帰り道

岩須もがな

帰り道


「大体、どうして歩いてるんだ。歩いたら転ぶだろうが。おまえ、自転車はどうした」


きつく叱る時の声だった。兄は振り向きもせず、僕の腕をぐいぐい引っぱって歩いて行く。掴まれた手首が痛いような、逆に何の感覚もないような、変な感じがする。足元の感覚も変だ。地面がどこかわからない。まっすぐ歩けない。ただ兄に引っぱられるままに、暗い道をなんとか進んでいる。

酒を飲み過ぎた。

……酒?

そうだ、飲み会に行ってたんだ。サークルの新歓。大学生になれて浮かれていた。まだ未成年だけど調子に乗って何杯も飲んでしまった。

だから地面はこんなに柔らかくて歪んでいて、目は霞んでほとんど真っ暗になっている。


あれ、でも──どうして兄がいるのだろう。

どうして、僕は兄に引っぱられているのだろう。


前を行くつむじを見下ろしてぼんやりしていると、兄が半分振り返って鋭くにらんできた。


「なあ、自転車は?」


黒目がきっと僕の顔を刺して、また前に向き直った。怒っている。早く答えないと殴られる。ええと……、何も思い出せない。朝はいつも通り自転車で駅まで行ったと思うんだけど、帰りは……。わからない。頭がぼんやりしている。


「自転車、そういえば、ない……なくしたかも」

「バカ野郎、ばあちゃんが買ってくれた物だろ。もっと大事にしろ」

「え……? あれは古くなって捨てたじゃん。今乗ってるのは電動のやつ」

「そうだったか」

「うん、駅まで遠いし坂が多いから、電動のほうがいいかなって……高かったけど、頑張ってバイトして買ったんだよ。言わなかったっけ?」


言ったと思う。買った時に報告した気がするし、兄は笑って聞いていた気がする。よくおぼえていないけど。兄も忘れているのか、特に答えなかった。


「まあ、自分で買ったやつでも大事にしなきゃいけないよね。あ……そうだ、自転車、駅に置いてきたかも……うん、たぶんそう。酔ってて危ないから、歩いて帰ることにしたんだ」

「……酔ってる? もう酒を飲める年になったのか」


兄がちょっとびっくりしたように僕を見た。弟の年齢を忘れたんだろうか。そんなわけないので嫌味だろうけど、遠回しに怒るのはめずらしい。もしかしてごまかせるのかな。

酒を飲んだ言い訳を考えていると、兄の歩調がゆるんで僕の隣に並んだ。ゆっくり歩きながら、兄が注意深く見上げてくる。というか、にらんでくる。ごまかせないな。


「おまえ、もう大人か?」

「……まだ」

「なんだ。なら早く」


兄はまた前に立って僕をきつく引っぱった。いつも以上に強引で、なんだか不安になる。


そうして僕たちは暗い夜道を歩き続けた。


暗くて静か。家が町はずれにあるから、途中から街灯もない。でも、それにしても暗すぎる。目の前の兄以外は何もかも暗闇に沈んでいる。酒のせいで意識が途切れかけてるんだろうか。

僕は一度座って休みたかったけど、兄は急いでいるようで、僕を引っぱってずんずん進んでいく。兄が早足で急いで、引っぱられる僕はふらふら適当に足を動かしてついていく。頭も体もぐらぐらする。


おかしいな、と思う。


何がおかしいって……暗すぎるし、身体の感覚が遠すぎるし、それに……兄が、そう、兄がいる。

兄は駅まで迎えに来てくれるほど優しくない、とかいう話じゃない、もっと根本的な違和感だ。

うまく説明できないけど、兄がこうして僕といるのは絶対に変だ、という気がする。


「ねえ兄ちゃん、なんでいるの? 僕を迎えに来たの?」

「おまえが転んだから」

「え?」


「おまえは転んだ」


兄は転びそうな速さで歩いて、振り向かない。


「転んだ……? 兄ちゃん、何言ってんの……」

「まさか忘れたのか? 新月の晩に出歩いてはいけない。もし出歩くなら、家に着くまで転んではいけない。ばあちゃんの教えだ」

「そういえば、そんなルールもあったかも……ていうか僕、転んだっけ」


──転んだ。


バス通りを曲がって、公園を通りぬけて、その次、最初の坂道で転んだ。酔いでくらくらして、傾斜につまずいた。強く膝を打って、痛いなあ、とうずくまっていたら、頭上から兄の声がふってきた。何してる、と第一声から怒っていた。転ぶな、バカ、と。


