推しを継ぐ者
真田紳士郎
推しを継ぐ者
俺たちの推しがアイドルを卒業した。
ずっと、この日が来なければいいと思っていた。
大きな熱狂とともに推しの卒業公演はあっという間に幕を閉じた。
今まで観てきたライブの中で、今日の推しが一番素晴らしかったと心から思う。
終演後、俺たちはいつもの安居酒屋のカウンターで肩を並べていた。
ケイちゃんは卒業公演が終わってからずっと泣きっぱなしだ。
今日はまっすぐ帰った方がいいんじゃないか、と提案したが彼女は帰りたくないと泣きじゃくるので、結局お決まりの店で飲んでいる。
「いい卒公だったよな」
沈黙に耐えきれなくなった俺は、ライブが終わってから既に何度も口にしてることをまた言った。
「……うん。すごく良かった。ホントにいいライブだった……」
真っ赤になった顔をハンカチに
カウンターに男女が座っていて、女子の方が泣いている。気まずい雰囲気だ。周囲の客が遠巻きに俺たちの様子を窺っているのを感じる。
だが、そんなことは気にしても仕方がない。
この数年間、俺たちが全力で応援していた推しは今日、アイドルを卒業した。
芸能活動を引退したんだ。
こんな日に涙を流すことを誰が
本音を言えば俺だって泣きたい気分だ。
だが一緒にいるケイちゃんがあまりにも泣き続けているものだから、それをなだめているうちにすっかり泣くタイミングを逃してしまった。
もともと俺たちは六人組でつるんでたファン友達グループの一員だった。
それが時を経て、ひとりがファンを辞め、ひとりが推し変し……。徐々に人数が減っていき、最後まで残ったのが俺たち二人だ。
「みんな来なかったな。せめて卒公は観に来てくれると思ったのに」
「……しょうがないよ。みんな、変わっちゃったもん……」
「あんなに輝いてた推しの姿を観なかったなんて、もったいないよな」
「……ほんとだよ。あんなに凄いパフォーマンスを見届けないなんてさ……」
「それにしても昔はポンコツキャラだったのに、成長したよな」
「……それわかる。完全にグループの
それから俺たちは酒を煽りながらぽつりぽつりと思い出話しをはじめた。
推しの話し、特典会でした会話、撮ったチェキ、行った場所、行けなかったイベント、かつて現場に居たファン友達のエピソード。
いつまでも喋り続けられるんじゃないかと思えるほど、会話のキャッチボールが途切れることはなかった。
長年、同じ推しを観て、同じ熱量を共有してきた。
ケイちゃんは俺にとって戦友のような存在なのだ。
推しはライブアイドルだった。
毎週のようにライブを観てチェキを撮り、たくさんの会話をする。距離が近くて親しみを感じられた。
全国的に有名ではなかったかもしれない。
だけど俺たちにとっては、唯一無二のアイドルだったんだ。
ようやく泣き止んだケイちゃんは笑顔を取り戻していた。
「ごめん、やっと落ち着いた。ちょっとメイク直してくるね」
ケイちゃんは気恥ずかしそうに席を立つ。
出会った頃の彼女はまだ高校生で化粧っ気もなかった。
時が経ったものだ。
推しが居たから出会えた友達である。
思えば、休日の予定はいつも推し活を中心に回っていた。
もしも推しに出会わなければ、俺は夜行バスに乗る経験はしなかっただろう。
もしも推しに出会わなければ、自分ひとりで新幹線、飛行機のチケット、宿泊先の予約などしたこともないまま、今の年齢になっていたかもしれない。
もしも推しに出会わなければ───。
それだけ夢中になれるアイドルと出会えた。
俺は幸せ者だったと思う。
「お待たせ」
メイクをバッチリ直して戻ってきたケイちゃんの姿に、周囲の客がほんのりと色めき立っている。人目を引く容姿なのだ。
今までもイベント会場に居ると『芸能関係の人ですか?』『どこのグループのコ?』といろいろな人から声をかけられていた。
「……ところで、ショウ君はこれからどうするの?」
「どうするって?」
「推し活。また現場へ行くの?」
「俺はいいかな。推しが好きで、推しが所属してるグループだから通ってたけど、その推しが居ないなら、俺はもう」
「そんなこと言ってぇ、軽率に新しい推しメンを見つけちゃうんじゃないのぉ?」
「こらこら」
俺たちは他愛もない冗談で笑い合った。
「そうだよねぇ。いい加減あたしも推し活は卒業しようかな……」
おどけた態度でグラスを飲み干す彼女に合わせて、俺もジョッキを空にした。
お互いにこれが最後の一杯だろう。
ケイちゃんの方もそれを察してるのか「次なに呑む?」とは聞いてこなかった。
しばし無言の時間が流れた後で、俺はそっと沈黙を破った。
「前にもこうやって酒飲んでた時にさ、ケイちゃん『あたしもアイドルやりたい!』って言ってたよね」
「えっ、あたし、そんなこと言ったの!?」
「かなり酔っぱらってた時にね」
