の声以外が消えたところで怖がって友達をなくしただろう! それも、その子を殴って! 怖がった原因が、初めてできた友達を失いたくなかったとかなら良かった。しかし、あのときお前が怖かった理由は――』

 やめろ、お前は真人じゃない!

『もしもその友達をなくしたら孤独になるからだろう! そして、自分はきっとそうなるだろうと思えるほどに自信がなかったからだろう! 他の人間は当たり前にできることが自分にはできない、なんて思っていたんだろう! 大間違いだ!』

 姿が見えず、耳を塞いでも聞こえてくる声に、ただただ怯えた。ただただ、怖かった。

『そんなことは誰も彼も苦労してやっとできることなんだ、だのにお前は、やってみることもせずに端から諦めて、他人に自分を伝えること、自分を教えることを恐れ、自分を偽った。小説を書き始めた動機は? そんな自分を誇って、他人は分かってくれないなんて嘯きたかったからじゃなかったか?』

 違う、違う⋯⋯いや⋯⋯。

 その途端に、真人の声色が穏やかになった。

『でも、そんな小説を通じて、弥呼というもう友人と呼べる相手ができただろう。そんな小説を通じて、このままじゃ駄目だと自覚して僕にこんなことを言わせているだろう』

 そうか、真人は僕の中の存在、だから真人に喋らせているのは僕⋯⋯?

『今のお前なら、十分他人に頼ること、自分を見せることは怖くないと分かっているはずだ。それに、それもうまくできるようになっただろう。一人で何でもかんでもできるわけじゃないから、そうしなきゃいけないことも分かっている。もしも何か怖いこと、難しいことがあっても、僕に頼らず、僕以外に頼ってどうにかできるだろう。だったら、僕は、もう』

 だったら、真人は、もう――


 窓から入る陽光の眩しさに目が覚める。何か楽しい夢を見ていた気がするが、どんな夢だったか細かいところはもう忘れていた。時計を見ると、いつも起きるよりも一時間ほど早い時間だった。妙に頭がスッキリしているように感じる。

 昨日の夜、真人に咎められた以降のことは記憶にない。――って、そうだ、真人は?!

 周囲を見渡しても真人の姿はない⋯⋯って、これは前からか。

 真人?

 いつも真人と話すときのように、声には出さず、ただ、念じた。しかし、返事はない。

「真人?」

 今度は口に出して呼んでみた。が、それでも返事はない。

 ⋯⋯あれ、昨日まで、どんな気持ちで真人に話しかけていたんだったか。

 それすら忘れていても、昔、真人の姿が見えなくなったときのように不安に思うことはなく、それどころか、誰に見せるでもないのに自然と笑みがこぼれた。

 真人は⋯⋯僕を、真人間まにんげんにしてくれた、というのは買いかぶり過ぎだろうか。しかし、人と人の間と書いて「人間」だから、僕の中にしかいなくて、人同士の間に立てない真人は、多分真人「間」ではなかった。真人は真人だ。それでも、僕を導いてくれた。

 僕が真人に言葉を言わせていただけということは、おそらく真人は「カラッポ」だったのだろう。しかし、意味までない存在ではなかった。少なくとも、僕の友達になるという意味はあった。

 体の中にあった何かを出し切るように、ふぅと息を吐く。

 しまったな⋯⋯小説の中で、真人が何を願うのかという疑念が残っている。そこだけ、真人に聞いておけばよかった。

 ⋯⋯いや。弥呼や野山に聞けばいいじゃないか。カラッポでもなんでもない、ちゃんとした人間の友達に。

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カラの友 @k-n-meduki

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