──転んではいけないのに、僕は転んだ。


そうだった。思い出した。思い出した途端に両膝がずきずき痛みはじめた。


「おまえは前と同じ坂で転んだんだ。マヌケ、と言ってやりたいけどな、しかたない、そういうふうに呪われた場所なんだよ。真夜中に歩くと転ぶ。自転車に乗っていれば大丈夫だったのに……新月の晩に限って、おまえ」


兄の声は怒りを含んでぴりぴり燃えている。その声が昔と同じだ。前に転んだあの時から変わっていない。

違う、声だけじゃない。全部…………


ざざあっと血が巡る音が耳を流れて、どんどんと心臓が鳴り始めて、急速に頭が冴えていく。


あ、と間抜けな声が口から洩れて、僕は無意識に腕を強く引いていた。兄の手を振りほどいて後ずさる。


兄は立ち止まり、静かに振り向いた。闇に浮かぶ白い顔のまんなかで、強い黒目が何も言わずにじっと見つめてくる。見上げてくる。


酔っていたとはいえ気づかなかったことが信じられない。


兄はもういない。ずっと前から、いない。


そのはずなのに今夜、僕は人生で初めて兄を見下ろしている。


……全部同じだった。目も顔も声も、服装も身長も、あの日のままだった。ビデオに撮ったままのように変わっていない。弟の僕よりもずっと小さくて幼い、中学一年生の姿。


「そんな、おかしい。ありえない。兄ちゃんは死んだのに……」


法的にも死んだことになっている。いなくなって七年経った時、失踪扱いから死亡扱いになった。

でも、それ以前から祖母も僕も諦めていた。仏壇に、両親の写真と一緒に兄の写真も並べていた。僕は写真の兄に話しかけていた。高校に受かったとか、バイトを始めたとか、自転車を買ったとか。死人相手にするように供え、祈り、話しかけた。

兄が帰らないことは僕も祖母も知っていた。

兄は死んだ。新月の決まりを破ったせいで死んだ。


「──新月の晩に出歩いてはいけない。もし出歩くなら、家に着くまで転んではいけない。転べば怪物が追ってくる。捕まれば怪物に食べられる」


僕はルールをそらんじた。このあたりの古い言い伝えだ。

小さい頃は子供心に、単純に暗いと危ないから出歩くなという教えだと思っていたけど、怪物は実在した。


兄は怪物に食べられて死んだ。


「ってことは……兄ちゃんは幽霊?」


僕が小さくたずねると、兄はちょっと考えるように眉を寄せてから、歯切れ悪く答えた。


「いや……うん……そうだな、おまえの言う通りだ。今ここにいるのは……幽霊みたいな感じだ。というか、これは夢だ。だから何も考えなくていい。俺のことはどうでもいいことだ」


はっきりしないが、やっぱり幽霊なんだろう。死んだはずの人が死んだ時のままそこにいる、それは幽霊だ。

ということは未練があるわけで、それはたぶん……僕だ。僕への復讐だ。

本当は、あの日、兄が消えたあの日、公園を出たところで転んだのは僕だった。なのに僕が前を走って先に帰ってしまったから。兄は僕の代わりに怪物に殺されたから。


逃げようか。


そう考えた時、背後から冷たい風が流れてきて、僕を捕らえるように頬を撫でた。


……後ろに。まだ遠いけど、後ろに何かいる。

耳を澄ますと、引きずるような音がした。一歩一歩苦労して歩くように、ずる、ずる、と遠くから近づいてくる。重い布を地面に引き摺るような、怪物めいた奇妙な音。いったいどんな姿のものなんだろう。


僕が恐る恐る振り返ろうとすると、兄が「見るな」と言った。


「見なくていい。あれは怪物だ。追いつかれないうちに早く行こう」


兄は焦った様子で手を伸ばしてきた。

そうは言っても、兄だって僕を殺したいんじなないのか。兄についていっても死ぬのは変わらないんじゃないか。

心臓が苦しいくらいに鳴っているのに体は冷たくなっていって、うまく動けない。

僕が手を取らないでいると、怯えたように見えたのか、兄は僕をまっすぐ見て、力強くうなずいた。怪物を恐れながらも、僕を励まそうとする振る舞い。それは一度目に転んだあの日の通りだった。