「嘘だよ、そんなこと言ってないよぉ」
「言った言った。泣きながら言ってたよ」
ケイちゃんは照れ隠しのように苦笑いを浮かべていた。
「あれってさ、本心?」
俺の問いにケイちゃんはなおも口元に笑みを浮かべたままこちらを見た。
「本心なんでしょ?」
少しの時間、彼女と目が合う。
瞳の奥までは笑っていないと俺は思った。
「やりなよ、アイドル」
「えっ……」
「やりたいなら、やってみればいいじゃん」
「いやいや、そんな、簡単にはできないっしょ?」
「ケイちゃんならやれると思うよ」
「……でも、だって、その……」
いつも明朗快活な彼女にしては珍しく、おどおどと口ごもっている。
これ以上、この会話を続けたいとは思わなかった。
手を上げて店員を呼ぶ。
「そろそろ帰りますか」
外に出ると週末の繁華街は浮かれた人で賑わっていた。
『遠くから来てくれるファンも無事に帰宅できるように』という推しの希望もあってか、卒業公演の終演時間は早かった。
俺たちが飲み始めたのは夕方だったが、すっかり暗くなっている。
人通りの多い道を避けてゆっくりと駅に向かうことにした。
「ねぇ」
あれからずっと考え込むようにして黙っていたケイちゃんが、前を歩く俺の背中に声をかけてくる。
「さっきのことなんだけど……どうしてあんな話し、あたしにしたの?」
なぜだろう。
彼女の言うあんな話しが何を指すのか、俺にははっきりと分かった。
それを訊いてくる彼女の心情も含めて。
「前々から思ってたんだけどさ」
「うん」
「俺たちって、推しからめちゃくちゃ元気もらってたじゃん。『元気』っつーか『パワー』っつーか『エネルギー』っつーか」
「うん、そうだね」
「ゲームで例えると、推しから回復魔法をかけてもらって体力満タンなのよ。HPがMAXなわけ。それなのに、今までずっと回復魔法をかけ続けてもらってたっていうか」
「まあわかる」
「だけどさ、このままじゃダメだよな。もらいっぱなしのままじゃダメだよなって」
「?」
歩調を合わせて隣に歩み寄ってきたケイちゃんが俺の顔をのぞき込んでくる。
「推しからもらった元気を受け継いで、ちゃんと自分の人生で活かさなきゃダメなんだって。頑張る推しを見守るだけじゃなくて、自分も自分なりに頑張りたいことを見つけて取り組まなきゃって。そう思ったんだよね。」
推しの卒業が発表されてからずっと一人で考えていたことを、俺は初めて他人に語った。
ケイちゃんは一瞬、驚いたような表情をしつつも静かに聞いてくれていた。
「そういう気持ち、ケイちゃんは分かってくれるんじゃないかって」
「あたし?」
「そう。だからケイちゃんにもやりたいことがあるならやって欲しいと思ったんだよね。一度きりの人生でしょ」
「それであんな話ししたのね……」
ケイちゃんの口調は穏やかだった。
「ショウ君って、そんな熱いことを考える人だったんだ。ずっと一緒にいたのにそんな一面があるなんて知らなかったよ。なんか意外」
俺だって、もともとはこういう人間じゃなかった。
流されるままに生きて大人になっていた。
だけど、推しと出会って『自分も頑張りたい』と考えるようになったんだ。
「で! ショウ君は何をやりたい人なの?」
「それは……」
「それは?」
「それはまあ、いずれ」
「ちょっと! なんで隠すのよ」
「ちゃんとカタチになったら教えるからさ」
「なにそれ。なんかズルいなぁ」
俺たちは笑い合った。
もうすぐ駅が見えてくる。
駅前の広場ではアイドルたちが道行く人にチラシを配ったり立ち話をしていて、とても賑やかな光景だった。
それを見つめながらケイちゃんは、
「『推しからもらった元気を受け継いで、自分の人生で活かす』かぁ……」
さっき俺が言ったことを反芻するかのようにつぶやく。
ちらりと目をやると、今まで見たことのないような澄んだ表情をしている。
何か言葉をかけようか悩んだが、やめておいた。
きっと、彼女はアイドルをやるだろう。
そんな風に思うのは自分の願望か。
彼女が今、心の中で何を思っているのかは想像することしかできない。
『推しに感化されて、自分も挑戦したくなった』
そんなことを口にすれば他人は笑ったり馬鹿にするかもしれない。
それでも構わない。
挑戦しないままで終わるよりはずっといいはずだ。
(もしもケイちゃんがアイドルになれたら、「推し」がファンの人生を大きく変えたことになるんだな)
酔いから醒めはじめた頭でそんなことを考えていると、胸の奥がワクワクするような感覚がした。
推しに影響されて人生を大きく変えられてしまう。
そんな人間がこの世にふたりくらいは居てもいい。
推しを継ぐ者 真田紳士郎 @sanada_shinjiro
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