第5話 「五輪書 火の巻&風の巻」 閻魔大王との真剣勝負

戦うといって殴り合いをする・相手を折伏する(説得する・言い負かす)という(explosionの)戦いではなく、「オレはオレ」であることにどこまで徹することができるか、というimplosionの勝負です。

理論の方は「五輪書」の通りですが、実践的には「オレはオレである」ことを如何に証明できるかが肝(きも)となります。

閻魔さまの前で、まるで歌舞伎十八番・関守富樫と武蔵坊弁慶による「山伏問答」のような場面が展開されるのです。

○ 閻魔さまが問う「お前は何者か」


私が答える、「在来種純粋日本人です。」


  では、その証明をして見ろ、と言われて、パスポートも運転免許証もない。

  また、日本語を話すだとか、日本人としての名前なんか、韓国人でも中国人でもできる。

第一、姿形すらないのだから、心と精神、ガッツと気合いによって、私の「在来種純粋日本人性」を証明しなければならない。

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先週(2024年7月8日)、NHKのラジオ番組で「懐かしの70年代歌謡曲」という特集がありました。そこには、まさに世界中で在来種純粋日本人(縄文人)しか、こんな歌は作れないであろうという、数々の名曲(迷曲)が流れました。

「泳げ、たい焼君」

「走れコータロー」

「山口さんちのつとむ君」

「港のヨーコ横浜・横須賀」

「海援隊 母の思い出、あんたが大将 三味線バージョン」

等々。

他にも、数々の縄文人らしい歌や歌声が、まるで美しい湧き水のごとく日本には溢れている。「忌野清志郎 「Oh! RADIO」」なんて、声がずばり縄文人です。

まこと縄文人とは、さまざまな次元と位相によって素の人間を楽しめる民族なのです。

私の場合、さらに:


東海林太郎「名月赤城山」

春日八郎「赤いランプの終列車」

  田端義夫「渡り船」

美空ひばり「唄入り観音経、人生一路」

三波春夫「決闘高田の馬場」

三門博 「唄入り観音経」

二代目 広沢虎造「石松三十石船 」

  「元禄男の友情 橘左近」

「三人吉三  大川端の場」

「弁天小僧 浜松屋店先」

「与話情浮名横櫛 源氏店」

等々。

このあたりの歌や浪曲、歌舞伎や講談を「心で唸る」ことで「オレは在来種純粋日本人である」という、心・精神的なる存在を実証する。

(ちなみに、ユーミンだのサザンだの、ただの日本の歌なんて駄目、というか、私には歌えても歌いません、閻魔さまの前では。だって、偽物日本人でも歌えるのですから、在来種純粋日本人の証明にならない。)

もちろん、「日本昔話」私のお気に入りや、わたし個人のバカ話を閻魔さまにお聞かせしてもいいでしょう。

私は、閻魔さまの前でこれらの歌や話を「在来種純粋日本人として歌う・話す」ことで、私の在来種純粋日本人(縄文人)性を実証できると信じ、現在、毎日・毎時口ずさむことで、縄文人のノリに染まっています。サーフィンの練習をしているようなもの(縄文人の場と間合いとタイミングをつかむ)ですね。

まあ、歌詞云々よりも、在来種純粋日本人の心になり切れるかが勝負、ということなのです。

逆の見方をすれば、たとえば、警察手帳とか創価学会という権威・肩書きで生きている人種・世界では、こんな歌は生まれてこないし、心から歌うことはできない。

あの世とは、地位や肩書き、カネや権威も取り払われた、素の人間としての勝負なのですから、その人も・その歌にも、素の心がなければ存在できないのです。

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基本的には「オレは・私は在来種純粋日本人である」という証明さえできれば、来世もまた縄文人・在来種純粋日本人として、再び生を受けることができるわけですが、私の場合、さらに次のステップがあるのです。

すなわち、ただの縄文人・日本人であるばかりではなく、平栗雅人であることを実証することで、縄文人・在来種純粋日本人として生まれ変わるだけではなく、再び、この平栗雅人という人間の魂が甦ることなのです。