「兄ちゃん……」

「大丈夫。おまえを無事に帰してやる」

「どうして?」と僕は正直にたずねた。「兄ちゃん、僕のせいで死んだのに。なのに……恨んでないわけ?」

「恨まないよ、俺が好きで助けたんだから」兄はあっさり答えた。「怪物に捕まったのが俺でよかったよ。おまえがこんな目に遭わずにすんだと思えば、今日までの何もかも、大したことない」


当然のような顔で、兄はまったく普段通りだった。僕がびっくりして黙っていると、兄は真剣に語りかけてくる。


「俺は確かに怒りっぽいが、おまえが嫌いなわけじゃない。おまえは弟だ。弟が転んだのをほうっておくわけにはいかない。だから助けに来てやったんだ。とにかく、早く」


そこでちょっと言葉を切って、兄はふっと僕の後ろを見た。暗闇を映した目が閃光のように怒りを灯して、そのままの強さで僕に視線を戻した。


「早く帰ろう。子供の足なら危ないが、今のおまえならきっと追いつかれない」


兄が僕に近づいてきて、もう一度手を伸べた。僕は自分から掴み返した。ついていこうと思った。兄の手は少し冷たくて、くずしたゼリーみたいな溶けた保冷剤みたいな、ちょっと心もとない感触がした。僕が強めに握ると、兄はくすぐったそうに笑ってから、手を引いて歩き始めた。


背後の怪物は少しずつ距離を縮めてくるようだった。ずるずるずる、と少しずつ音が速く近くなってくる。だんだん不安になって、だんだん早足になって、二人ともほとんど走っていた。


兄は脚もあるし透けていないし走り方も元気で、あまり幽霊らしくなかった。


「兄ちゃん、本当に幽霊なの?」僕は少し怖くなって尋ねた。「幽霊っていうより兄ちゃんのままって感じで、なんだか……」

「そんなことは気にするな。ただ、今は早く家に帰ることだけを考えろ」


兄の声はいつもより優しく響いた。その声に励まされながら、僕は暗闇を走り抜けた。足元の感覚はぐにゃぐにゃしていたが、酔いはすっかり醒めて、さっきよりずっと速くまっすぐ進めた。だんだん、自分がどこにいるのか見えてきた。今は雑木林を通っている。よく知った帰り道だった。


やがて、家の明かりが遠くに見えてきた。町はずれの僕らの家で、玄関ポーチの灯りがつけたままになっている。久々に見る光にほっとすると同時に、兄と別れることへの寂しさが胸を締め付ける。


「兄ちゃん……家に着いたら、もう会えなくなるの?」


兄は少し沈黙した後、ふっと微笑んだ。


「ああ、そうだ。でも、お前が無事なら、それでいい」


僕は泣きそうになって何も言えず、強くうなずいた。家の玄関に到着した時、兄はふわりと手を放し、少し後ろに下がった。


「さあ、家に入れ。もう二度と新月の晩に出歩くなよ」


強い力で背中を押され、僕はつんのめって玄関のドアにぶつかった。


──途端、うるさい虫の合唱が耳を塞いだ。


虫がそこらじゅうで鳴いている。夏だ。暑い、と思って、今まで少しも暑くなかったことを思い出す。


どっと汗をかきながら、僕は慌てて振り返った。


兄はいなかった。


いつもの暗い夜道がしんと続いているだけで、兄の姿は跡形もなく消え去っていた。もちろん怪物のような存在もいない。

すべて夢だったとすら思える。

それでも、兄が自分を恨んでいないとわかって安心した。死人に言うのもおかしいが、兄が元気そうで安心した。

ああよかった。

明日、仏壇にお参りする時にしっかりお礼を言おう。


そこで、ふと思い出した。


僕が電動自転車を買ったことを、兄は知らなかった。

兄は僕を見守っていない。僕のそばにいない。仏壇に話しかけても聞こえていない。


兄の言葉を丁寧に思い出してみると、兄はずっとあそこにいるのではないかという気がしてくる。

怪物の這い回る場所。多分、死んでも会えないような場所にいる。

僕のせいで。

……厭だなあ。

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帰り道 岩須もがな @iwasumogana

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