ですから、それを裏付ける「平栗雅人性」を発揮しようと。

もちろん、来世で「名前」は違うかもしれませんが、「平栗雅人」という魂が再生されることを期す故、これまた心と精神でそれをimplosionするわけです。

「在来種純粋日本人性の証明」と同じく、この点に関しても、おさおさ怠りなきよう、日々努力・精進しているこの頃。これまで、すでに羞恥悔悟の念を擲(なげう)ち、平栗雅人ならではの本を200幾つも書くことで、私の中にしっかりとした平栗雅人像ができあがっています(人が見てどうこう、ということではなく、自分自身の自覚として)。

その意味で、あの世でのスピリットですから、「いいね」なんて評価よりも「嫌い・反対・同意できない・お前だけのひとりよがり」なんて(ネガティブな)評価があった方が、私にとっては、より励みになるかもしれません。


これまで公にされた著作や日々の言動をによって、私の中の「平栗雅人」は、ほぼ確立されていますから、姿形はもとより、どんな形而上の評価や口外にも耐えうるコギト・エルゴ・スムが私の中に存在している、と考えています。

早い話が、この本(縄文人の系譜 三途の川の渡り方)なんて(アホな)ことを言う(書く)のは、この平栗雅人以外いないという自覚こそが、紛う方なき励みであり自信となっているのです。

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単に歌を歌うだけなら、在日韓国人でも在日クルド人でも、創価学会でもできること。在来種純粋日本人として、在来種純粋日本人の歌になり切る・浪曲・講談にずっぽり嵌まることができる。ここが肝であり、勝負なのです。

  「オレはオレである証明」を自覚するために小学生を出刃包丁で刺し殺した在日韓国人、或いは、養老院で19人ものお年寄りを殺し、その異常な行為を以て「自分が自分である証明」などと偉そうなことを言う在日韓国人なんていうのは、閻魔さまの前どころか、死刑になった時点で、禅の教えのごとく「無」になるのでしょう。世界の標準規格である旧約聖書では、嫉妬心からひと一人殺しただけで「永久追放」なんですから。

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私が大学日本拳法部1年生の時、一番心に残っているのは、アルバイト先のOBの工場で教えられたこと、それは「平栗、オレは日本人じゃない、韓国人なんだ。」というコギト・エルゴスムの精神でした。

  この先輩は生まれてからずっと日本人の偽名など使わず、日本拳法の大会プログラムにも(60年以上も昔)堂々と○次丸と韓国名を明記されていました(全日本選手権で3位)。

  韓国の高校3年間、(韓国から日本へ逃げた卑怯者と)韓国人特有のネチネチした、また残虐な弱い者いじめに苦しみながらも(1000人の全校生徒が敵)「韓国人」を捨てなかった。日本で生まれたときから中高大学・社会人と一貫して韓国名で貫き通し、自信を持って生きてこられたのです。

  こういう人間こそ日本の在日韓国人の中で閻魔様のところまで行ける、極めて希な存在だと、私は思います。


○ 「風の巻」とは、比較検証によるコギト・エルゴ・スム(自己同一性)

たとえば、閻魔大王に向かって「私は創価学会ではないし、在日韓国人でもない。」と、比較対象を提示することで自分が自分である証明をする。これが「五輪書 風の巻」です。

中国の人民網日本語版というネット新聞では、「日本人すべてをひっくるめて創価学会」という記事の書き方をしていますが、これはあの世では通用しない。


創価学会が人間として良い悪い、或いは、組織としての優劣・金を持っている・権力があるなんてことは、あの世では没交渉。

  創価学会という外来種日本人と在来種純粋日本人とは、国籍上は日本人という因数でくくることができますが、「血と魂の分類」でいえば、全くの別物なのですから、それを私は心と魂で証明しようとするわけです。

在日韓国人や在日クルド人に関しても、彼らは同じ社会に生きる者ではありますが、人種的・文化的にはまったく別、というのは当然のことです。

「身体は男でも心は女」なんて人も、やりたければ勝手にやって下さい、です。しかし「オレはそんな訳のわからないものとは別」という立場は、たとえ棺桶の中に入っても変わらないのです。

わたしは、この「私は他の人間・人種とは異なる(優れているということではありません)」という点を、閻魔さまの前ではっきりと、一瞬のうちにプレゼンテーションできますが、これが「風の巻的なる存在の証明」の仕方なのです。百万言を費やすことなど不要であり、私の思惟はそのまま閻魔さまに通じ、明確に区別・区分けしてもらえるでしょう。

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